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偐万葉田舎家持歌集

全23件 (23件中 1-10件目)

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言葉遊び

2018.11.23
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カテゴリ:言葉遊び
​​​​​ ざなみ。
 漢字では、漣、細波、小波などと書く。
 ささら波、さざれ波というのが古い形で、これが「さざ波」に変化したのだろうか。いや、そうではなくて、そもそも「ささ」は、「ささいな」という言葉があるように、「とても小さなこと」、「ほんのわずかなこと」、「とるに足りないこと」などを意味するから、「ささ」と「波」がくっついて「さざ波」というだけのことなんでしょう。
 「ささら」や「さざれ」は、「ささ」に、親愛の気持ちを込めてものを呼ぶ場合に付ける接尾語「ら」や「ろ」などがくっついたもの、「ささ」の派生語と見るべきなんでしょう。
 意味は、
  1.水面に一面にできるこまかい波
  2.小さな心のゆれや争いごと
  3.琵琶湖南西部沿岸の古地名 とあるが、ここでは勿論、1.の意味の「さざ波」のことである。​

(さざなみ)
 波というのは、或る場所で起こった変動が、次々に他の場所に伝わる現象のことである。波を伝えるものを媒質というから、上のそれは水を媒質とした波ということになるが、もう少し正確に述べると以下のようになるか。
 水を媒質として、毎秒1m以上5m以下の弱い風(1m以下だと波は生じない)によって起こされた表面の変動(乱れ)を、元の状態にもどろうとする力・表面張力によって引き起こされる水の表面の動き・運動のこと。このように表面張力が主たる復元力となって生じるものを表面張力波と言うのに対して、重力が主たる復元力となって生じるものを重力波と言うらしいが、この辺まで来ると段々理解が怪しくなって来る。こういうのを、寄る「年波」と言う。
 要は、さざ波は風のエネルギーが水の運動エネルギーに変換される過程で生じる現象である。「要は」とか「つまるところは」とか言い出すと、それは曖昧な理解を曖昧なままに他の表現に置き換えて「理解した」気になるという「年波現象」であるから、要注意なのである(笑)。​

(同上)
 波を見て、それはどのようなメカニズムで起きているのかなどと考えていては、歌や詩は生まれない。それはそれとして在るがままに受け止め、それに対して自分は何を感じるのか、何を思うのか、何を連想するのか、などという、言わば「あらぬ方向」に向かうことが、詩歌の方向、文学的方向ということになるが、偐万葉は所詮言葉遊び、年波や人波や流行の波や秋波などの派生語や片男波とかさざなみの大津などという万葉関連の言葉へと思いが向かうのである。
 更に、波のつく国名には、ペルシア(波斯)、ポーランド(波蘭)がある。ペルシアの「波斯」はひっくり返すと「斯波」。室町時代の守護大名・斯波義将の「斯波」であるなどとあらぬ方向へ脱線するのも偐万葉の得意技である。しかし、あらぬ方向もここまで来ると、支離滅裂である。
 偐万葉であるから、無難なところで、上記3.の意味である「さざなみの大津」に向かうことといたしましょう。
 万葉歌人、高市黒人が「近江の旧き都を感傷して作れる歌」として、次のような歌がある。

(いにしへ)の人に我あれや楽浪(ささなみ)(ふる)(みやこ)を見れば悲しき (高市黒人 巻1-32

(私はいにしえの人なんだろうか。さざなみの古い都の跡を見ると悲しい。)

楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)のうらさびて荒れたる(みやこ)​見れば​悲しも(同 巻1-33

(さざなみの土地の神様の威勢が衰えて、すっかり荒れてしまった都を見ると悲しい。)

​​​
(高市黒人歌碑 2017.1.27.記事掲載写真の再掲)
<参考>​百穴古墳群から近江神宮・弘文天皇陵へ 2012.1.27.​​

 また、「玉だすき 畝火の山の 橿原の・・」で始まる、巻1-29の柿本人麻呂の「近江荒都歌」にも「・・石走る 淡海の国の さざなみの 大津の宮に・・」というのがあるが、上述の通り、「さざなみ」というのは、琵琶湖南西部沿岸の地の古名である。
 現在も、瀬田の唐橋東詰から近江八幡にかけての、琵琶湖東岸の道、滋賀県道559号線近江八幡大津線の愛称として「さざなみ街道」が使われてい
る。自転車専用道も並走していて、銀輪散歩には最適な道の一つでもある。

(近江荒都歌・歌碑 2013.1.7.記事掲載写真の再掲)
<参考>​大津歌碑散歩(その1)​ 2013.1.7.

 上記の人麻呂の長歌は、上の歌碑かその写真掲載の参考記事でお読みいただくとして、その反歌2首を下に記して置きます。

(ささなみ)の志賀の唐崎(からさき)​幸​(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ(柿本人麻呂 巻1-30

(ささなみの志賀の唐崎は、今も無事で変りはないが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている。)

楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも (同 巻1-31

(さざなみの志賀の入江は今はこのように淀んでしまっているが、昔の人にまた逢えるのだろうか。)
 「さざなみの大津」については、上述の通り「さざなみ」は地名だとして、さざなみの地の大津だとする解釈がある一方、「さざなみの」は大津にかかる枕詞だとする解釈もある。
 枕詞としての「さざなみの」は、大津、志賀、比良、近江などにかかるほか、波には文
(あや)​があるから「あやし」に、また、波は寄るから「寄る」「夜」にもかかる、とまあ、これも言葉遊びの類ではある。
 言葉というものを情報伝達の手段とのみみなすならば、結論を先ず述べてその理由や背景事情は結論の後に述べた方が相手には明確に意味・意思が伝わるから、枕詞などというものはそもそも不必要である。
 落語でも「枕」があるように、いきなり本題に入るのは「不粋」というのが日本の文化。手紙でも、時候の挨拶などというのがあるのと同様である。用件を伝達するということであるならば、前置きの文章などは、もって回った言い方になるので、実用的とは言えない。まあ、そもそも肯定文なのか否定文なのかは、最後まで聞いて「である。」か「ではない。」かでやっと分かるのが日本語。本来的に持って回った言い方になるのが日本語の特徴で、そのような言い回しが好まれるのは、我々の文化は、互いに相手の気持ちを察し合うことをよしとし、あからさまな言い方は野暮とする文化、ちょっと前までよく耳にした悪名高き「忖度」という言葉を敢えて使うなら「忖度文化」ということになるのでしょう。枕詞はそのような文化の産物でもあるか。
 枕詞も本来は、その地の神様を褒め、敬意を示すための呪術的な言葉であったのでしょうが、そのような宗教的な意義が希薄となり、文学的装飾となったものと言える。このような枕詞というものがある文化というのは、言葉は「飾り」、意は「言外に在り」ということで、言葉の「曖昧性」「多義性」を「そこはかとなき」雰囲気として楽しむという文化と言えるのかもしれない。
 法律用語や学術用語は、曖昧性・多義性があっては困る場合が多いので、一定の定義がなされた上で使用されることになる。Aさんの定義とBさんの定義が異なっていれば、同じ言葉を使ってもAさんとBさんとでそれが有する意味合いは違ったものとなり、異なった理解が生じることとなるからである。言葉は共通の定義の下で使われなくてはならない。
 我々の日常に於いては、言葉の定義のすり合わせなどはせず、会話なり議論をすることになるが、時としてこのような相互の言葉の持つ意味の幅や使い方に対する感覚のずれから誤解や反感が生まれたりもする。ネットなどよくは知らない者の間でのやりとりは、冗談が冗談でなくなったりもして「さざなみ」が立ったり、「さざなみ」では済まない「波風」が立ったりもするので、要注意ではあります。
 或は、意図してこのような言葉の持つ曖昧性・情緒性を奇貨として不特定多数に対し政治的な利用目的をもってする言動を煽動と言う。その最も卑しむべき形態がヘイトスピーチという奴。そして、その煽動に乗ることを盲動・盲従とも言います。
 言葉遊びであった筈の話が、何やら「不粋」な方に向かっているようなので、ここまでとします。こういうのを「風向きを読む」とも言います。
 さざ波の写真で無理矢理なしたるこじつけブログ記事でありました。
ささなみの写真二枚はよかれども ブログの記事にわれなしかねつ(偐家持)
ささなみのあやしき記事に淀みつつ 昔の記事の歌碑など出しつ(偐家持)

でありました。​​​​
​​
 言葉遊びついでに、先日作った戯れ歌も掲載して置きましょう。
 或る女流歌人の歌に「しらかみに」という言葉が使われていて、これを形容動詞か何かと理解した妻が、どういう意味かと尋ねて来た。
 しらかみに、なんぞという形容動詞は知らぬから、「?」であったが、その歌を見ると何のことはない、「白紙に」を「しらかみに」と言っているとしか思えなかったので「白紙に」だろうと回答した次第。白紙回答であったという訳であります(笑)。
 そこで、即興に作った歌がこれ。

しらかみはいかな意味かと白紙(しらかみ)に もの書くごと問ふ白髪(しらかみ)の妻 (白神家持)

 実際は染めていますので、白髪ではありませんが、この際、しらかみになって貰ったという次第(笑)。
 「黒髪の妻」とか「茶髪なる妻」とした方が、戯れ歌としてはより面白かったのかもしれませんが、この辺は感覚の問題ですな。







最終更新日  2018.11.23 20:10:55
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2018.02.11
カテゴリ:言葉遊び
​​​​ ブログには「言葉遊び」というカテゴリの記事がある。
 ながらくこのジャンルの記事を書いていないので、ご存じでない方も多いかも知れない。今日は久々にこの「言葉遊び」でもしてみようかと。
 
 先日の八尾界隈銀輪散歩で訪れた大信寺で、蕉門十哲の一人、宝井其角の句碑に遭遇しましたが、彼の句にこういうのがある。
 けさたんとのめや菖の富田酒
(けさたんとのめやあやめのとんたさけ)
 富田酒についてはコチラ
(高槻市インターネット歴史館・​13.富田の酒づくり​)​をご参照いただくとして、この句は前から読んでも、後ろから読んでも同じ文になるという「回文」にもなっている句なのである。
 其角さんは「のめやあやめの」が回文になっていることに気付き、これを句にしてみようと前々から考えていたのではないかと思うが、句会の席で咄嗟にこれを思い付いたのなら大したものである。
 それはさて置き、回文などは「言葉遊び」としては高級なものであるが、当ブログの「言葉遊び」はそのように高級なものではない。単なる駄洒落の遊びである。確か、かなり以前のことになるが、ブロ友のビッグジョンさんが小生のそのような駄洒落コメントについて、これをブログ本文に格上げして、記事として掲載して下さったことがあった筈と調べてみたら、ありました。
 ​続・楽しい言葉
(2012.10.24.​)​というのがそれです。
 ということで、「続々・楽しい言葉」ではないが、同じようなものを思い付くままに記してみようかと。
(注)もう一つこのような記事もありました。
   
18歳と81歳の違い・けん家持編 2017.4.7.
 野菜の値段が天候不良の影響で高騰しているらしいですが、野菜などを中心にした駄洒落としてみますかな。
 先ず、藪から棒に・・、
薮からゴボウ
瓢箪から胡麻
論よりショウガ
下手の長ネギ
立て板に水茄子
無芸大根
氏よりスダチ
目の上の昆布
すれっからし菜
南無妙法レンコン、南無妙ほうれん草
南無阿弥陀ウリ、南無阿弥陀ウド、南無アシタバ
糠にクリ、豆腐にカラスガイ、沼にキーウィ、暖簾に茹で野菜
他人のそら豆、他人のそらニラ
ウリ霧中、ウリ矢理、ウリが通れば道理が引っ込む
武士に煮豆は無い
男ミョウガに尽きる
カボチャッカ半島
馬耳豆腐
馬の耳に自然薯、馬の耳にニンニク
胡瓜猫を噛む
ローマはイチジクにして成らず
走れメロン・ダサいオサム作
南総里芋発見伝・滝沢馬脚作
海辺のカブラ・村上春花作
八日目の咳・吐く田光代作
 以上にして置きます。
 こういうものは、面白がる気がなければ、一向に面白くもないもの。
 面白がるコツがあるとすれば、光景を思い描くことであろうか。
 例えば、目の上のたん瘤ならぬ「目の上の昆布」。実際に誰かさんの目の上に塩昆布が貼り付いている光景を思い描くと滑稽では。或は、胡瓜が猫に噛みついている光景は滑稽ではないか。
 そんなナンセンスは面白くもない?そういうお方は言葉遊びに不向きですな。他で遊んで下さい(笑)。
​​
​​<参考>​言葉遊びシリーズ






