偐万葉田舎家持歌集

2023/01/09(月)10:54

中学時代の恩師のお墓参り

銀輪万葉(673)

​​​​(​承前​) ​​​​​​​​​​​​​​ 前頁の邂逅展のついでの、恩師のお墓への「ついでお墓参り」であります。  まあ、「ついでに」というのは、恩師・井〇先生には失礼でありますので、内緒に願います(笑)。  ヤカモチの中学時代は、1学年10学級あったので、一回のクラス替えで再び同じクラスになる確率は10%であるから、クラスメート50名のうち5名ということになる。2年生から3年生になる時にもう一度クラス替えがあるから、この5名が同じクラスになるのは0.5人の割合ということになる。  従って、完全無作為にクラス替えを行えば、3年間同じ先生のクラスとなる生徒は0~1人ということであるが、ヤカモチともう一人嶌郎女さんという女生徒の2人が井〇学級で3年間同じクラスであった。これが偶然ということなら、井〇先生とは余程に強いご縁があったということになるのだが、実際のクラス替えは無作為ではなく、別の要素も加味して行われるようであるから、この生徒は私の組に欲しいとか、この生徒は問題児であるから、引き続き私の組で面倒を見るしかない、といった先生同士のやりとりによる調整もあったようである。ヤカモチの場合は、多分に後者の問題児の口で、3年間井〇先生にご面倒をお掛けすることになったのではないか、と推測している。  そんなこともあってか、卒業後も井〇先生との交流は続き、先生がお亡くなりになったのは、2003年5月であるから間もなく20年になるのだが、クラスメート数人によるミニクラス会は今も健在で、先生亡き後もその交流は続いている。  ということで、今年も昨年に続き、邂逅展に出かけたついでの墓参となった次第。  昨年は一つ北側の大宮通りを西へと走り、朱雀門にご挨拶したのだが、今年は三条通りを西へと進む。 ​​ (朱雀門遠望)  朱雀門は、三条通りからは遠望してのご挨拶となる。  更に西進すると、近鉄線踏切。尼ヶ辻駅前である。 ​​ (近鉄橿原線・尼ヶ辻駅)  駅の西側に見えているのは垂仁天皇陵である。 ​​ (垂仁天皇陵)<参考>​垂仁天皇​・Wikipedia  遙拝所は南側であるので、北側の三条通りからだと裏側になるが、一応ご挨拶して行く。  昨年は、暗越奈良街道(国道308号)を道なりに走り、安康天皇陵には立ち寄らないままに通り過ぎてしまったので、今回はこれに立ち寄るべしで、宝来付近の分岐で右側の脇道を直進することにする。  すると、手前の蓬莱神社の前に出た。 ​​ (蓬莱神社)  蓬莱神社の祭神は、須佐之男命とその妻・櫛稲田姫命のようだが、垂仁天皇の時代に田道間守が蓬莱山から不老不死の実、「ときじくのかくのみ(非時香菓)」を持ち帰った(垂仁天皇90年2月)という話に由来するものであるか。  この実は、橘の実と考えられている。  万葉集の大伴家持の歌にも、そのことが詠われている。 かけまくも あやに恐(かしこ)し 天皇(すめろき)の 神の大御代(おほみよ)に 田道間守(たぢまもり) 常世(とこよ)に渡り 八矛(やほこ)持ち 参(ま)ゐ出来(でこ)し時 時じくの 香久(かく)の菓子(このみ)を 恐(かしこ)くも 残したまへれ 国も狭(せ)に 生(お)ひ立ち栄(さか)え 春されば 孫枝(ひこえ)萌(も)いつつ ほととぎす 鳴く五月(さつき)には 初花(はつはな)を 枝(えだ)に手折(たを)りて 娘子(をとめ)らに つとにも遣(や)りみ 白たへの 袖(そで)にも扱入(こき)れ かぐはしみ 置(お)きて枯(か)らしみ あゆる実(み)は 玉に貫(ぬ)きつつ 手に巻(ま)きて 見れども飽(あ)かず 秋付(づ)けば しぐれの雨降り あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅(くれなゐ)に にほひ散れども 橘(たちばな)の なれるその実は ひた照(て)りに いや見(み)が欲(ほ)しく み雪降(ふ)る 冬に至れば 霜(しも)置(お)けども その葉も枯(か)れず 常磐(ときは)なす いやさかばえに 然(しか)れこそ 神の御代(みよ)より 宜(よろ)しなへ この橘を 時(とき)じくの 香久(かく)の菓子(このみ)と 名付(なづ)けけらしも  (大伴家持 万葉集巻18-4111)  反歌橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し  (同 万葉集巻18-4112) 天平8年(736年)11月、葛城王、佐為王らに橘宿祢を賜姓することを許可する旨の詔勅が出され、葛城王は橘諸兄、佐為王は橘佐為と改名するが、この時に詠まれた聖武天皇御製歌が「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(万葉集巻6-1009)」である。