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2022.05.17 コメント(1)
全80件 (80件中 1-10件目) 万葉
カテゴリ:万葉
今日は、月例の墓参。
今まで気が付かなかったが、我が家の墓の近くのお墓に立派なケイトウの花が咲いていました。 ![]() (墓地に咲くケイトウの花) ケイトウは鶏頭で、ニワトリのトサカに似ていることからの呼称であり、鶏頭草、鶏冠草などとも表記する。 この花は古来から日本にある花ではあるが、万葉集などでは「韓藍(からあゐ)」と呼ばれているから、韓の国(古代の朝鮮、中国)からやって来た外来の植物である。 万葉の頃は、韓藍という呼称が示すように、舶来の珍重すべきエキゾチックな花であったのだろう。 ![]() (同上) その墓前に供えてある花にもケイトウの花が混じっていたから、ケイトウはこのお墓に眠る人が生前こよなく愛した花であったのか、それともお墓を守っているお方が好きな花であるというに過ぎないのかなどと想像したり。 まあ、何にしても、墓石よりも草丈が高く、立派に育って、いかにも目立って咲いているのでありました。 万葉の歌でも、恋心を顔に出して目立ってしまうことの比喩としてこの花のことを詠っているものがある。 ![]() (同上) ケイトウの万葉歌を記して置きましょう。 我がやどに 韓藍蒔き生ほし 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとそ思ふ (我が家の庭に鶏頭を蒔き育てたけれど枯れてしまった。しかし、懲りずにまた種を蒔こうと思う。) 秋さらば 移しもせむと 我が蒔きし 韓藍の花を 誰か摘みけむ (秋になったら移し染めにもしようと、私が蒔いた鶏頭の花を、誰が摘んでしまったのか。) 恋ふる日の 日長くしあれば 我が園の 韓藍の花の 色に出でにけり (恋しく思う日々が長くあったので、我が家の庭の鶏頭の花のように顔色に出てしまいました。) 隠りには 恋ひて死ぬとも み園生の 韓藍の花の 色に出でめやも (人知れず恋い死にすることがあっても、お庭に生えている鶏頭の花のように、色に出したりしましょうか。) 前二首は、男性の歌で、韓藍の花を女性に喩えている歌である。山部赤人さんは、春には女性をスミレに喩えて「一夜寝にける」と詠んだけれど、秋には「鶏頭の花」に喩えて「もう一度恋を仕掛けよう。」と詠んでいる。まさに懲りぬ人である(笑)。 二首目のそれは、恋人を横取りされてしまった男の歌ですな。 後二首は、女性の歌でしょうか。 恋心を顔色に出してしまいました、という歌と、顔色には出しません、という歌であるが、どちらも切ない自身の恋心を相手に訴えかけている歌であるから、歌の意は同じである。 まあ、何れの歌も、墓参に関連付けて取り上げるには、いささか不適切な歌でありました(笑)。 さて、墓参の際の恒例の「門前の言葉」であるが、これは1日の朝ということでもあった所為か、前月の墓参の時の掲示のままでありましたので、撮影はせず、でありました。 ![]() (今日の墓地からの眺め) 朝のうちは台風の影響もあってか、上の写真のように、雲の多い空。 午後になって雲の切れ間が大きくなり、日差しも。 時折、強い風が北から吹いて、午後の銀輪散歩で恩智川沿いを北方向に走っている時などは、いつもより強くペダルを踏むも、風の抵抗で速度はかなり減殺されました。まあ、これは朝の墓参とは関係のない話。 墓地の一番高い位置にあるシンボルツリーのクスノキ。左半分が枯れ始めていることは、以前の記事で紹介しましたが、更にそれが顕著になって来ている気がします。 ![]() (今日のクスノキ) 道の辺の民家の庭先にあるナツメの木の実が茶色に色づいているのを撮影しましたが、帰宅してPCに取り込んでみると、ピンボケ。実に焦点が合っていなかったようで、没に。 帰途、そのお宅の前を通ると、奥さんがナツメの枝を高枝ハサミで剪定して居られました。お声がけすると「枝に棘があるので、迷惑になってもいけないので、伸びすぎたのを摘んでいます。」とのこと。そうか、ナツメには棘があったのか、と今頃気づいた次第。 また、もう少し自宅寄りの位置にある大きな池の土手にオキザリスの花が群れ咲いていたので、撮影。 ![]() (オキザリス・ボーウィ) 学名がOxalis bowiei。 和名は、セイヨウカタバミまたはハナカタバミとのこと。 園芸種が野生化して土手に群生するようになったのでしょう。 在来のムラサキカタバミより花も大きく、色も濃いのでよく目立つ。 カタバミと呼ばずオキザリスなどと呼ぶ点などは、万葉の頃、ケイトウを韓藍と呼んだのと同じ感覚であるのかもしれない。 ジョロウグモの写真も撮りましたが、これは虫カテゴリの記事用に取って置くこととし、当記事には掲載しないこととします。 ジョロウグモは女郎蜘蛛というのが普通であるが、上臈蜘蛛が語源だという説もある。 韓藍も、「み園生の」とあるように、貴族の邸宅の庭である「園・苑」に咲く花であり、庶民の庭や野に咲く花ではない。 従って、それが比喩される女性も韓風に装った官女や貴族の女性であるから、上臈で、上臈蜘蛛と相通じる。よって、この記事にその写真を掲載しても違和感がないのでは、などと考えもしましたが、それはヤカモチ的屁理屈に過ぎず、一般の理解、感覚とは遊離したものであるだろうと、思いとどまったという次第。 <参考>万葉関連の過去記事はコチラ。 墓参関連の過去記事はコチラ。
