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飛鳥京香/SF小説工房(山田企画事務所)

義経黄金伝説■第四章の壱

第四章 一一八六年(文治二年) 足利の荘・御矢山(みさやま)

■一 一一八六年(文治二年) 平泉   

 平泉の伽羅御所の前に、荷駄十数頭が準備されている。東大寺のために沙金が積まれているのだ。多くの人足が立ち働いていてひといきれがする。
「西行どの、気をつけられよ。この街道ぞいに盗賊もでよう」
 秀衡が西行に話している。
「何の、このような老人が、この沙金をもっているとはおもいますまい」
「ともかく、用心には用心じゃ。あの吉次が運搬ことわるとはのう」
 この時、西行は、この秀衡の別策のために,吉次が断ったことを知らない。
「しかたありますまい。これも時勢でございましょう」
「後白河法皇にもよろしくお伝え下されい。法皇さまの意図、この秀衡は十分にわかっておりますゆえに」
 影都の件である。

「わかりました。秀衡さまもくれぐれもお体、大切になさいませ。今、天下の趨勢は、秀衡さまが握っておられます。また、高館(たかだて)の君にもよろしくお伝え下さい」
 高館の君とは、義経の事である。
 伽羅御所側の丘に、荷駄隊とともにさって行く西行の姿を見る僧形の大男が、ひとりごちた。
「義経さまの願いとあらば、しかたあるまい。白河の関までついていくとするか」
 単騎の男は、飛ぶ鳥のような勢いで、出発した荷駄隊の後をつけ始めた。

 同じ折り、近くで物見をしている一団があった。
 伊賀黒田の庄から西行をつけていた黒田悪党である。
この時期、神社仏閣に属する商人は、供御人(くごにん)、神人等として神社や天皇家に属し日本国内の通行の自由を保証されている。黒田悪党は、東大寺の通行証を手に入れている。大江広元の手配であった。

「よいか、西行らを待ち伏せるは、板東足利の荘、御矢山(みさやま)ぞ」
「平泉と板東の境にある御矢山か。あそこなら、願ったり、適ったりじゃ」

 この頃、頼朝は御家人の士気高揚の実益をあげるために、関東地方にある足利の荘、御矢山の祭を後援している。
 御矢山の祭は、いわば、関東武士のオリンピックであり、御矢山には今で言う競技用スタジアムが作られている。鎌倉ご家人が自らの武芸の腕を誇り、また神に前で鎌倉殿にたいする忠誠を見せる意味合いがある。

 御矢山の中央に平坦な凹地があり、南北三七〇メートル、東西二七〇メートルの十段の階段状段丘が巡らされていた。この段丘でご家人たちが、他の武士の武芸を堪能するのだ。

 平泉から板東に向かう奥大道(おくだいどう)をゆく西行一行の荷駄に、矢文が、打ち立てられていた。
 「何事ぞ」。 
その文面を、西行がたしかめた。
「静殿を預かっている。代わりに、黄金三千両差し出されよ。交換の場所は足利庄御矢山。期日は今より七日後の正午とする。黒田悪党」
 と矢文には、記されていた。
「む、静殿が、つかまってのか、この手誰れは、はて、頼朝の手のものか」
「が、鎌倉殿の手先とすれば、おかしくはありますまいか」
 西行に十蔵が告げた。
「それに、西行様、その時は、足利の荘は、御神事ではございませんか」
「そうじゃ、御矢山の祭だ。こやつら、黒田悪党と名乗っておるが、その祭の行き帰りをねらっていたかも知れぬ」
 西行が首をかしげている。
「いかがなされましたか」、
「なぜ、わしが御矢山の祭へ行く事をしっておったかのか。やはり、頼朝殿か これは、わしと頼朝殿しかしらぬ事ゆえ」
「これは、十蔵殿、手働きをしていただくかもしれぬな。それに結縁衆の方の手助けも」
 十蔵と西行には準備が必要であった。


■二 一一八六年文治2年 足利の荘・御矢山(みさやま)   