上の大伴家持の歌はこの御製歌を意識して詠まれたものと思われる。 ​​ (同上)  蓬莱神社の裏手を西に回り込むと安康天皇陵に行き着いたのであるが、どうやら、これは裏口のようである。ぐるりと御陵の縁を回り込んで正面の遙拝所に移動。  近道と思ったヤカモチであったが、却って遠回りをしてしまったのかもしれない。まあ、何にしても、またしても「裏口」からの入場となった次第。 ​​ (安康天皇陵)<参考>​安康天皇​・Wikipedia  安康天皇は第20代天皇。允恭天皇の第2皇子または第3皇子。第21代雄略天皇の同母兄。皇后・中蒂姫(なかしひめ、古事記では「長田大郎女」)の連れ子・眉輪王(まよわのおほきみ、古事記では「目弱王」)に暗殺された天皇でもある。  暗殺に至る経緯は次の通り。  安康天皇は、大草香皇子の妹を​​​​​​​同母弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妻にと​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​考えて根使主(ねのおみ)を遣わす。病気がちだった大草香皇子はこれを大いに喜び「かたじけなきこと」と受諾、そのしるしの品として「押木珠蔓(おしきのたまかづら)」を奉献すべく、これを根使主に託す。ところが根使主はこれを天皇に差し出さず、横領してしまう。そして、そのことがバレないようにと、「大草香皇子様は、同族の風下に立つことなどできぬと太刀を手に大変な怒りようでありました。」などと讒言する。  この嘘を信じた天皇は、大草香皇子を殺し、その妻であった中蒂姫を自分の妻にしてしまう。(安康天皇元年2月)  大草香皇子と中蒂姫の間の子、眉輪王(当時7歳)は天皇と中蒂姫との会話から自身の実父の死の真相を知り、天皇が熟睡している隙に、父の仇と天皇の首を打ち斬って殺してしまう。(安康天皇3年8月)  眉輪王は、即位前の雄略天皇によってすぐに殺されている。 ​​ (同上) ​​ (同上・参道入口)  日本書紀には「菅原伏見陵に葬りまつる。」、古事記には「御陵は菅原の伏見の岡に在る也」とあるが、宮内庁は此処がその墓所・菅原伏見西陵だとしている。  しかし、此処は古墳ですらなく、室町時代のこの地域の有力氏族、宝来氏の山城である大和宝来城の跡だという説などもあるようで、かなり怪しいのである。尤も、古墳を潰して山城に造り変えたということも考えられるから、室町時代の山城跡説とそれ以前は古墳であったという説とは必ずしも相反しないとも言える。  安康天皇陵を出て、阪奈道路(県道1号)と第2阪奈道路をつなぐ宝来ランプの高架下をくぐり、阪奈道路に出る。奈良国際ゴルフ倶楽部の中央を横断する形で阪奈道路が通過している。その歩道部分を西へと進む。  さすがに、この道を自転車で走っている人はいない。勿論、歩いている人の姿もない。 ​​ (阪奈道路・奈良国際GCを横断中)  ゴルフ場を左右に見つつ坂を上り切るとゴルフ場クラブハウスへの入り口道路の前に出る。ここで、時刻は、と見ると12時半近くになっていました。道路向かいにレストランがあったので、ここで昼食とする。  昼食後、店を出て、近鉄学園前駅方向に走る。何処かで西に入るつもりでいたが、地図を持参しなかったので、これと決めかねているうちに学園前駅に来てしまう。 ​​ (近鉄奈良線・学園前駅)  是非に及ばず。線路の北側の道に出て、これを線路沿いに西へ。  富雄駅の北側を通過して、富雄川に出る。  富雄川を渡り、右岸(西岸)の道を下流(南)方向に進む。  昨年は、霊山寺よりも下流側に出てしまったので、もう少し上流側で富雄川に出るつもりで、阪奈道路を走ったのであったが、これは自転車には余り心地よくない道で、何処で脇道に入るかがイマイチよく分からなかったこともあって、昨年以上の遠回りになってしまった。 ​​ (霊山寺前)  霊山寺北側の急な坂道を上り切ると、霊山寺東光院霊園である。 ​​ (霊山寺・東光院霊園説明案内板)  事務所の供花販売コーナーで花を買い求め、井〇先生墓所へと向かう。 ​​ (同上・井〇先生墓所はこの通路から入る。)  昨年は5月17日に、級友のひろみの郎女さん、喜多麻呂君、谷麻呂君と4人で墓参をしているので、ほぼ8ヶ月ぶりの墓参になる。 <参考>​中学時代のクラスメイトと恩師墓へ​ 2022.5.17. ​​ (同上・井〇先生墓)  墓参を済ませて帰途に。  上って来た急坂道を一気に下り、霊山寺の北隣にある葛上神社に立ち寄ってみる。この神社は、以前、石段下の鳥居の写真を記事に掲載した記憶があるが、石段の上の境内に上ったことがあるのかどうか、記憶が定かでない。 ​​ (葛上神社・石鳥居)  鳥居の脇に梅の花がもう咲いているのか、と近寄ってみると、それは梅ではなく、桜の花でありました。  ヒマラヤザクラか何か、冬咲きの品種なんだろう。 ​​ (同上・桜)<参考>​ヒマラヤザクラ​・Wikipedia  石段を上って本殿へ。 ​​ (同上・拝殿)  初めて境内に上って来たかと思いましたが、さにあらずで、下記参考の古い記事に、鳥居の写真と共に拝殿の写真も掲載されていましたから、少なくとも一度は上って来ていることになる(笑)。 <参考>​墓参と銀輪行​ 2009.5.24. ​​ (同上・本殿)  拝殿の左手に回り込んで本殿を撮影。 ​​ (同上・本殿) ​​ (同上・絵馬)  拝殿の右手に回ると、「葛上御社古跡」と刻された石碑があった。  古くは、こちら側に、本拝殿が建っていたのだろう。 ​​ (同上・葛上御社古跡の碑)  その石碑の背後にあったのが、しめ縄が張られた石。  どのようないわれのある石なのかは不明である。 ​​ (同上・何の石か?)  帰ろうとしていると、若い女性が一人で参拝に来られた。  「こんにちわ」と挨拶だけ交わして、石段を下り、石段下に駐輪して置いたトレンクルに跨り、富雄川沿いに近鉄富雄駅へと走る。 ​​ (カラスの落ち穂拾い)  途中の、刈り取りの終わった田んぼにカラスの群れ。  落ち穂ひろいをしているのか。  生ゴミなど、ゴミ箱をあさるカラスは迷惑至極であるが、田んぼで落ち穂をついばんでいるカラスは好感が持てる(笑)。 あをによし 奈良の都の 烏らは 落ち穂ひろへど ごみはあさらじ (偐烏持)  近鉄・富雄駅に到着です。 ​​ (近鉄奈良線・富雄駅)  駅前で、輪行バッグを取り出し、トレンクルをたたんで収納。  以上で、邂逅展のついで墓参兼銀輪散歩終了であります。  最寄り駅の二つ手前の石切駅で途中下車。そこから、自宅まで再び銀輪散歩としましたが、これが失敗。  石切駅の改札口前で、トレンクルを取り出し、輪行バッグをザックに仕舞って、自宅まで走ったのですが、玄関に入ろうとして、石切駅改札口前にペットボトルのお茶(未開封)とそれを入れた収納保護ケースを置き忘れたことに気付く。取りに戻るのはやめにしようかとも思ったが、思い直して、トレンクルよりもスピードの出るCV(クロスバイク)に乗り換えて石切駅までトンボ返り。置き忘れた場所に、それはそのままにありました。  無事回収して、めでたしでありましたが、経済効率を考えると、取りに戻るよりも、諦めて新しいのを買った方が得策であったのかも。  しかし、SDGsの考え方に立てば、回収する方が環境負荷が少ないということになるのだろう。自宅・石切駅自転車往復でヤカモチの吐き出す炭酸ガスは微々たるもの、さしたる環境負荷にもはなりませぬから。  出だしと締めくくりでのダブルの「置き忘れ」、どうやらヤカモチ本体の方は持続可能性が怪しくなってきたようだ(笑)。 ​​​​​​​​​​​<参考>​中学同期関係の過去記事は​コチラ​。     銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記。     ​銀輪万葉・奈良県篇​     ​銀輪万葉・奈良県篇(その2)​ ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​  ​​​​

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