2021.08.17
カテゴリ:万葉
今日も雨。
甲子園の球児たちも雨に泣かされているようです。 銀輪家持も蟄居を余儀なくされての雨障(あまつつみ)にて、脚力が衰えて行くに任せるのほかなしであります。 先日(13日)の墓参は雨間を利用してのものでしたが、この「雨間」というのは、雨と雨との間、雨の合間という意味。 万葉の頃から使われている言葉であるが、万葉の頃は「雨の降っている間」という意味で、現在のような意味で使われるのは平安時代以降ということらしい。 卯の花の 過ぎば惜しみか ほととぎす ひさかたの 雨間も置かず 雲隠り 雨間明けて 国見もせむを 故郷の 十月 雨間も置かず 降りにせば 以下は閑人家持の「イマジン」ヒマ論であるが、ヒマ(暇・隙)というのは「合間・あひま」の「あ」が脱落して「ひま」となったものなんだろう。 物事と物事との時間的な間が「暇」で、空間的な間が「隙」である。 ヒマとは仕事(なすべきこと)と仕事の間の何もすることのない時間、何をしてもよい時間だとすると、閑人家持のように、そもそも仕事・なすべきことが何とてもない365日連休の人間にとっては「合間」としての時間という意味でのヒマとはちょっと意味が違って来るから、別の言葉で表現する方がいいように思うが、そんな奴のために新語を考えるほど世間はヒマではないから、ヒマでよかろうと言うことなんだろう。 ヒマがマ(間)に由来するとして、日本人は「間」というものを大切にする民族である。 あやまち(過ち)、あやまり(誤り)を「間違い」とも言い、「間」を間違うと「間抜け」と馬鹿にされることでも、それが分かるというもの。 「間」とは、人と人との距離感或いは物事と人との距離感のようなものと言っていいだろうか。 この距離感に応じて、言葉表現も使い分けなければならない。 丁寧語、尊敬語、謙譲語などと複雑な敬語表現のある日本語の由縁もここにあるのだろう。 伝達すべき内容の正しさもさることながら、この距離感に相応した言葉表現がそれ以上に大切にされるのである。 そして、もう一つは「和」。 聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と言って以来、日本を大和(大いなる和)と表現して以来、「和す」ことを第一と考えて来た日本人。 それは、「行間を読む」とか「言外を知る」とか、相手の意を先んじて汲み取り、それに相応しい行動をとる「忖度」という美風ともなった。 しかし、一方では、それは、近時の官僚の「忖度」によって、忖度の意味も堕落したものとなったように、また「空気を読めない奴」という蔑視的表現が成立する同調圧力の強い社会という負の側面を持つことでもあった。 まあ、何であれ、この「間」というのは、何とも微妙で曖昧なもので、論理性とか正確性とかとは対極のもの。 「和」も同様にて、「間」によって保たれているに過ぎない「和」というものは危ういものである。 雨間の話から脱線して、だんだんと「間」の抜けた方向に話が進んでいるようですから、雨間に戻ることにします。 外の雨脚がひと際強くなりました。 昨日、鳴いていたツクツクボウシも、さすがにこの雨では鳴かず、泣いていることでしょう。 雨間も置かず鳴いているというホトトギスはもちろん、カラスもハトもスズメも皆、どこかで雨宿り。 雨間を縫っての13日の墓参の折に見かけた蛾の夫婦は今頃はどうしているものやら。 ![]() (ノメイガの一種 ホシオビホソノメイガかも知れない。) 墓参の折に、木の葉が散ったのかと足元を見たら、小さな蛾の夫婦でありました。 ツトガ科ノメイガ亜科に属する蛾も色々ですが、これはそのうちの一種、ホシオビホソノメイガだろうと思われます。 今日は、雨間のお話でした。
最終更新日
2021.08.17 15:27:06
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2021.07.13
カテゴリ:万葉
今年初めて蝉の声を耳にしたのは、7月10日。 大伴家持さんは貴族、偐家持は庶民。
最終更新日