 下野(しもつけ)国足利荘は、奥州平泉から続く奥大道が坂東にはいる陸奥の国との国境にある。頼朝が平泉を攻めるなら前線基地となるところである。
 この場所で、頼朝の命にしたがう坂東の武者たちがあつまり、神事として武威を見せる祭りは坂東武者へのデモンストレーション効果を狙っている。
 足利荘は、北東部に小高い丘陵地が綱なり、遠く奥州山脈に繋がっている。その丘のひとつが御矢山(みさやま)であり、武神を祭る御矢神社が、近在 の武士の信仰を集めていた。その山懐の一角が、御祭りを行う、御矢神社競技所が設けられていた。

 この御矢神社御祭りでは、頼朝の命により、近在の所領を持つ地頭、御家人に輪番で、頭役を命じていた。
 御祭り御矢神社競技所には中央に広場があり、石の祠を中心に、長径三九〇メートル、短径二六〇メートルのコロシアム状に作られていて、その周りを、間隔十メートルの土壇が十段北部斜面に向かって伸び上がっている。土壇は、御家人各家の桟敷である。その並び方によって、鎌倉に対する忠誠心と権力構造がわかるようになっている。

 むろん中央には、源頼朝家族、そして舅の北条時政を中心とする北条家がとりかこむ。天皇家勅使御桟敷があり、坂東の主な名家が、千葉氏、和田氏 、佐々木氏、梶原氏、足利氏、小山氏等が取り囲んでいる。

 御神事が行われた後、武技である、弓戯、相撲が夫々に郎党の参加により行われている。
 有名な神事ゆえ、日本全国から、この祭りを目指して商人たちが集まっていた。参道には、商人が日本各地の珍しい産品を広げ口上を述べている。白拍子、道化師、放下師、曲芸師などが、歌を歌い、話芸を行い、面白おかしい娯楽を、一般庶民にも与えている。

 日本の軍旗である長旗(流れ旗)が、各家の家紋や、信仰対象である八幡菩薩の文字などをあしらい、空風にはためいている。競技場に参加する華やか な装束の騎射武者があたりを駆け抜けている。

 通例祭りは五日間ぶっ通しで行われ、白拍子の舞、猿楽、田楽などが行われた後、武芸競技が行われるのである。
 「小笠懸」「相撲(すまい)」「草鹿」「武射」「競馬(くらべうま)」などが、主な種目であった。このため五千人くらいの人々が、集まる。山の中の儀式なので、宿泊のための仮小屋が、あちこちの丘上に立てられている。屋根は尾花で葺かれている。

 競技場の周りには、弓矢をしつらえた北条家騎馬騎士が警護している。西行の荷駄隊は、頼朝との約束とおり、この御矢神社御祭りにたどりついている。

 黒田の悪党との取引は、この祭り跡で行われるのだ。

 黄金荷駄隊は、この祭りに集まる武家たちとは異彩を放っている。鎌倉の御家人は、平家を先年滅ぼした勢いのある時期の鎌倉殿の祭りとはいえ、 源頼朝は、まだ征夷大将軍の位を、京都の後白河法皇からいただいていない。その源頼朝に、完全に承服はしていないのだ。それゆえ、何かの一大事に備えて各家の騎射武者を武装させて、待たせている。御祭り会場は、一種異様な緊張状態であった。

 競技場からは、御家人たちの観戦のどよめきが聞こえてきた。その絶え間ない歓声が、声が津波のように繰り返し、近在の山々にこだましている。

「西行殿、こちらへ、」
 西行は、頼朝の家人にゆうがまま、競技場に向かっていた。
 東大寺闇法師、十蔵は、この競技場にたどり着く前に姿を消していた。
 競技場の飾り手照られた門をくぐり、その道は、観客関にあたる土壇をつききっている、西行は、競技場の真ん中に立たされていた。

 観客の目が西行に注がれ、五〇〇名と思われる観客の目の圧力が押し寄せてきた。急な演目の変更に、観客はどよめいていたが、やがて、それは一瞬の静寂を呼んだ。
 西行は、くらくらと、緊張し、少しよろめいた。やがて、中央土壇にいる人物がゆっくりと立ち上がり西行にかたりかけた。
 源頼朝である。
 最初に、西行を扇子で指し示す。

