偐万葉田舎家持歌集

2020/05/07(木)15:04

若かへるでのもみつまで

花(405)

​ ​花​散歩記事用の写真在庫も残り少なくなってまいりました。  そろそろ、取材に出歩かなければならないか。  それはともかく、今日は、カエデの話。  昨日の記事が「カモジグサ」で終わりましたので、「か」文字草ではないが、同じく「か」文字の木であるカエデを取り上げる次第。  モミジと言えば、カエデのことを言う場合が多い。  カエデの品種名で〇〇モミジというのもあったりするから、カエデとモミジは一体化しつつある。そんなこともあって、カエデが脚光を浴びるのは秋というのが相場となっている。  しかし、五月の若カエデも秋のそれに劣らず美しい。見方によれば、秋よりも美しいかもしれない。 ​​ (青楓)​  カエデは漢字では楓と書く。  中国では「楓」と書けば「木犀」のことらしいが、日本ではカエデのことである。  しかし、昔からずっとそうであったかと言うと、そうでもなくて、平安時代初期には「楓」と言えば「桂」のことであったようです。  万葉集の歌でも「楓」と書いて「かつら」と読ませているのがある。 もみちする時になるらし月人の かつらの枝の色づく見れば (巻10-2202) ​(原文)黄葉為 時尓成良之 月人 楓枝乃 色付見者​  新撰字鏡には「楓 香樹 加豆良」とあり、倭名類聚鈔には「楓 一名攝 風攝二音 和名乎加豆良」とあることからも、楓を「かづら、かつら」と読んだのは確かである。  今、我々が「桂」と呼んでいる木は、雌雄異株で、雄株のカツラと雌株のカツラとがあり、雄カツラに「楓」という字を当て、雌カツラに「桂」という字を当てたのである。そして、一般に「かつら」と言えば雄カツラである「楓」のことを意味したのである。  上の万葉歌の意味は「黄葉する時になるらしい。月の男がかざすかつらの木の枝が色づくのを見れば。」というもの。  古代の人は、月には桂の巨木が生えていて、それが黄葉するので、秋の月はひときわ鮮やかに輝くのだと考えたよう。  これは、古代中国の伝説によるものである。 <参考>西陽雑俎・前巻1・天咫、其の他     「旧言、月中有桂、有蟾蜍、故異書言、月桂高五百丈」     ※蟾蜍=せんじょ。ヒキガエルのこと。         西王母の秘薬を盗んだ「こう娥」が月に逃げ         込み、ヒキガエルになったという後漢書の記         述による。     ※こう娥の「こう」は女ヘンに亘と書く。​ ​​ (同上)​  新撰字鏡に「香樹」とあるが、桂の木には香りがないこと、中国で「桂」というのは木犀であること、などから、この木は「桂」ではなく「木犀」だとする説もあるとのことだが、「楓」「桂」だけでもややこしいのに「木犀」まで割り込んで来ると、何の話をしているのか分からなくなるので、木犀のことは無視します。  ともかく、月には桂があると古代の人は考えた。  月桂を攀じる、という言葉は「出世する」という意味で使われるが、ここで、月桂樹というクスノキ科の常緑樹のことが思い浮かぶ。この木は地中海沿岸原産の木で、ギリシャ・ローマ世界では神聖な木(アポロンの聖樹)とされ、古代ギリシャではこの若枝で編んだ月桂冠を勝利者や優秀な者に授与するということが行われた。  古代中国の月桂と古代ギリシャ・ローマ世界の月桂樹との関係がどうなのかは知らぬが、世界の中心に、天界・地上界・地下界を貫く、聖なる巨大な1本の木(宇宙樹、世界樹)があって、それが世界の秩序を体現しているという思想は、広く世界各地の民族の伝説に見られることであるので、根は同じものであるのだろう。  月桂樹はクスノキ科であるから芳香がある。ローリエはこの葉でハーブとして料理に使われる。英語ではローレルで、わが母校の前身たる旧制高校寮歌の歌詞にもローレルという言葉が含まれて居り、その同窓会の名称はローレル会と称していたかと記憶する。  話が脱線しているようだが、「かつら」が香樹だとしている新撰字鏡の記述からは、この月桂樹こそが相応しいのではないか、ということを言ってみたかったのであります。月桂樹も雌雄異株であるから、この場合は、雄株の月桂樹が「楓」ということになる。  木犀を無視したのに、月桂樹が割り込んで、益々ややこしいことになりました。  話を戻して、月が秋にひときわ美しくなるのは月の桂が色づくからだということを、もっと端的に詠っている歌が古今集にある。 久方の 月の桂も 秋は猶 もみぢすればや 照りまさるらし                     (壬生忠岑 古今集巻4-194)  さて、ここまでは「楓」という漢字に、導かれての話にて、カエデよりもカツラ(桂)の話になってしまいました。  ここまでは序論、そろそろカエデの本論に入ります。  長い序論やなあ~。  すみません。 ​​ (同上)​  カエデは万葉では「かへるで」である。 わが屋戸に もみつかへるで 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日は無し                          (大伴田村大嬢 万葉集巻8-1623)  この歌の「かへるで」は、原文では「蝦手」である。 子持山 若かへるでの 黄葉もみつまで 寝もと吾わは思もふ 汝なは何あどか思も​ふ                             (東歌 万葉集巻14-3494)  この歌の「かへるで」は、原文では「可敝流弖」である。  新撰字鏡では「鶏冠樹、加戸天」とあり、倭名類聚鈔では「楊氏漢語抄云鷄冠木 賀倍天乃木 辨式立成云 鷄頭樹 加比留提乃木 今案是一木名也」とある。  蛙の手だけでなくニワトリのトサカまで話が広がっては収拾がつかなくなるので、話はここまで。 (注)鷄冠木、鷄頭樹の「鷄」は、原文では「鳥」を「隹」にした字である。​ ​​ (同上)​  蛙については、カエルに対してカワズという言葉もある。  万葉集でも、河津、川津、川豆、河蝦などの表記で「蛙」の歌がある。  この両語は、かえる(旧仮名では「かへる」)は日常語、かわず(旧仮名では「かはづ」)は歌語として使い分けがされて来たようである。  カエデの葉が蛙の手に似ているから「カエルデ」と呼ぶようになったというのも、それは日常生活の中でのこと。それは、口語的世界の中で生まれた自然発生的な語であるから、「かえるで(かへるで)」なのである。文語的世界の言葉である歌語の「かはづ」と結びついて「かはづで」などという語は生まれようもなかったのであろう。  万葉の「かはづ」は、河鹿、カジカガエルのことである。  万葉の蝉がすべてヒグラシであるのと同じ。  彼らはこれらの生物を視覚的に認識して歌に詠んでいるのではなく、その鳴き声を聴覚的に認識して詠んでいるのである。  よって、万葉の蛙と蝉は「声優」だということになる。 ​​ (同上)​  そのカエデですが、花園中央公園では、早くも実を付けている木もありました。 ​​ (カエデの花と実)​  天才バカボン風に言えば、トンボとカエルが結婚するとトンボガエルなのだ、ということになるが、トンボとカエデが結婚したら竹トンボになるのかもしれない。カエデの実は竹トンボとよく似た形をして居り、飛ぶ原理も同じである。  結局、本論の方もカエデの話よりもカエルの話になってしまいました。  しかし、今日はこれでいいのだ。おしまい。​​​​​

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