2021.07.16 13:03:02
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2020.02.21
カテゴリ:万葉
「雪の万葉歌」短歌111首を書き出すということをしていて、気付いたことがあります。
今月2日の若草読書会で、梅花の歌32首とその序文を話題ににしたことは、既述の通りであるが、この宴が行われたのは天平2年正月13日(730年2月4日)のことである。 天平に改元されたのは、神亀6年(729年)8月5日のことであるから、天平2年の正月というのは、天平に改元されて初めての正月であったのだということでした。 令和に改元されて初めての正月が今年の正月であったのだから、令和2年の正月と天平2年の正月は、その点でも共通しているということ。 まあ、改元が年の途中で行われると、その元号の下での最初の正月が新元号2年のこととなるのは当たり前のことであるから、これに気付かなかったというのは不正確で、そのことに思いが至らなかった、と言うべきか。笑止のことであります。 時すでに梅の花も多くは散り出しているが、今頃になってこんなことを言い出しているのは間の抜けたことである。しかし、間抜けついでに、遅まきながら、梅花の歌32首の序文を、ブログに書きとどめ、今後の資料とでもして置くか。 <梅花の歌32首の序文(万葉集第8巻)> 天平二年正月十三日、帥老の宅に萃まり、宴会を申ぶ。時に初春の令月、気淑しく風和らぐ。梅は鏡前の粉に披き、蘭は佩後の香に薫る。加以、曙の嶺に雲移りて、松は蘿を掛けて蓋を傾け、夕の岫に霧結びて、鳥は縠に封されて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁歸る。ここに於て、天を蓋にし、地を座にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然として自ら放にし、快然として自ら足る。若し翰苑に非ざれば、何を以てか情を攄べむ。詩に落梅の篇を紀す。古今それ何ぞ異ならむ。宜しく園梅を賦して、聊かに短詠を成すべし。 <参考>太宰府銀輪散歩(4)・大野山霧立ちわたる 2015.1.17.
2020.02.19
カテゴリ:万葉
(承前)
前頁の続編です。 雪の万葉歌全111首(但し、短歌に限る。)のうち第1巻~第10巻所収のもの73首は前頁の「雪の万葉歌(上巻)」に掲載しました。 本頁では第11巻~第20巻所収の残り38首を以下に掲載します。 まあ、自身の「資料用」みたいな記事ですから、ご訪問いただいたお方には、「単なる万葉集の歌の羅列に過ぎないではないか。」と失望させてしまう内容ですが、お赦しを。 雪の写真などで誤魔化して置きましょう(笑)。 ![]() (京都・小塩山での雪。古い写真<2012年2月17日>の再掲です。) <参考>小塩山登山 2012.2.27. 第11巻(なし) 第12巻 み雪降る 越の大山 行き過ぎて み雪降る 吉野の岳に 居る雲の 筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも 第16巻 ぬばたまの 黒髪濡れて 沫雪の み園生の 百木の梅の 散る花し 降る雪の 白髪までに 大君に 天の下 すでに覆ひて 降る雪の 山の峡 そことも見えず 一昨日も 新しき 年の初めに 豊の稔 大宮の 内にも外にも 光るまで 庭に降る 雪は千重敷く 然のみに 立山に 降り置ける雪の 常夏に 立山に 降り置ける雪の 常夏に 婦負の野の すすき押しなべ 降る雪に 立山の 雪し消らしも 延槻の 雪の上に 照れる月夜に 梅の花 わが園の 李の花か 庭に降る この雪の 消残る時に いざ行かな ありつつも 見したまはむそ 大殿の 新しき 年の初めは いや年に 降る雪を 腰になづみて 参り来し なでしこは 秋咲くものを 君が家の 雪の山斎 巌に植ゑたる なでしこは うち羽振き 鶏は鳴くとも かくばかり 鳴く鶏は いやしき鳴けど 降る雪の 白雪の 降り敷く山を 越え行かむ 言繁み 相問はなくに 梅の花 梅の花 咲けるが中に 含めるは 大宮の 内にも外にも めづらしく み園生の 竹の林に うぐひすは うぐひすの 鳴きし垣内に にほへりし 川渚にも 雪は降れれし 宮の内に 松が枝の 地に着くまで 降る雪を 高山の 巌に生ふる 菅の根の 消残りの 雪にあへ照る あしひきの 初雪は 千重に降りしけ 恋ひしくの み雪降る 冬は今日のみ うぐひすの 新しき 年の初めの 初春の 第1巻~第10巻 73首 第11巻~第20巻 38首 合計111首 雪の万葉歌の数は、梅のそれよりもやや少なく、桜のそれよりもずっと多い、ということが分かりました。
2020.02.18
カテゴリ:万葉
