偐万葉田舎家持歌集

2015/05/23(土)00:16

京都・蕪村銀輪散歩(その1)

銀輪万葉(673)

 次回読書会で凡鬼さんがお話し下さる葉室麟「恋しぐれ」は与謝蕪村やその周辺人物の織りなす恋模様を描いた短編小説集であるが、その舞台は京都である。  ということで、先日、京都を銀輪散歩して参りました。  京都駅前をトレンクルで出発。先ず、蕪村句碑があるという粟嶋堂に向かう。粟嶋堂は塩小路通りを西へ、堀川通りを渡り、リーガロイヤルホテル京都の北側を少し西に入った処にある。 (粟嶋堂、相棒のトレンクル君も)  (蕪村句碑)     粟嶋へはだしまゐりや春の雨 (蕪村) 蕪村の娘・くのは、茶懐石料理の仕出し屋・柿屋の長男・佐太郎に嫁ぐが、病気になって離縁となっている。上の句は蕪村が娘の病気回復を願って粟嶋堂へお参りした折のものであるのでしょう。  小説「春しぐれ」(「恋しぐれ」所収)では、「先方の親が金儲けのことばかりで、自身の思いと食い違ったので、娘を取り戻した。」という友人への蕪村の手紙が紹介されているが、その手紙に添えられていた句が、かの有名な「さみだれや大河を前に家二軒」であるという。  この句は芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」と比べて、正岡子規が蕪村に軍配を上げた句と記憶する。画家でもあった蕪村ならではの句であるが、背景に娘くのの病気と離縁というような事情が潜んでいるとするなら、また違った色彩も帯びて来るというものである。  人形供養の寺社は全国に沢山あるが、ここ粟嶋堂宗徳寺もその一つである。人形供養と言えば、和歌山市加太の淡嶋神社が有名であるが、このお堂も淡嶋神を祀るのであってみれば人形供養も納得というもの。境内には持ち込まれた人形たちを収めたお堂があり、淡嶋神社には遠く及ばぬものの、独特の景観を醸している。 堀川通りに戻り、これを五条通りまで北上。五条通りを東へ。五条大橋の手前、高瀬川沿いに少し南に入った場所に河原院跡の石碑があるので立ち寄ることに。  河原院とは左大臣源融の屋敷のこと。源氏物語・光源氏の邸宅・六条院のモデルとされる。4町(250m四方)とも8町(500m四方)とも言われる広大な敷地の邸宅であったらしい。河原院趾碑は高瀬川の東岸に建てられているので、河原院跡地の外側になるのでしょうが、まあ、偲ぶよすがとしては今はこれのみ。 (河原院趾碑) (同上説明板) 河原院と蕪村とは関係ないのだが、蕪村の句に「鬼老いて河原の院の月に泣く」という句がある。  小説「夜半亭有情」(「恋しぐれ」所収)では、蕪村が未だ若い頃に、下館の木綿問屋の主人で、蕪村と同じく夜半亭門人であった中村霞堂の家に滞在したことがあり、その際に主人の妻の美和と深い仲となってしまう。美和は蕪村の子を宿すが蕪村はそのことを知らぬままに下館から姿をくらます。年月が流れて成長したその子・与八は京の染物屋の職人となっているが、成り行きで蕪村との対面を果たすこととなり、既に死病に冒されていた与八は母・美和の形見の櫛を蕪村に託し、自分は蕪村の息子だと名乗る。その夜に蕪村が胸中でつぶやいた句が上の句だとされている。     身にしむや亡き妻の櫛を閨(ねや)に踏む (蕪村)ということで、河原院跡も踏んでみた次第。  (同上) 本覚寺、上徳寺に立ち寄った後、河原町通りを北へ。両寺は蕪村関連ではないので、此処では割愛。機会があれば追ってご紹介します。  次に目指すは与謝蕪村宅跡。仏光寺通りを西へ、烏丸通りを越えた処にそれはある。ついでに仏光寺にも立ち寄って行く。  ブロ友の新潟のふぁみり~キャンパーさんのお家の菩提寺の安了寺が真宗仏光寺派の寺院だとご紹介されていたので境内を覗いて行くこととしたもので蕪村とは無関係(笑)。 (仏光寺) (同上) 仏光寺の北側の通りが仏光寺通り。蕪村と仏光寺は無関係と書きましたが、小説「月渓の恋」(「恋しぐれ」所収)で、蕪村の弟子・月渓の恋の相手で紆余曲折の末その妻となるおはるの父親伝七は仏光寺通りの借家に住んでいることになっている。  月渓とおはるの婚礼の夜に蕪村が詠んだ句。      月天心貧しき町を通りけり      花守は野守に劣るけふの月 (与謝蕪村宅跡) 蕪村宅跡は仏光寺から200mばかり西に行った処、烏丸通りを越えて直ぐの処にある。啓明商事という染織物の会社建物の前にその碑が建てられている。 (同上説明板)(同上) 蕪村は上田秋成や円山応挙などとも親しく交際していたようだが、その応挙さんの屋敷跡は四条通りにある。蕪村宅からは5~600m程度の距離。不動産広告では80mを徒歩1分に換算する決まりになっているから、それに倣えば徒歩7~8分の距離に過ぎない。  四条烏丸で四条通りを東へ。河原町通りまで来てしまったが、円山応挙宅跡の碑が見当たらなかった。見落としたようなので引き返す。引き返そうとして自転車に跨ると来合わせた婦人警官から「ここは自転車乗れませんよ。」と注意を受ける。車道を行こうとすると車道も自転車乗り入れ禁止とのこと。渡されたビラはご覧の通り。 (自転車通行禁止の四条通り) 自転車を押しながら西へ戻る。するとありました。碑の前に店の看板などが出されていてよく見えなかったのでありました。  応挙「往生しまっせ。」 (円山応挙宅址碑) 文字数制限です。続きは明日に。(つづく) 

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