(承前)
昨日の日記記事の続編です。
和泉市と泉大津市の境目にあった弥生時代中期集落の遺跡、池上曽根遺跡を訪ねた銀輪散歩。昨日の記事はその往路編。今日の記事はその復路編であります。
午後2時過ぎに池上曽根遺跡を後にしましたから、滞在時間は10分か15分。目的地と言うには短すぎる滞在時間でしたが、家までの距離を考えるとそうのんびりともしていられないというもの。やって来た道・国道26号を今度は北上である。
和泉市、高石市を経て堺市に入る。往路で出会った、椅子付きの手押し車を押していたあのご老人に、また再会しました。復路は往路と反対側の車線や歩道を走っていたのですが、往路で老人にお会いした辺りまで帰って来て信号待ちをしていると、そのご老人が右側の歩道から横断歩道を渡ってこちら側の歩道にやって来られました。「やあ」と手を挙げて笑顔で目礼すると、先方も小生の姿に気が付いたようで、満面の笑みで、手を上げて挨拶を返して来られました。「先ほどはどうも。」と小生。それだけのことであったが、復路でもまたお会いするとは、よくよくこの方にご縁があると見える(笑)。一期一会ならぬ一期二会でありましたが、もう再びお会いすることはないでしょう。しかし、お互いに交わした笑顔の記憶はこの後も長らく残るような気が致しました。
ご老人が行こうとされている左へと延びている脇道は西向き。その方向には浜寺公園がある。国道26号からだと1.5km位の距離だろうか。偐山頭火氏と浜寺公園まで銀輪散歩したのは、いつのことであったかと調べたら、2008年4月27日のことでありました。
<参考>浜寺公園の万葉歌碑を訪ねて 2008.4.27.
この時は、同公園に移設されたばかりの万葉歌碑を見るのが目的であったが、今回はそちらに寄り道はしない。当該歌碑の万葉歌のみご紹介して置きます。
大伴の 高師の浜の 松が根を 枕き寝れど 家し偲はゆ
(置始東人 万葉集巻1-66)
(大伴の高師の浜の松の根を枕にして寝ていても、家のことが偲ばれることだ。)
浜寺公園には立ち寄らないが、大鳥大社には立ち寄る心算でいました。次の浜寺南町3丁交差点を右(東方向)に入ること500m位で、その大鳥大社の鳥居前に到る。
(大鳥大社)
鳥居脇の玉垣にMTBを繋ぎ留めて、徒歩で境内へと進む。
先ず、目に入って来るのは、ヤマトタケルの像。
大鳥大社はヤマトタケルを祭神とする神社である。
伊勢の能褒野で命が尽きたヤマトタケルの屍は大きな白鳥となって飛び立ち、最後にこの地に来て、暫く留まった後、天に向かって飛び去ったというのである。
古事記や日本書紀の記述では、白鳥は古市にとどまった後、天に向かって飛翔したこととなって居り、堺市鳳の地は登場しない。
(注)「白鳥、また飛びて河内に至りて、旧市邑に留る。(略)然して遂に高く
翔びて天に上りぬ」(日本書紀景行天皇40年是歳の条)
「故、其ノ国より飛び翔り行き、河内国之志幾に留まりましき。(略)亦
其地より更に天に翔りて飛びいでましき。」(古事記中巻景行記)
(日本武尊像) (神馬像)
大鳥大社の、もう一つの主祭神は大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)である。大鳥連の祖はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)であるから、大鳥連祖神とはアメノコヤネのことである。アメノコヤネは枚岡神社の神であるから、まあ、枚岡から遠路やって来たヤカモチとしてはご挨拶は欠かせないというもの。
元々は、この地を支配していた大鳥連がその祖神であるアメノコヤネを祀っていたのがこの神社であったのだろう。古事記や日本書紀に於けるヤマトタケルの白鳥伝説の「大きな白鳥」と「大鳥」とが結び付いて、この地にも白鳥が降り立ったという伝説が生じ、この神社の祭神に日本武尊を加えたものと推察される。
尤も、37年も以前に読んだ本、水谷慶一著「知られざる古代・謎の北緯34度32分をゆく」によると、伊勢斎宮跡と淡路島の伊勢の森を結ぶ北緯34度32分の線上に太陽信仰に関連する神社や遺跡がズラリと並び、大鳥大社もその一つということであるから、単なる言葉の符合とは別の要因も介在しているのかも知れない。
因みに、東からその主なものを列挙すると、斎宮跡、丹生寺、堀坂山、大洞山、倶留尊山、室生寺、長谷寺、三輪山、大神神社、箸墓、二上山、聖徳太子墓、大鳥大社、伊勢の森などである。