最終更新日  2018.02.12 10:43:23
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2015.12.28
カテゴリ:言葉遊び

 未年も今日を入れてあと4日。
 来年は申年。
 ということで、今年最後の「言葉遊び」は「サル」で遊んでみることといたしました。先ずはサルの駄洒落から。

1.サルの駄洒落
サルのザル、ザル蕎麦食うサル、あさるサル、くさるサル、
立ちさるサル、あとずさるサル、着飾るサル、ややまさるサル、
サルサ踊るサル、サルのコンサルタント、サルベージ船にサル、
サルのバザール、サロベツのサル

サルが傘はるとかさばる。
サルの群れにカバが割り込むとカサバル。
サルがぶらつくザルツブルク
サルの小川もサラサラゆくよ。
河原に居るサル 変らザル
蛙食うサル 帰らザル
サルが見回る真田丸
猿飛佐助を真似て猿真似間抜け

アルカイック・スマイルは仏像の微笑、
これをサルが真似るとサルカイック・スマイル、
芭蕉が真似ると「猿か一句」スマイル。

塩野七生著「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」(新潮社)
の姉妹本、
猿野七似著「チェーザル・ボッタクリあるいは悠々たる貧困」(新庁舎)

三猿は「見ざる・聞かざる・言わざる」、
三笊は「ザル法・ザル会計・ザル碁」

「ザルで水をすくう」は無駄な努力の喩えであるが、「ザルでサルをすくう」は馬鹿気た不可能な行為の喩えである。
世界三大合戦は、猿蟹合戦・猿亀合戦・猿鴨合戦である。
芭蕉の句集は「猿蓑」、芭蕉の苦渋は「猿蚤」である。
(ザル)と籠(カゴ)の違い=お猿のカゴ屋はあるがお猿のザル屋はない。

カナダ北西部などの氷雪地帯に住むエスキモー族の一つがイヌイット族。関西弁で「去る・帰る」ことを「いぬ」と言うが、イヌイットの「イヌ」は勿論これとは無関係。従って、イヌイットをサルイットと言い替えることはできない。このような両語の関係は言語的犬猿関係と呼ばれるが、嫌煙関係と言う説もある。(偐民族学)

猿を嫌う犬は嫌猿犬、煙を嫌う犬は嫌煙犬。彼らが今日の嫌煙社会を作り上げたのであるが、一方で喫煙犬の喫煙権も一定の制約のもとで守られるべきという声もあって設置されたのが喫煙室・喫煙コーナーである。このような社会状況に対して、猿の立場からは「喫煙者に対する言われなき冤罪(猿罪)である。」という主張もなされている。(犬の惑星)

火の無い所に煙は立たないと言うが、焚火のある所にすわる猿も居る。であれば炭を焼く猿が居てもいいだろう。カルボナーラは炭焼人、炭を焼くのが猿ならサルボナーラ。炭焼猿の好物は勿論spaghetti alla sarbonara(スパゲッティ・アッラ・サルボナーラ)である。(猿の惑星)

2.サルのつく植物
サルノコシカケ(猿腰掛)、サルトリイバラ(猿捕茨)
サルスベリ(百日紅)、サルオガセモドキ(猿尾枷擬)
エンコウカエデ(猿猴楓)、エンコウスギ(猿猴杉)
エンコウソウ(猿猴草)、サルコイアシ(猿恋葦)
サルナシ(猿梨)、サルマメ(猿豆)、サルガキ(猿柿)
サルメンエビネ(猿面海老根)、サルビア

3.猿の万葉歌
 猿を詠んだ歌は万葉集に1首あるだけ。
 大伴旅人の讃酒歌の中の1首がそれ。

あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ
            人をよく見ば 猿にかも似む(巻3-344)

<ああ、見てられんわ。かしこぶって酒を飲まん奴というのは、よう見たら猿に似てるやおまへんか。>

 では、来たるべき2016年申年がよき年でありますように。


ヌルデ
(ヌルデ)

山椒
(山椒)







最終更新日  2015.12.30 17:30:53
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2015.11.06
カテゴリ:言葉遊び

 ちょっと記事が前後してしまいましたが、本日の日記は11月1日の墓参の折やその他の折に撮影した木の実の写真で構成する「小倉百実一首」とします。
 墓参には道すがらの寺の門前の言葉を掲載するのが恒例になって居りますので、忘れずにこれを先ず掲載して置きます。

2015.11.言葉
(2015年11月の門前の言葉)

 「深いいのちの願い」などという真面目な言葉の後で、言葉遊びの「小倉百実一首」もないものだが、ブログの成り行き上、こうなってしまいましたので、致し方ありませぬ(笑)。どうぞ、皆さまも頭のスイッチを「遊びモード」に切り替えて戴きますように。

1.ピラカンサ(別名:トキワサンザシ)
 墓地への坂を上った処にある睡蓮の池の西側の民家の垣根のピラカンサです。

ピラカンサ(トキワサンザシ)(ピラカンサの実)

墓参行く 道の片辺の 垣しみみ
          常盤山査子 日にぞ照りつつ (常盤山査子)

(本歌)秋の田の かりほのいほの とまをあらみ
           わがころもでは 露にぬれつつ
            (天智天皇 後撰集302 小倉百人一首1)

2.タイサンボク

 花園中央公園のタイサンボクです。赤い種がアッカンベーと舌を出している気もしないではない眺めであるが、その赤い色は何とも美しい。

タイサンボクの実 (3)(タイサンボクの実)

厚過ぎて 暑きにあらし 白妙の ころも脱ぐてふ 赤き種見ゆ (泰山木)
(本歌)春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
           ころもほすてふ 天の香具山
            (持統天皇 新古今集175 小倉百人一首2)

3.柿

 柿は神戸しあわせの村になっていたもの。智麻呂さんとの散歩で見掛けて撮影。

柿 (1)(柿)

あしびきの 山柿つるす 軒先に かかれる月も ひとりかもねむ (柿)
(本歌)あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ
                  (柿本人麻呂 拾遺集778 小倉百人一首3)