今日は、西日本中心に広い地域で雪が降ったようだが、わが大阪は、少なくとも東大阪市平野部はチラとも雪は「降りも来ずけむ」でありました。
当地は雪は降らなかったのであるが、因みにと、雪を詠んでいる歌、雪という詞が含まれる歌は万葉に何首あるのだろうと、手許の万葉集をパラパラとめくって調べてみると111首ありました。 見落としている歌がもしあるなら、その分これよりも多くなる。 長歌で雪が登場する歌は、知っているだけでも5首あり、これら長歌も含めると雪の歌は百十数首あるということになる。 今後の参考にと、これを記事に書きとめて置くことにします。 第1巻には雪の歌が見当たらず、第2巻の天武天皇と五百重娘(藤原鎌足の娘にして、天武天皇の夫人、新田部皇子の母でもある。)との軽妙なやり取りの、あの有名な歌が万葉集最初の雪の歌のようです。そして、最後の雪の歌は大伴家持の万葉集掉尾の歌、新しき年の始めの初春の・・の歌である。 (注)上記は、長歌を度外視してのことです。長歌では第1巻25番の天武天皇御製の吉野での歌に雪が詠われている。また、霰も雪の内と考えれば、同じく第1巻65番の長皇子の歌に「霰」が登場している。 第1巻(なし) 第2巻 わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくはのち (天武天皇 巻2-103) わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の嶺に 降り置く雪は 六月の 道に逢ひて 笑まししからに 降る雪の わが園に 梅の花散る ひさかたの 梅の花 散らくはいづく しかすがに 妹が家に 雪かも降ると 見るまでに 奥山の 真木の葉しのぎ 降る雪の 第8巻 沫雪か はだれに降ると 見るまでに 我が背子に 見せむと思ひし 梅の花 明日よりは 春菜摘まむと 標めし野に 沫雪の ほどろほどろに 降りしけば 我が岡に 盛りに咲ける 梅の花 沫雪に 降らえて咲ける 梅の花 たな霧らひ 雪も降らぬか 梅の花 天霧らし 雪も降らぬか いちしろく 我がやどの 冬木の上に 降る雪を ぬばたまの 今夜の雪に いざ濡れな 梅の花 枝にか散ると 見るまでに 十二月には 沫雪降ると 知らねかも 今日降りし 雪に競ひて 我がやどの 池の辺の 松の末葉に 降る雪は 沫雪の このころ継ぎて かく降らば 松陰の 浅茅が上の 白雪を 高山の 菅の葉しのぎ 降る雪の 我が背子と 二人見ませば いくばくか 真木の上に 降り置ける雪の しくしくも 沫雪の 消ぬべきものを 今までに 沫雪の 庭に降り敷き 寒き夜を 御食向かふ 南淵山の 巌には み越路の 雪降る山を 越えむ日は うちなびく 春さり来れば しかすがに 梅の花 降り覆ふ雪を 包み持ち 梅の花 咲き散り過ぎぬ しかすがに 今さらに 雪降らめやも かぎろひの 風交じり 雪は降りつつ しかすがに 山のまに うぐひす鳴きて うちなびく 峰の上に 降り置ける雪し 風のむた 君がため 山田の沢に ゑぐ摘むと 梅が枝に 鳴きて移ろふ うぐひすの 山高み 降り来る雪を 梅の花 雪をおきて 梅をな恋ひそ あしひきの 山のまに 雪は降りつつ しかすがに 山のまの 雪は消ざるを みなぎらふ 雪見れば いまだ冬なり しかすがに あしひきの 山かも高き 巻向の 巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば あしひきの 山路も知らず 白橿の 奈良山の 峰なほ霧らふ うべしこそ こと降らば 袖さへ濡れて 通るべく 夜を寒み 朝戸を開き 出で見れば 夕されば 衣手寒し 高松の 山の木ごとに 雪そ降りたる (巻10-2319) 我が袖に 降りつる雪も 流れ行きて 沫雪は 今日はな降りそ 白たへの はなはだも 降らぬ雪ゆゑ ここだくも わが背子を 今か今かと 出で見れば あしひきの 山に白きは 我がやどに 雪寒み 咲きには咲かず 梅の花 よしこのころは かくてもあるがね (巻10-2329) 八田の野の 浅茅色づく 愛発山 峰の沫雪 寒く降るらし (巻10-2331) 降る雪の 空に消ぬべく 恋ふれども 沫雪は 千重に降りしけ 恋ひしくの 吉隠の 野木に降り覆ふ 白雪の 一目見し 人に恋ふらく 天霧らし 思ひ出づる 時はすべなみ 豊国の 夢のごと 君を相見て 天霧らし 我が背子が 言うるはしみ 出でて行かば 梅の花 それとも見えず 降る雪の 天霧らひ 降り来る雪の 消なめども うかねらふ 跡見山雪の いちしろく 海人小舟 泊瀬の山に 降る雪の 和射美の 峰行き過ぎて 降る雪の 第11巻~20巻は、ページを改め「雪の万葉歌(下巻)」として記事アップすることとします。 ![]() (雪の浅間山)
最終更新日
2020.02.19 09:50:16
