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山田企画事務所_研究室

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本能寺の変の群像ー中世と近世の相克

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X003(世界観を変える)2000年原稿■■■■■
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藤田達生(三重大学助教授)の本
本能寺の変の群像ー中世と近世の相克ー雄山閣 2500円 2001年3月
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発行者は佐賀県にある城跡をみてなぜ、このような大城塞・軍事都市がここに
あるのか。日本全国の戦国大名がここに集まっていたのです。ここから、日本
の海の歴史についての興味が始まりました。それでは、秀吉の海外戦略とはな
にであったのか?
http://www.freeml.com/message/umi-rekishi-ken@freeml.com/0000001

今回の本のコンセプトは、「旧体制を倒すために、如何に新概念・大概念をつ
くり、それにより新体制をつくろうとしたか。その新概念の継承者は、それを
止揚したか。」です。
藤田達生(三重大学助教授)の本
本能寺の変の群像ー中世と近世の相克ー
  雄山閣 2500円 2001年3月。

今までの日本史の歴史的概念を切りかえるべき疑問を提示するコンセプト本。
特に第3章は、「本能寺の変」という日本史最大の謎に、当時の文献資料を交
差させていき思いもつかない当時の政治の仕組みを言質される。この推理をど
う納得するか?は、読者の判断です。

16世紀の東アジアにおいては、旧世界の秩序が崩壊しようとしていた。この
ようなグローバリゼーションの時代の織田信長の政治改革の本質は何であった
のか。
この本の4つの課題(仮説)は以下のとうりです。
1なぜ尾張から近世を切り開く権力が誕生したのか。
2信長は足利義昭との抗争のなかで、いかなる国家構想を表現しようとしたの
か。
3なぜ、本能寺の変がしょうじたのか
4豊臣政権のありかたは、信長の政治的達成を、どう刻印づけたか。

以下は明治・大正期のジャーナリスト山路愛山(やまじあいざん)の言葉です。
「今の日本政府は、信長のたてたる政府を継承したるものにほかならず、日本
国民はこの新時代の開祖に感謝しなければ、、」日本の近代国家の源流は、
450年前の信長によるという認識です。

近代日本の基本的コンセプトは、どこからきたのか。民族的記憶の底になにが
あるのか。
藤田先生は、現代の社会状況が、戦国末・織豊期の社会状況とにているような
気がすると述べます。
信長、秀吉。家康この3人の軍事カリスマ独裁者がなぜ、このように、英雄と
してとりあげられているのか。

時代の転換期に、社会不安によって増幅された民衆の爆発的なエネルギーを背
景として強烈なカリスマが登場した。異民族に対する抑圧と戦争によって繁栄
がもたらされるとみる幻想は、信長、秀吉のみならず、そののちも声高に叫ば
れた時代が何度かあった。(p257)。

信長の統一事業は、初期は伝統的な「公武一統思想」にもとづくものであった
が、(足利幕府足利)義昭との抗争を通じて「天下」思想を定立する事で、新
たな王権を確立すべき倒幕を画策する。「天下」というコンセプトを如何に使
い、誰がそれをよりよく理解したのか。この「天下」というコンセプトは、当
時の武士にとって難解な抽象概念であり、武士に対する概念形成で、家臣団の
精神領域にに対する「革命」理論であり、秀吉のみが、この概念を把握し、百
姓(農民)が天下人になるという、最大の「下克上」が実現した。(p254)
秀吉は文学(物語)と宣伝の力を知悉した独裁者であった。中世から近代の飛
躍は秀吉によっておこなわれた。

16世紀。東アジア周辺は、中国を盟主とする文治・官僚国家が、儒教を外皮
とする柵封という外交関係で結ばれる。ただ、日本のみが、信長・秀吉・家康
という軍事カリスマ独裁者であり、まったく異相の兵営国家が誕生した。社会
的矛盾・富国強兵・戦争という連鎖はくりかえられる。現在の原点は、この時
代にある。という指摘がされています。

「1なぜ尾張から近世を切り開く権力が誕生したのか。」のまとめ
戦国の政治史は、将軍家二系統の分裂が基層にあり。細川管領家の細川政元
(1466ー1507)が「明応2年の政変」(1493年)によって将軍を
追放し、「京兆専制」と呼ばれる独裁体制を確立した。この折りの将軍家の分
裂・家位をめぐる対立が、以降の時代に政治対決として展開する。

信長はいわゆる戦国大名から脱皮し、環伊勢湾諸国を基盤とする政権を樹立す
る。尾張をはじめとする環伊勢湾諸国は東国と、西国の境目にあたる場所であ
り、「畿内」と、「東国」発生の領国体制の矛盾と緊張が蓄積された場所であ
る。日本の近世はこの「境界中の境界」の地方から発生した。信長の戦略は、
まず、流通支配をめざす。尾張・美濃・伊勢という3国支配をはじめに行う。
これは、室町幕府側の対立する細川ー三好政権を「環大阪湾政権」と名付ける
なら、それにたいする「環伊勢湾政権」である。それゆえ、「兵営都市・岐阜
」は軍事基地である。例証として、天正3年、信長は義昭勢力との勝算がつき
、その時期から信長文書が、「花押」から「朱印」に変化。表現も尊大化して
いる。


2「信長は足利義昭との抗争のなかで、いかなる国家構想を表現しようとした
のか。」のまとめ。足利義昭との抗争により、天正3年以降、信長の頭に倒幕
思想としての「天下」観ができる。天正3-10年は、信長と室町幕府の二重
政権期であり、「天下」コンセプトの象徴として安土城を建設しょうとした。
君臣関係、父子関係より超越する「公」概念の「天下」を信長は考えつく。こ
の「天下」コンセプトを東アジア世界の再編を念頭において外交戦略を行う。
またこの政治思想のモニュメントとしての安土城を建設する。この安土城は、
長浜城、佐和山城、坂本城、大溝城など琵琶湖をとりかこむ中継地点としての
城郭ネットワークというグランドデザインの構想のうえ、設計された。

3「なぜ、本能寺の変がしょうじたのか」のまとめ。
「本能寺の変」については近年、最近注目されている立花京子説があり、これ
は朝廷側からの関与の視点が提起されている。藤田先生は、この関係に加え、
織田政権内部に生じた矛盾の拡大過程がこの「本能寺の変」であると考える。
天正9年における四国政策の転換。によって、確実に光秀と秀吉の地位が逆転
した。光秀のクーデター劇は、志を一にする人間関係(旧体制派)に裏打ちさ
れて行われた。その人物関係は?。また、その時期、信長が、光秀の軍をつか
って粛清しようとしたいた人物は?、また、秀吉の情報戦略は?、この時期の
ターニングポイントを握っていた人物は、誰か?

4「信長の政治的達成は、豊臣政権のありかたをどう刻印づけたか。」のまと
め秀吉の天下を簒奪する「プレゼンテーション」行為は、大坂遷都論である。
天正13年、豊臣秀吉は、関白任官により、自らの国家思想を明確化する。
この時期までに、「本能寺の変」の主導者をすでに取り込んでいた。この時期
に中世は終わりをとげた。

以上、3の部分は、この本の肝部分なので、書きません。ぜひともお読み下さ
い。


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