4.ザクロ

 墓参の際の定番、門前の言葉の寺の向かいの空き地にあるザクロの木になっていたもの。見事に割れている。

柘榴(割れザクロ)

寺の前に 立ちいでてみれば くれなゐの
           柘榴は今し その実割れつつ (柘榴)

(本歌)田子の浦に うちいでてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
                 (山辺赤人 新古今集675 小倉百人一首4)

5.サルスベリ

 この写真は2015年10月25日の日記「わが実ひとつの秋にはあらず」の末尾に掲載の写真である。文字数制限に掛かって、歌を掲載できなかったものであるが、本日遅ればせながらの歌となりました。

サルスベリの実(サルスベリの実)

おく山の もみぢにすべり なく猿の
           こゑきくときは この実落つらむ (百日紅)

(本歌)おく山に もみぢふみわけ なく鹿の こゑきくときぞ 秋はかなしき
                  (猿丸大夫 古今集215 小倉百人一首5)

6.ノブドウ

 これは、山中湖へと通じる国道138号沿いで撮影したもの。

ノブドウの実 (3)(ノブドウの実)

野葡萄の 延(は)ふる垣根に 実の色の
          うつろふみれば 秋ぞふけにける (野葡萄)

(本歌)かささぎの わたせる橋に おく霜の しろきをみれば 夜ぞふけにける
                  (大伴家持 新古今集620 小倉百人一首6)

7.イチイ

 これは富士吉田市内で目にしたもの。別名はアララギ。漢字では一位。大伴家持の最終叙位は従三位であるから、家持卿もこの実には遠く及ばないのである。

イチイ(イチイの実)

下つ枝に かきわけみれば 赤々と 葉裏になれる 一位の実かも (一位)
(本歌)天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
                (安倍仲麻呂 古今集406 小倉百人一首7)

8.ツユクサ(古名:つきくさ)

 墓参の帰り道に池の土手にて撮影したもの。万葉では月草、鴨頭草などと言う。この花で染めた色が縹(はなだ)で、それは移ろいやすい。それを逆手に取って友禅の下絵には、この花から取った染料が使われる。

ツユクサの実(ツユクサの実)

わが里の 鴨棲む池の 辺(へ)になる実
         それ鴨頭草
(つきくさ)と 人はいふなり (露草)

(本歌)わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
                (喜撰法師 古今集983 小倉百人一首8)

9.ナツメ

 ナツメの実は墓参の道の辺で撮影。今月1日では如何せん遅過ぎました。皺々になった実ばかり。棗は不老長寿、仙人の食べ物とされるが、今は採って食べる人も居ないようだ。

棗(ナツメの実)

実の色も うつりにけりな いたづらに なつめ皺よる 食はれせぬ世に (棗)
(本歌)花の色は うつりにけりな いたづらに
           わが身世にふる ながめせしまに
             (小野小町 古今集113 小倉百人一首9)

10.キブシ

 これは、梅田スカイビルの里山にて撮影した写真(2015年10月14日「囲碁例会・見慣れぬ実と花」参照)の再掲載です。

キブシの実(キブシの実)

秋梅田 ビル風ふきしく 里山は つらぬきとめぬ 玉ぞ揺れける (木五倍子)
(本歌)白露に 風のふきしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞちりける
                (文屋朝康 後撰集308 小倉百人一首37)

<追伸>
 最後に、以下の黒い実2件の名が不明です。ご存じのお方、ご教示賜れば幸甚に存じます。
 名が不明では百実一首には採用不可能。右のそれはイボタノキかとも思われるがよくはわからない。

実・名前調査中 黒い実・名前不明 (2)
<左はウドの実でした。(下記小万知さんコメント参照)。>

 







最終更新日  2015.11.07 10:32:41
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2015.10.25
カテゴリ:言葉遊び

北国は もみたひ雪も 降り来とや 里のもみぢは まだ見えなくに (偐家持)

 北の方からの「もみぢ便り」が届き、北海道や東北では雪も降り、関東や近畿でも木枯らし1号が吹いたらしい。しかし、大阪の我が里では、桜の木などに少し色づきたる葉はあるものの、紅葉の本格的な季節はまだ先のようです。
 銀輪散歩の途中に立ち寄った、小生がひそかに「紅葉の名所」と名付けている、とある場所の楓の木々も、未だ青い葉のまま。
 そこで見つけたのは赤い実の木。名前が分からなかったが、ネットで調べてみると、ヤブサンザシであるということが判明。
 サンザシ(山査子)には、オオサンザシ、ホソバサンザシ、ミサンザシ、クロミサンザシ、ヤブサンザシなどがあるようだが、赤い実で枝に棘が無いなどから、ヤブサンザシと判断したのが下の写真の木である。

ヤブサンザシ (2)
(ヤブサンザシ)

 ということで、紅葉の秋には未だ少し早い大阪。秋の実で「言葉遊び」と致します。題して「小倉百実一首」であります(笑)。

ヤブサンザシ (1)
(同上)

 秋の野山には赤い実のなる木は多くある。ヤブサンザシもその一つに過ぎない。

野辺みれば をちこち赤き 実のありて
           わが実ひとつの 秋にはあらず (薮山査子)

 (本歌)月みれば ちぢにものこそ かなしけれ
            わが身ひとつの 秋にはあらねど
               (大江千里 古今集193 小倉百人一首23)

ヤブサンザシ (3)
(同上)

 赤い実と言えば、ハナミズキやサンシュユの実などもよく見掛ける。

ハナミズキの実 (1)
(ハナミズキの実)

 ヤブサンザシやサンシュユの実は食べられるがハナミズキの実は有毒にて猛烈に苦い。小鳥たちもこの実は食べないのだろうか。地面に沢山落ちている。

あはれとも いふべきものか 地に落ちて
           実のいたづらに なりぬべきかな (花水木)

 (本歌)あはれとも いふべき人は おもほえで
             身のいたづらに なりぬべきかな
              (藤原伊尹 拾遺集950 小倉百人一首45)

ハナミズキの実 (2)
(同上)

 サンシュユは山茱萸と書く。茱萸はグミである。グミなら食える筈と試しに齧ってみたことがあるが、味は忘れた。美味しいものでなかったことは確かである。

食ふことの たえてしなくは なかなかに
           味をも実をも 忘れざらまし (山茱萸)