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2020.01.19
カテゴリ:万葉
友人から電話があって、話をしている中で、このところブログの更新が無いが、どうしたのかという話になった。
別に、どうもしていない、ネタが無いだけと答えたが、ネタが無いからと何日も更新しないでいると、「何かあったのか」というご心配をお掛けするというか、不審を招くようであります(笑)。 さりとて、ネタが無ければ記事の更新も出来ない相談、ということで、無理矢理に記事を書いてみることに。 年賀状に万葉集などから新年に相応しいと思われる歌を記すというのが、ここ何年かのわが年賀状のお決まりのパターンである。 で、過去の年賀状に取り上げた歌を羅列してみようと思い立ったものの、気が付けば、もう分からぬこととなっている年度も多くあることに気が付きました。 わかる範囲で書き留めれば以下の通りである。 1994年 1996年 1997年 1998年 1999年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年 2010年 昨日こそは 年は極てしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり 浅緑 染めかけたりと 見るまでに 春の楊は もえにけるかも 不明※下記の歌かもしれない。 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年 2019年 2020年 次の歌も過去に使用した記憶があるが、何年のことかは定かではない。
2019.01.05
カテゴリ:万葉
例年通り、ヤカモチの正月は寝正月でありました。
二日に、家族と枚岡神社、石切神社、瓢箪山稲荷神社と地元の三社を散歩がてらに歩いて回ったのを別にすれば、概ね「寝正月」という次第。 ![]() (枚岡公園から大阪平野を望む) ![]() (同上) 若草読書会の新年会が来月・2月3日(日)にある。新年会は、いつの頃よりか、ヤカモチが万葉関連の話をすることになっている。 いつもは、早めにテーマを決めて、歌に関連した土地を訪ねて「取材」まがいのこともするのであるが、今回はなかなかテーマが思いつかず、年末ぎりぎりになって「万葉集から聞こえて来る音100選」と決めました。万葉集から「音」を感じる歌を100首選び出して資料を作成し、当日は、その中から適当に任意の歌何首かを鑑賞しようという趣向。 このテーマだと「現地取材」も必要なかろうという次第(笑)。 そんなこともあって、家でゴロゴロしつつ、万葉集から100首を選び終えましたが、その中にこんな1首もありました。 隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし (屋内に引きこもってばかりいると鬱陶しいので、気を晴らそうと外に出て立って聞いていると、来て鳴くヒグラシの声よ。) この歌に追和して歌を作れば、こうなるか。 こもりのみ居ればブログのネタもなし銀輪駆けて出で立つべしや(蜆家持) こもりのみ居ればいぶせみ出で立ちて呼子鳥鳴く声をし聞かむ(鳥家持) ネタが無いのもネタのうち、ということで、呼子鳥に「かこつけて」記事をし書かむ、という次第。 万葉集に登場する呼子鳥の歌と言えば、この歌が先ず思い起こされる。 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる (大和で鳴いてから来たのだろうか。呼子鳥が象の中山を鳴きながら飛び越えて行くのが聞こえる。) 呼子鳥については一般的にはカッコウのことと解されているが、ツツドリ説、ホトトギス説、ウグイス説などもあって未詳の鳥である。万葉の頃は、ホトトギスとカッコウの区別はなかったという説もあるから、余り真剣に議論しても始まらない気もする。まあ、今でもヤカモチなんぞはツツドリとカッコウの区別などはできないのであるから、人を呼ぶように鳴く鳥は全て呼子鳥でいいという立場であります(笑)。 カッコウという鳥の名は「カクコフ(かく恋ふ)」と鳴く、その鳴き声に因んでの名らしい。 ワンワンとかニャーとかチュンチュンとか動物の鳴き声の擬声語、サヤサヤとかザーザーとか風や雨など物の音の擬音語、ペコリ(頭を下げる)、ポッカリ(月が出る)、(肌が)スベスベなど物事の様子・状態を表す擬態語などを総称してオノマトペと言うが、カッコウはそのオノマトペであるという次第。牛をモー、犬をワンワン、猫をニャンニャンと言ったら、幼児ならいざ知らず、いい大人なら馬鹿にされるのであるが、カッコウについてはそういう心配はない。ミンミン蝉、ツクツクボウシなども同じである。 これらオノマトペに意味を与えるのが「聞きなし」である。 ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴く、ウグイスは「法華経」と鳴くなどがそれであるが、カッコウの「かく恋ふ」はロマンチックでいい。 万葉歌での「聞きなし」では烏のそれもある。 烏とふ大をそ鳥の真実にも来まさぬ君をころくとそ鳴く (万葉集巻14-3521) (烏という大馬鹿鳥が本当にはお出でにならない貴方であるのに「来る」と鳴く。) 「ころく」は「児ろ来」、「自(ころ)来」または「此ろ来」である。古代の人は、鳥は自由に山を越えて飛んで行くことから、遠い空間を自由に行き来する存在ということで、恋しい妻や夫に思いを伝えてくれると考えていたようであり、また空間のみでなく時間をも飛び越え、過去や常世(死者の世界)へも自由に行き来するとも考えていたようです。ゾロアスター教などの鳥葬もそのような考え方があってのものであり、神武天皇を熊野から大和へと道案内したのも八咫烏という鳥でなければならなかったのでありました。 古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと (昔のことを恋い慕っているであろう鳥はホトトギス。その鳥が鳴いたのでしょう、私が昔を恋いしく思っているように。) ホトトギスは原文では霍公鳥と書かれている。音読みすればカッコウドリである。万葉人はホトトギスもカッコウも区別しなかったという説に従えば、ここでのホトトギスは「かく恋ふ」(このように恋しく思っている)と鳴くカッコウのことであろう。テッペンカケタカ(てっぺん駆けたか)と鳴いたのでは、下記のように銀輪家持風になってしまって、締まらないことになる(笑)。銀輪に恋ふらむ鳥はホトトギス けだしや鳴きし銀輪駆けたか (銀輪家持) そろそろ銀輪始動と参りますかな。 (注)ホトトギスは、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑などとも表記す る。 ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説に もとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこ に杜宇とという男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼 ばれた。 後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中 に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始め る季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くよ うになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った 杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、 などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようにな った。(Wikipediaより) <追記> ホトトギスの「聞きなし」の例(下線部分) (近藤信義「万葉からの視線ー桓武天皇歌のホトトギスー」より、但し現代語訳はヤカモチによる。) ほととぎす来鳴き響もす卯の花のともにや来しと問はましものを(巻8-1472) 暇なみ来ざりし君にほととぎすわれかく恋ふと行きて告げこそ(巻8-1498) 木の晩の夕闇なるにほととぎす何処を家と鳴き渡るらむ(巻10-1948) わが衣君に着せよとほととぎすわれをうながす袖に来居つつ(巻10-1961) 春さればすがるなす野のほととぎすほとほと妹に逢はず来にけり(巻10-1979) 信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く声聞けば時すぎにけり(巻14-3352) 橘は常花にもがほととぎす住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ(巻17-3909)
2018.11.03
カテゴリ:万葉
花園中央公園に荻の群落がありました。