<参考>大鳥大社・Wikipedia
(大鳥大社説明板)
和泉国の一之宮だけあって、立派な佇まいの神社である。
河内国の一之宮の平岡連もこちらの大鳥連も中臣氏の支族であるから、中臣氏と同じアメノコヤネを祖神とするが、枚岡神社が中臣氏から藤原氏へと分化して以降の藤原氏に近い関係を保ったことが春日の神の武甕槌や経津主を勧請して主祭神に加えたことからもうかがえるのに対し、大鳥大社の方は、ヤマトタケルを祭神としたこともあってか、藤原氏との関係がそれほど密接でもなかった所為か、春日大社とは別の路線を取ったように思われます。祭神を天児屋根命と表現せず大鳥連祖神と表現していることでもそれがうかがえるのではないでしょうか。
(同上・拝殿)
本殿の造りは大鳥造りという独自のもので出雲の大社造りと住吉造りの中間形態だそうだが、神社の建物形態についてはよくは存じ上げないので、そうですか、と言うほかはない。枚岡神社などの春日造りとは異なる造りである。
拝殿前の鳥居脇左にオガタマノキがありました。オガタマノキとは神道思想の「招霊・おぎたま」から来た名前らしいが、神のヨリシロとなる榊の一つである。オガタマノキは植物学的には常緑樹にてモクレン科に属するそうな。
(本殿) (オガタマノキ)
(大鳥大社案内絵図)
(摂社・大鳥美波比神社)
こちらの摂社・大鳥美波比神社ではアマテラスを祀っている。
その参道入口手前左側には平清盛の歌碑がありました。
後白河院政派と二条天皇親政派との対立の中で、院政派にあって政治を取り仕切っていた信西への反発から、これを支えている平清盛・重盛が熊野参詣をしている空隙を狙って、二条親政派が起こしたクーデター、所謂、平治の乱が勃発する。この知らせを受けて清盛らは急ぎ都へと帰るのであるが、その途中に大鳥大社に参詣し、戦勝を祈願して、和歌1首と神馬1頭を献じたらしい。
それよりも驚いたのは、右の説明板の最後のくだり「大宮司富岡鉄斎翁の筆により・・」の部分でした。あの鉄斎が一時期この大鳥大社の宮司を務めていたことを初めて知りました。
(平清盛歌碑)
そして、ここにも与謝野晶子の歌碑がありました。
(与謝野晶子歌碑)
和泉なる わがうぶすなの 大鳥の 宮居の杉の 青き一むら (与謝野晶子)
大鳥神社を出たのは午後3時少し前。石津川を渡り、中央環状線と連絡の堺区安井町交差点に出る。これを左に取って西に向かえば宿院駅、与謝野晶子生家跡の近くであるが、これを訪ねるのは次の機会とし、右折して東へと帰る。ここからは仁徳天皇陵北側の向陵西町交差点までは上り坂である。往路で下り坂で楽した分、復路ではそれを返さねばならない。銀輪散歩は常にプラスマイナスゼロ、イーブンなのである。
ほぼ、坂を上り切った処で赤信号。信号待ちの間に撮った写真がこれ。
(仁徳天皇陵の濠)
仁徳天皇陵は広大、巨大過ぎて上空などから撮影しない限り、その全貌は写せない。従って、どちらに回ってもこの程度の写真しか撮れないので、パスすることとしました。此処も以前に友人の偐山頭火氏と銀輪散歩に来ているが、それは2007年2月11日のことで、この折であったかMTBに距離計を付けている同氏より、今日の走行距離は100kmを超えている、と言われたことを記憶している。記憶違いで別の折であったかも知れないが、かつては同氏とそのようなロングライドをよくしたのでもありました。
で、その折に作った歌のうちから2首ここに掲載して、仁徳陵へのご挨拶に代えさせていただきます。
おほさざき ますみささぎの いづへにか 恋のなみだの あとやとどめむ
みささぎを めぐりしほりの みちのべに もずは鳴かねど らしきめしくひ
仁徳天皇の皇后、磐之媛のことを思っての歌が1首目。2首目は、御陵の近くの食堂で昼食に「もず野定食」というのを食べたことを詠んだもの。
仁徳陵の東側に御陵に沿うようにJR阪和線が通っている。丁度電車がやって来たので跨線橋の上からこれを撮りました。写真奥にみえている駅は三国ヶ丘駅である。
(JR阪和線・三国ヶ丘駅<中央環状道路跨線橋から>)
その後は、もうひたすら走るのみでありました。
花園中央公園に帰って来たのは午後5時50分頃。ここで暫く休憩して園内を散策の後、帰宅でありました。日没の頃に帰宅となりましたので、時間的には計画通りでした。
(花園中央公園夕照)
以上で、池上曽根遺跡への往復銀輪散歩の記事完結であります。最後までお付き合いありがとうございました。