 (本歌)あふことの たえてしなくは なかなかに
             人をも身をも うらみざらまし
                (藤原朝忠 拾遺集678 小倉百人一首44)

サンシュユの実 (1)
(サンシュユの実)

サンシュユの実(3)
(同上)

サンシュユの実 (2)
(同上)

モミジバフウ(モミジバフウ)

 樹木にも個体差と言うか個性があるようで、花園中央公園では、このモミジバフウの木だけが早々と黄葉している。左奥にある同じモミジバフウの木は未だ青いままである。
 モミジバフウの実はイガグリのように棘で覆われているが、栗のような鋭い棘ではなく、中途半端な棘である。この実の中の種子を食べる物好きな動物などいないという理由で、栗のように完全武装する必要がなかったのでしょうか。

見上ぐれば イガまたイガの 栗のごと
           実を似せたるを あはれとぞおもふ (紅葉葉楓)

 (本歌)わびぬれば いまはたおなじ 難波なる
             みをつくしても あはむとぞおもふ
               (元良親王 後撰集961 小倉百人一首20)


モミジバフウ の実 (2)
(モミジバフウの実)

モミジバフウ の実 (3) モミジバフウ の実 (4)

モミジバフウ の実 (1)
(同上)

 ナンキンハゼの実は黒くなっているものもあり、既に弾けている実もある。

ナンキンハゼ
(ナンキンハゼ)

 しかし、実は随分高い処になっていて、弾けている様などがうまく撮影出来ないのは残念。

弾けたる 実をば写せず 手近には
         とれる実の無き をしくもあるかな (南京櫨)

 (本歌)わすらるる 身をばおもはず ちかひてし
             人の命の をしくもあるかな 
               (右近 拾遺集870 小倉百人一首38)

ナンキンハゼ (1)(同上)

 次はトサミズキ。しかし、これは実が見(実)当たらない。実と見えしは芽にてやあるらむ。

葉がさそふ あるやなしやも 知らぬ実の
           くもがくれにし この実なりけり (土佐水木)

 (本歌)花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
            ふりゆくものは わが身なりけり
           (西園寺公経 新勅撰集1054 小倉百人一首96)

トサミズキの芽
(トサミズキ)

ヘクソカズラの実 (3)
(ヘクソカズラの実)

嗅ぐ人も なきや町家の 裏垣に
         なるやへくその 実も下がりつつ (屁屎葛)

 (本歌)こぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
            やくやもしほの 身もこがれつつ
            (藤原定家 新勅撰集851 小倉百人一首97)

サルスベリの実
(サルスベリの実)

 サルスベリの実が残ってしまいましたが、字数制限です。これまでとします。

 







最終更新日  2015.10.26 08:52:01
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2015.06.17
カテゴリ:言葉遊び

 今日のブログ記事のタイトルは支離滅裂で「何の事?」と思われたことでしょうが、単なる言葉遊びです。回文という奴です。
「かるたのももでいかにもいなだももだないもにかいでもものたるか」
ということで、左から読んでも、右から読んでも同じ文になるという回文仕立てにしたものです。前と後ろに意味が通るように言葉を継ぎ足して、どんどん長い文章に作って行けば、更に長い回文となるが、余り長過ぎても面白くないので、この辺で止めて置きます。
 タイトルとしては「稲田桃」で足りるのですが、ちょっと遊んでみた次第(笑)。
 ブロ友の英坊3氏が桃の実の写真をブログに掲載されているのを見て、突如、「稲田桃や如何に」と思い出し、その木が植わっている処まで銀輪散歩のついでに立ち寄ってみたというのが、本日の記事の要諦であります。

 その前に、先月30日の恩師13回忌の墓参兼ミニクラス会の折の全員での記念写真が恩師の奥様から送られて参りましたので、そのご紹介から始めます。
 と言ってもその写真を公開しようと言うのではありません。同封されていた手漉き和紙の葉書の裏面に書かれていた奥様の俳句のご紹介であります。奥様からは何年か前に「夏椿」というご自身の句集を頂戴したこともあるが、いい句をお作りになられるのでもある。今回、記されていた自作句は、
  涼しさの おのづからなる 阿弥陀仏  (立葉)
というものでありました。

涼しさの・・(涼しさの・・の句)

 さて、稲田桃であります。
 稲田桃とは何であるかについては、今年2月14日の記事(コチラ 花の時期の写真はコチラ)でご紹介していますので、同記事をご参照下さい。

稲田桃の並木(第二寝屋川沿い)
(稲田桃の並木 写真奥が南)

 第二寝屋川と中央大通り(国道308号)が交差する地点から北へ、第二寝屋川左岸(西岸)沿いに稲田桃の木が植えられている。

稲田桃 (3)
(稲田桃)

 稲田桃の特長は、この尖った細長い形にある。
 うっすらと色付き始めている実もあるが、熟すとどんな風な色合いになるのか、今後も観察を続けたいものです。
 いかにも素朴な感じで、万葉の頃の桃も、こんな風であったのではないか、という気になる。モモは「燃え実」がつまって「もも」になったという説もあるらしいが、若い女性の比喩として使われたり、その実は邪気を払うとされ、神事に使われたりしたが、桃太郎の名は後者に由来するものであろう。
 万葉では「毛桃」という言葉が使われるが、産毛のような毛で覆われた実は如何にも若い女性を連想させる。下記の万葉歌などもそういう連想をベースにした歌であろう。

はしきやし 吾家(わぎへ)の毛桃 本しげみ 花のみ咲きて ならざらめやも
                                   (万葉集巻7-1358)
<いとしい我が家の桃の木は幹に枝葉が繁っているので、花が咲くばかりで実がならないということがあろうか。>
わが屋前(やど)
の 毛桃の下に 月夜さし 下心良し うたてこのころ
                                   (同巻10-1889)
<我が家の桃の木の下に月光がさし、何となく心が楽しい。ますますこの頃は。>
大和の 室生の毛桃 本繁く 言ひてしものを 成らずは止(や)まじ
                                   (同巻11-2834)
<大和の室生の桃の幹に枝葉が繁るようにしげしげと言い寄ったのだから、この恋は成就させずには置かない。>

稲田桃 (5) 稲田桃 (4)
(同上)