ネットフェンスで囲まれた区域で立ち入ることはできないのだが、ネットフェンスの隙間から、これを覗き見ることができるし、フェンス近くに生えているものにはその穂に触れたりもできる。 このネットフェンスには以前は葛(クズ)が繁茂してその内側が全く見えない状態であったのだが、最近になって、この葛が全て除去されて囲いの内側が見えるようになった結果、内側に群生している荻が見えるようになったという次第。 銀白色の豊かな穂が風に靡く姿が美しい。 ![]() (荻) ![]() (同上) ススキが群生していると思っていたが、よく見ると荻であった。 オギとススキの違いは、茎を1本ずつ立てて、ススキのように株立ちはしない、花穂がススキよりも大きい、などであるが、ノギ(芒)がススキの穂にはあるが、オギにはこれがないということが区別する上で一番手っ取り早い方法である。 (注)ノギとは「イネ科の植物の小穂を構成する鱗片(頴)の先端にある棘状の突起のこと。」(Wikipediaより) <参考>ススキとオギの見分け方 ![]() (同上 穂にはノギが見られない。) 爪と瓜の漢字を混同しないために「爪にツメなし。」と言ったりするが、ススキとオギの区別についても「オギにノギなし。」と言うようです。 ![]() (同上) 荻は万葉集に登場する万葉植物でもあります。 神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて (畏き風の吹く伊勢の浜の荻を寝床代わりに折り敷いて、旅の宿りとしようか。荒々しい浜辺で。) 南北朝時代の連歌集に「草の名も所によりて変はるなり難波の葦は伊勢の浜荻」(菟玖波集)というのがあり、伊勢の浜荻とは難波で言う葦のことだと言っている。葦と荻とは名前を異にする同じ草だと言う訳である。 万葉でも、次の東歌では同じ草だと見ていたことが覗える。 妹なろが 使ふ川津の ささら荻 (あの子が使う船着き場の小さな荻葦のことを、悪いと人々は語り合っているらしいよ。) 一方で、「葦辺の荻」と「葦」と「荻」とを別の植物と認識している歌も存在するから、やはり荻は「荻」であって、「葦」の別名という訳ではないのである。葦辺なる 荻の葉さやぎ 秋風の (葦辺の荻の葉が音をたて、秋風が吹いて来るのにつれて、雁が鳴き渡って行くことよ。) ![]() (同上) ![]() (同上) 姿形はススキに似て、生息場所は葦のそれと似ている。 で、ススキと間違えられたり、葦とごっちゃにされたり、と些か影の薄い植物である。 もう一つ、漢字の「荻」というのも「萩」に似ていて、一瞬「萩」と読み違えたりもする。訓も「オギ」と「ハギ」は似ている。名前からして紛らわしいのもこの植物にとっての不運であったかも知れない(笑)。 銀白色の美しい穂を靡かせても「ススキ」と見てしまわれ、「荻だ!」と主張したら「ナニ、萩?」と見間違えられる、という次第。 我々は生まれた瞬間の第一声が「オギャー」、つまり「オギや」と叫んでいるのに、その後、オギのことは忘れてしまうのである。 まあ、そんなことには少しも気にとめず、今日もあの銀白色の美しい穂を秋風に靡かせて、オギは我々の目を楽しませてくれるのであります。 ![]() (同上) 萩尾花 それこそ秋と 人は言へ 荻の花穂を 秋とや言はむ (荻家持) <参考> 万葉関連の過去記事はコチラ。
2018.10.11
カテゴリ:万葉
(承前)
一昨日(9日)の堺市少林寺銀輪散歩の続きです。 少林寺を後にし、付近を銀輪散歩。与謝野晶子が最初に恋をした男性、河野鉄南が住職をしていた寺、その鉄南の紹介で彼女が与謝野鉄幹と出会った寺でもある、その寺はこの付近にあるのではないか、と思い付いての散策でしたが、その寺の名が思い出せないので、探しようもない(笑)。 大安寺や南宗寺などを覗いて写真も撮りましたが、今日の記事では取り上げないこととします。帰宅して、寺の名前を調べたら、覚応寺でありました。後日、機会があれば訪ねることとし、その折には南宗寺の写真なども使いましょうかね。覚応寺は南宗寺から北へ2kmほど行った処にある寺にて、全く見当はずれの地域でそれを探していたことになる(笑)。尤も、名前も思い出せないのであるから、それほど真剣に探していたというのでは勿論ない。 既に、時刻は正午を過ぎていたので、昼食をとるべしで、堺東駅前方向へと走る。これは、帰途方向でもあり、もう一つの目的地、方違神社のある方向でもある。 南海堺東駅の北側、県道12号の高架下を潜った先にあるレストランが目に入ったので、そこで昼食とする。店の建物は道路から少し奥まった場所にあり、前が広い駐車場になっていて、駐輪にも都合のいい立地。ヤカモチが昼食場所に選ぶ店の決め手は食べ物がどうと言う前に、適切な駐輪場所があるかどうかにかかっているのである。 店の名はと見ると「floresta キッチンコドモ」とある。 「コドモ?」、子ども向けの店?と思ったが、駐輪して、ロックして、店に入ろうとして「コドモ」に気付いたのであってみれば、子ども向けでも何でもいい、という次第で、店の中に。普通のレストランでした。気のせいか子ども連れの客が多いようにも感じたが。 