 







最終更新日  2015.06.21 08:34:07
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2015.05.02
カテゴリ:言葉遊び

 五月は鯉の季節。ブログ友の英坊3氏やビッグジョン氏のブログ記事にも「鯉のぼり」の写真が掲載されて季節感を漂わせて居られました。
 そんなことで、小生も銀輪散歩で見かけた鯉のぼりの写真を掲載することと致します。

鯉のぼり (1)
(鯉のぼり)

鯉のぼり (2)
(同上)

鯉のぼり (3)
(同上)

恋の歌 山ほどあれる 万葉に 鯉の一尾も なきぞかなしき (広島カープ)

 万葉集には恋の歌が満載。しかし、鯉は登場しない。因みに、万葉に登場する川魚はと言うと、鮎、鮒、鰻などである。

万葉に 鮒はあれども 鯉はなし 犬は走れど 猫鳴かぬごと (有無家持)

花笑みの 五月の薔薇は わが恋の 花にしありて 窓辺にぞ咲く (偐家持)
雲行けば 空にも波の 立つならし 五月の鯉は 風にし泳ぐ (幟家持)
恋はこひ 鯉はこいにて こひならじ 恋する鯉の 戯れ言ならし (鯉家持)







最終更新日  2015.05.02 19:32:56
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2013.04.01
カテゴリ:言葉遊び

言葉遊び・人名篇(だったら特集)

  久々に言葉遊びと参ります。
  本日は作家の名前がこんな風に違っていたら、作品名もこんな風に変っていたのではないか、という「駄洒落遊び」。やってみると、上手く収まるものもあるが、なかなか上手くゆかないものが多い。短すぎるタイトルも長過ぎるタイトルも言い換えが難しい。
  皆さんで、もっと面白い「作品名」を考えて、コメントに書いて戴くと有難いですな(笑)。

夏目漱石が「夏目葬式」であったら
吾輩は犬死にである(吾輩は猫である)、坊んさん(坊っちゃん)、
北枕(草枕)、葬殮から(それから)、香典(行人)、
友人葬(虞美人草)、戦死郎(三四郎)、弔問(門)、
供養塔(倫敦塔)、冥暗(明暗)

太宰治が「ダサい治」であったら
止れメジロ(走れメロス)、社用(斜陽)、人間ドック(人間失格)、
晩酌(晩年)、手軽(津軽)、不覚借金(富嶽百景)、
バッテラの箱(パンドラの匣)、咳き込み医者へ(駆け込み訴へ)

江戸川乱歩が「江戸川乱暴」であったら
偐山頭火(二銭銅貨)、N坂の殺虫剤事件(D坂の殺人事件)、
野次馬の参考書(屋根裏の散歩者)、
パラノイア妄想談(パノラマ島奇談)、
押し売りの足袋売る男(押絵と旅する男)、玄人が怪我(黒蜥蜴)、
世間評(人間豹)、会席二十品目(怪人二十面相)

宮沢賢治が「宮沢変治」であったら
日銀が手伝うのよ(銀河鉄道の夜)、風邪で寝三郎(風の又三郎)、
十文は高い料理店(注文の多い料理店)

安部公房が「壁工房」であったら
壁の女(砂の女)、壁男(箱男)、他人の壁(他人の顔)、
塗り過ぎた壁(燃えつきた地図)、壁の耳(石の眼)、
壊されし壁の欠片に(終わりし道の標に)、赤い壁(赤い繭)
        

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別役実が「脇役実」であったら
ナッツ売りの初老(マッチ売りの少女)、
くよくよ族の反省(そよそよ族の反乱)、ガンバルー(カンガルー)、
不思議の国のアキス(
不思議の国のアリス)、
ボスと演説(椅子と伝説)、死人も出る不景気(死体のある風景)、
あー惜しかった、二位だった(あーぶくたった、にぃたった)、
クリ剥くさむらい(にしむくさむらい)、
まだ息のある死体(雰囲気のある死体)、
筵の正面ど~っち(うしろの正面だあれ)、
そのひと歯がありません(そのひとではありません)、
珍しい大阪菜(淋しいおさかな)、
丘の上の人でなしの家(丘の上の人殺しの家)

堀田善衛が「堀田世末」であったら
老婆の孤独死(広場の孤独)、最後の審判(審判)、
若き死人たちの病歴(若き詩人たちの肖像)

坂口安吾が「無駄口安吾」であったら
駄洒落論(堕落論)、赤恥(白痴)、ソロリの男(ジロリの女)、
長話姫と寝耳男(夜長姫と耳男)

志賀直哉が「志賀何哉」であったら
木の先に似て(城の崎にて)、なんじゃこれ(暗夜行路)、
誤解(和解)、五升の呑み様(小僧の神様)

川端康成が「炉端康成」であったら
いつも踊子(伊豆の踊子)、指ぐねっ(雪国)、さんま釣る(千羽鶴)、
邪魔な音(山の音)、糊塗(古都)

丸谷才一が「角谷才一」であったら
広場の角を避けて(エホバの顔を避けて)、逆まつ毛(笹まくら)、
たった一人の錯乱(たった一人の反乱)、横軸ずれ(横しぐれ)、
カナダへ(彼方へ)、今年も居残り(年の残り)、
裏口から入れ君だけは(裏声で歌へ君が代)

石原慎太郎が「石原疹太郎」であったら
大病の季節(太陽の季節)、困った老疾(狂った果実)、
完全に病気(完全な遊戯)、胆石の森(化石の森)、気絶(亀裂)

伊藤左千夫が「伊藤右千夫」であったら
お菊の皿(野菊の墓)、怒鳴る嫁(隣の嫁)、猿の鵜匠(春の潮)

大江健三郎が「大江変三郎」であったら
珍妙な寝言(奇妙な仕事)、愚者の侮り(死者の驕り)、
姪の汁粉餅(芽むしり仔撃ち)、豆の木(雨の木)、
万年青年のゲートボール(万延元年のフットボール)、
河童に睨まれる(河馬に噛まれる)

北杜夫が「南杜夫」であったら
どくとく麻婆公開記(どくとるマンボウ航海紀)、
似るだけの人々(楡家の人々)、
白き玉子焼きなんか見ねえ(白きたおやかな峰)、

小田まことが「小田まねごと」であったら
何でも見てからやろ(何でも見てやろう)、
大抵塩漬けを焼く鱈の子(大地と星輝く天の子)、
難波の紫蘇(難死の思想)

野間宏が「野呂間宏」であったら
長い柄(暗い絵)、支払遅滞(真空地帯)、
わざとそこに立つな(わが塔はそこに立つ)、年金の罠(青年の環)

井上光晴が「井上光雨」であったら
旅行のクーポン(虚構のクレーン)、代休(階級)、
医者の時計(死者の時)、胃のもたれ(地の群れ)、
無理にコジツケはしないがええ(胸の木槌にしたがえ)、
黄色い河馬(黄色い河口)、

開高健が「閉口健」であったら
麻疹の王様(裸の王様)、二本三円オマケ(日本三文オペラ)、
夏の嫌味(夏の闇)、蚊が焼ける網(輝ける闇)

浅田次郎が「深田次郎」であったら
送金の詰まり(蒼穹の昴)、中元の鰊(中原の虹)、
佃煮泥鰌(月島慕情)、皆詐欺師伝(壬生義士伝)、
監獄までの百マイル(天国までの百マイル)

村上春樹が「村上夏樹」であったら
1灸84(1Q84)、
世界の終りのハードスポイルド・ナンダーカンダー
(世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド)、
イリアイの森(ノルウェイの森)、
国政の乱れ、対応の不備(国境の南、太陽の西)、
日陰をへめぐる銀輪(羊をめぐる冒険)、
寝て起きて風呂に入る(ねじまき鳥クロニクル)、
スープとニクと胡椒(スプートニクの
恋人)、
売り時の株価(海辺のカフカ)

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角田光代が「角田蝉代」であったら
よう噛めん蝉(八日目の蝉)

松尾芭蕉が「松尾座長」であったら
お気に入りの細麺(奥の細道)、憂さ晴らし奇行(野ざらし紀行)、
ざる蕎麦(猿蓑)、老いの繰り言(笈の小文)、
ざらにある紀行(更科紀行)、厳重暗記(幻住庵記)

滝沢馬琴が「滝沢牛琴」であったら
南総里芋発見伝(南総里見八犬伝)

式亭三馬が「式亭三鹿」であったら
浮気男(浮世床)、浮き袋(浮世風呂)

十返舎一九が「一返舎十九」であったら
窃盗恐喝ひったくり毛(東海道中膝栗毛)

上田秋成が「下田秋成」であったら
迂闊物語(雨月物語)

 







最終更新日  2013.04.05 16:58:00
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2013.03.07
カテゴリ:言葉遊び
  行方不明になっていると以前の日記に書いた南方熊楠著「十二支考」でしたが、本日ひょんなことで書棚の奥から出て参りました。
     <参考>2012.12.21.「十二支笑
  たまたま、ブロ友の英坊3氏が稲荷神社のことを記事にしておられて、そう言えば稲荷信仰についての論考をまとめた本があった筈と探していたら、その本の上に「十二支考」全3冊が乗っかっていました(笑)。
  書斎の書棚が今や手狭で本が重なり合って収納されているので、奥の方に潜り込んでしまうと分らなくなってしまう。全集などはまとめて置いてあり、比較的よく読んだ著者の本もまとめて置いてあるほか、万葉関係その他或る程度ジャンル別に整理して収納しているので、整理は必ずしもいいとは言えないものの、そこは長年の感覚でどの本がどのあたりあるかというのは大体見当が付くのであるが、そうでない本や、何かの拍子でいつもの場所でない処に置いてしまったりすると、その上やその前に他の本が置かれることによって外からは見えなくなり、行方不明となるようであります。
  今回の「十二支考」は後者のケースで、長年置いてあった場所とは異なる場所にたまたま仮置きし、そのまま放置している間に他の新参の本に埋まってしまったことによる行方不明であったようです。

  さて、「十二支考」が出て来たついでに、この本で紹介されている話で、よく出来ている話だなあと思えるものの一つをご紹介して置きます。

  「十二支考3」の「犬に関する民俗と伝説」の項に出ている話です。
  
1915年版ガスター「ルーマニア鳥獣譚」にある話からのようですが、要約すると次のような内容です。

  神様が世界を造った際に、一切の生物を招集してその寿命と暮し方を定めた。
  
先ず、人間を呼んで「お前は世界の王である。両足で直立し上天を仰ぎ見よ。お前には貴き容貌、考慮と判断の力、言語などを与える。地上の一切の生物はお前に支配され、樹に生るもの土に生じるもの皆お前が利用してよろしい。寿命は30年とする。」と云い渡す。
  人間は、いくら王の如く威勢よく面白く暮らしても、たかが30年ではつまらないと呟いた。
  次にロバを呼び「お前は労苦しなければならない。常に重荷を負い運び、鞭打たれ叱られ、休息は束の間、粗食に甘んじて生きることとし、寿命は50年とする。」と宣告する。ロバは「そんな辛い目をして50年も長らえるのは情けない。どうか特別のお情けで20年だけ差し引いて戴きたい。」と懇願する。
  それを聞いた強欲な人間はその20年をこちらに回してくれと申し出る。それで、人間の寿命は50年に修正された。
  
次に、犬が呼ばれ「お前は主人たる人間の家と財産を守り、ひたすらこれを失わぬよう努めなくてはならない。月の影を見ても必ず吠えよ。骨折賃として固い骨と粗末な肉を与えるから、それを齧って40年生きよ。」と言い渡す。これを聞いた犬は震え上がり、そんなに骨折って骨ばかり喰えとは難儀極まると「20年でご勘弁を」と言う。
  また、人間が割り込んで差し引いた20年を貰い受け、寿命は70年に修正された。
  
最後に猿を呼び出し「お前は人に似るも人に非ず。馬鹿で小児めいたものたるべく、背中は曲がり、子供にも馬鹿にされ、 笑い物になって、60年生きなさい。」と命じる。猿はこれは根っから有難くないお話であるとて「とんでもないことでございます。半分の30年でご勘弁を」と言う。
  ここでまたも人間がしゃしゃり出て「その30年、手前が貰い受けます。」と申し出た。それで、人間の寿命は100年に修正された。
  