ブロ友のひろみの郎女さんなら、ここで食レポとなるのだろうが、ヤカモチ・ブログでは、この部分はカットとなるのがお決まりなのであります。 昼食後、少し後戻りして、南海電車の線路を越えて反対側にある方違神社へ行こうとするが、踏切ではなく地下通路となっていて、階段である。階段を下りようとすると、下からご老人が自転車を押しながら上って来られる。 見ると階段の中ほどで悪戦苦闘、手が震えて何やら足許も覚束ない感じ。MTBを上に停めて、手助けに入る。「手伝いましょう。」ご老人に代って彼の自転車を上まで運ぶ。「助かりました。」とご老人は人の好さそうな笑顔。情けは人のためならず、というのは「他人に情けをかけると、回り回って自分にもいいことが巡って来る」というような意味のようだが、相手の笑顔によって既にこちらが幸せを貰っているのだから、回り回ってを待つまでもないのである。 この地下通路、線路に直角ではなく斜めに通じている。線路を渡る側は「直角に渡るもの」という潜在意識が働くので、反対側の地表に出た時は、一瞬、方向感覚が狂うのである。方違神社への道としては、これほど適切な道もあるまい、と言うものである(笑)。 ![]() (方違神社) ![]() (同上・説明碑) 上の説明にある通り、この付近は摂津、河内、和泉の三国の境に位置し、それが三国丘や堺の名前に繋がっているという訳である。 この神社を訪ねる気になったのは、今年7月14日に阪大OB・OG九条の会に参加した折に、同期の永〇君と席が隣り合わせとなり、雑談する中で、三国山の万葉歌の話になり、三国丘のことを詠った歌だと彼が言ったからである。小生は、この歌は福井県の三国の山だと思っていた。三国山は所在不詳としながら、福井の三国港東北の山か、とする注釈や解説しか目にしていなかったからだ。 <参考>三人会と九条の会 2018.7.15. 三国山というのは北海道から九州まで全国に18あるという。ここ三国丘はこれに含まれていないから、このようなのも含めればもっと多いのだろう。 三つの国が接する地点を言う普通名詞であるならば、固有名詞とは無関係に候補地はもっと多くあって何の不思議もなく、この歌が誰によって、何処で詠まれたものなのか、その詠まれた背景や事情が如何なるものなのか、が不明であるのだから、北海道などは除くとしても、全国、何処の三国山であってもいいことになるというものである。「ここでは福井県の三国の山か」などと言っている注釈書も、その根拠は示されていない。 この神社には、その万葉歌碑もあるとのことだから、大阪・堺の三国丘説もあるのだろう。同期の永〇君は三国丘高校の出身。三国丘高校は、この神社の南側にある反正天皇陵の更に南側にある。彼にしてみれば、母校の名前でもある三国丘こそが万葉の三国山という大阪・堺説は譲れないということであるのかもしれない。 ![]() (同上・手水舎) 手水舎にある井戸の枠石にも大きく「三国山」と刻まれている。 歌碑は何処に、と探したが見当たらない。 探索と撮影を諦めて、帰宅して調べると、歌は、冒頭の写真に写っている社名標石に刻まれていることが判明した。 自転車・MTBを駐輪させている側の面に刻まれているので、生憎と歌碑文言の面は写真には写っていないという次第。 三国山 木末(こぬれ)に住まふ むささびの 鳥待つごとく 我待ち痩せむ (万葉集巻7-1367) (三国山の梢に住んでいるムササビが鳥を待つように私はあなたを待ち焦がれて痩せることでしょう。) ![]() (同上・拝殿) 神功皇后御馬繋之松というのもありました。 ![]() (神功皇后御馬繋之松) 神功皇后に因む伝承遺蹟は北九州から瀬戸内にかけて色んなものがあるようですが、これもその一つでしょうか。 方違神社の境内から南隣の反正天皇陵を撮影。レンズに微小の埃が付着していたか、中央に何やら亡霊が現れてしまいました。皆さんのPCまたはスマホの画面が汚れている訳ではありませんのでご安心下さい。 ![]() (反正天皇陵) 反正天皇は、父・仁徳天皇と母・磐之媛皇后との間の子。 同母兄の履中天皇亡き後即位した第18代天皇である。 神社の境内の柵越しにご挨拶、立ち寄らずに帰ることとする。 帰途は、再びあべの筋に出て、北上。長居公園通りで右折しこれを東に。長居公園に立ち寄って、ぐるり一周。 ![]() (長居公園) あびこ筋に戻り、今度はあびこ筋を北上。勝山通りに出た処で右折、これを東に。後は適当にジグザグしながら中央環状道路に。 時刻が未だ早かったので中央大通りまで出て、馴染みの喫茶店・ペリカンの家に立ち寄り、珈琲休憩。暫しブロ友でもある店主のももの郎女さんと雑談してから帰宅でありました。(完) このブログでよく読まれている記事
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