かくして人間は神から当初賜った30年の間は何と言って苦労もなく面白く遊び暮らすのであるが、30歳から50歳の20年はロバから譲り受けたものだから、未来の蓄えに備え、ひたすら働き苦労する。
    50歳から70歳の間は、犬からのものだから、僅かに蓄えたものも他人に盗られはせぬかと夜もろくろく眠れず戦々恐々と生きることとなる。
    70歳から100歳までの30年は、猿からのものなので、背は曲がり、顔つきも変り、心鈍くなり、子供じみて、他者に嘲笑されることとなる。

  まあ、パンドーラの箱と言い、この話と言い、我々の先祖の失敗というか、目論見違いの所為で、我々の苦労があると言うことですかな。
  まあ、我々も子孫に、後世の世代にツケを回す愚を犯してはならないのだ、ということを、此処から学び取ることと致しますかね(笑)。
  孔子さんの三十にして立つ、四十にして惑はず云々の格調の高さに比べるとルーマニア人のこの話は笑うほかありませぬが、偐万葉世界はこういう類の話こそをよしとするのでありますな(笑)。







最終更新日  2014.04.08 09:53:02
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2013.02.25
カテゴリ:言葉遊び
言葉遊び・人名篇(2)

  またまた、懲りずにコリンズの言葉遊びです。
  本日は人名篇の(2)であります。
  画家と作家を取り上げました。画家については、「前回未登場の画家は?」と探してみましたら、結構居るものでした。

(画家の部)

タヒチではゴーギャンでも日立ではギャーゴンです。
傲岸でも不遜ではなかったのでゴーギャン、ゴーギャンの美少年
絵は道楽で描いただけだったドラクロワ
何故か絵がデレ~ッとダレてしまうのでダリ
サルが通るとダリも通るので、博多ではサルバドール・ダリと呼ばれた。
燃えるキリンにつくダニを見つけたダリ、
焼き肉のタレ・やけくそのダリ
素人くさいトリックが味だとも言われるロートレック
へのへのモジリアーニ
腹へらすベラスケス
絵は薄っすら点々と描くものと言うスーラ。では、そうスーラか。
何でもかんでも根掘り葉掘り聞きたがるアンディ・ウォーホル
遠近感覚がなくなって理想の絵をみつけたのでアンリー・ルソー
どのみちアングルが悪い絵しか描けないドミニク・アングル
ぶたまん食いながら森を素通りしてしまったので、モーリス・ド・ブラマンク
何で肉にマヨネーズかけたらカルパッチョやねんと怒るカルパッチョ
網走に行かんでもよかったのでワシリー・カンディンスキー
接吻しながらクルリと回るのが愚にもつかぬと男を下げたグスタフ・クリムト
博多の人「クリムトもクリーム塗ると?」
オーストリアの人「クリムトは栗剥くと?」
ちょっくら石を割って来~るべえと言いながら出掛けないクールベ
黒部に行ってクールベ。
あれくれ、これくれ、パウル・クレー
江崎グリコの社長はエル・グレコではありません。
質問者「聖ヒエロニムスはどれ?」  コレッジョ「これっじょ。」
頑迷固陋でもないのにコロー
コローがこけたらコロッケ? いや、蹴躓いてもコロッケだな。
アルフレッド・シスレーの前では「ありふれた絵ですかね~」と言ってはならないのであ~る。失礼なのだ。
「絵具、上にある棚に置いてしまった~なぁ。」
                 (背の低いウィリアム・ターナー)
「あっしが、下に棚を付け替えてあげやしょう。」
                   (大工のヴァン・ダイク)
「それじゃ、板に切り込み入れて置きます。」
                (見習いのジョルジョ・デ・キリコ)
「氷室に住む坊主は居るまい」 (ヒエロニムス・ボス)
怒鳴るボナール、 ボナールの好きなスパゲッティ・カルボナーラ 


  作家は初登場ですが、取り敢えず頭に浮かんだままに、出来たものから順不同の掲載です。名は浮かぶも洒落にならないのはどんどん飛ばしましたが、それらについては追々に・・えっ?もう止めて置け?う~ん、どうしましょうか(笑)。

(作家の部)

何でも断定したがるダンテ
ぼけてもせっかっちなボッカチオ
人間五十年下天のうちをくらぶれば夢幻のゲーテなり
ちびた下駄を履いても様になるからゲーテ
しゃがんどれ、と言われてジッとしている、アンドレ・ジッド
嵩張るザックはバルザック、田原坂に行ったバルザック
やりこめられてもうペッシャンコですモーパッサン
あれも出来ん、これも出来ん、と言っていては何もディケンズ
すったもんだで赤か黒かを決めたのがスタンダール
あれかこれか決めるのは面倒やと言い続けたキェルケゴール
「動物農場」は書いたが「OLの情事」は書かなかったジョージ・オーウェル
絶海の孤島で途方に暮れたかに見える、ダニエル・デフォー
セルバンテスが破いたセロハンです。どこやぶきお~ってか?
(注)どこやぶきお~って=ドン・キホーテはかなり苦しい。こういうのを
   業界では「やぶれかぶれ」と言う。
トマトケチャップをかけ過ぎたカレル・チャペック
毛糸アンデルセン、童話読んでるせん、子供聞いてやせん
腹は減るもんでっせとヘルマン・ヘッセ
どーもスマン、スマン、とトーマス・マン
濃霧気に揉むモーム、 モームかぶれ朦昧の輩?
目丸くしたレマルク、 西部戦線生ぬるくしたレマルク
佐渡の丸木はマルキ・ド・サド?
猿捕るとザル取るサルトルは間違っとる
一心不乱に右岸走るフランソワーズ・サガン
嗚呼無情、
出店つぶされる(レ・ミゼラブル)とビクついとる、ヴィクトル・ユゴー
(注)出店つぶされる=レ・ミゼラブルも苦し紛れ。こういうのはフランスの
   業界用語では「デ・マカセブル」と言う。

<参考>言葉遊びシリーズの他の記事はコチラからどうぞ。


枚岡梅林の梅2013 (2)
(枚岡梅林の梅)

梅の花 折りも折らずも 見つれども
           
今夜(こよひ)の花に なほ()かずけり
                 (
他田広津娘子(をさだひろつのをとめ) 万葉集巻8-1652)

 







最終更新日  2014.04.08 11:21:17
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