「高き所より、失礼する。今は私がこの祭事の主催者なのです。聞いて下され。御家人衆の方々。ここにおられるは、西行法師どの、元の名は、佐藤義清(のりきよ) 殿。鎮守府将軍藤原秀郷(ひでさと) 殿御子孫です。わが願いにて、ここ御祭りに来ていただいた」

 驚きの声があがる。
 平将門を討った藤原秀郷は、この坂東地方では、武士の鏡である。
「そしてまた、西行殿は、奥州藤原氏との御親戚だ」
再び感動の声があがる。
「さらには、今は、奥州藤原氏よりあづかった、奈良大仏塗金用の砂金を運んでおられる」
三度、声が、ご家人からあがり、競技場に響きわたって。
頼朝は、この御家人の歓声を受けてほんのり顔を赤らめていった。

「西行どの、ご安心めされよ。我々、鎌倉勢は、その砂金を奪おうとはいたしませんぞ。このご家人衆の前で、西行殿と砂金の事をかたるは、道中の安全をはかるため。この頼朝が、西行殿の安全をはかると言った以上、約定は守らなければなりますまい」
 頼朝は、さらに告げた。
「さらに、西行殿の弟、佐藤仲清どのの所領、紀伊国田仲荘のご安堵をはかりましょうぞ。。高野山との争いをおこしておられる。以前は、平清盛殿から、安堵いただいたそうじゃが、今は、平家ではなく、我が源氏にまかせらるが常道。おわかりか。そうじゃ、西行殿は北面の武士であられたときは清盛殿とご同輩と聞き及ぶ」
 歓声は続いた。
 土地の所有安堵に関して、鎌倉の源頼朝が握っている事を、知らしめている。この御家人衆の前で、西行の氏素性を、検めるは、頼朝に、目的があった。
「西行どの、先の月、鎌倉にて、古式よりの弓馬の道を教えていただきました。それゆえ、我が源氏の平家への、戦勝を祝うこの祭りにて、その秀郷流の兵馬の道を見せていただけぬか。この板東の武家にのう、元々、佐藤家ご出自は、板東下野と聞き及びます」
 きっと、西行は、土壇段桟敷上の頼朝を見上げる。
「頼朝殿、黄金輸送を鎌倉殿が責任をもっていただけるというかのう」
 西行はしばらく黙った
「あの砂金は、大仏を完成させて、天下静謐を願うために使うものです。きっと武士の約束を果たしていただけるか」
 頼朝は、いらなぶ板東御家人もの前で、西行をにぎりつぶすつもりだ。京都の武家、平将門を倒し、藤原秀郷の九代目の子孫、その子孫を、鎌倉殿である、私、頼朝の前にひざまつかせるのだ。
 また、奥州藤原氏の黄金の荷駄隊を見せる事により、これから握りつぶすべき、奥州藤原黄金王国が、黄金郷である事を示しそうとしていた。武威の行為である。
 頼朝は、平家を滅ぼしたその勢いをもって、今、奥州独立国を制服しょうとする。その象徴の儀式として、西行と、奥州荷駄隊、この板東の後家人に祭りで見せたのだ。

 奥州は、何度も、源氏の征服への挑戦を退けている。かたわらにいる大江広元も、その証明。彼の祖祖父大江匡房(まさふさ)も、奥州へ攻め入る戦略案を考えている大学者である。前九年の役(1051年から1062年)、後三年の役(一〇八三年から一〇八七年)であった、
 頼朝の四代前、源氏のスーパースターである八幡太郎義家がその有名人であった。

 しかし、今現在、最大の難敵は、義経である。
 奥州黄金と義経が結びついた時、それを恐れる。義経が逆に鎌倉に攻め入る悪夢をみるのだ、
 その前に、西行をはじめ、奥州の守りのひとつ、ひとつ、を切り崩しておく必要があった。まずは、西行、そして砂金である。
「わかり申した。約定はきちりと守らしていただく」
 内心は冷や汗が流れているが頼朝はそれを見せるわけにはいかぬ。 むろん、傍らの大江広元もまた。
「西行殿、ささ、こちらへ、」
西行の前に馬と武具が準備されえていた。
「どれでもお好きな馬と弓をお選び下され」
西行は、かって北面の武士の頃を思い出している。
そして出家して後、30年にわたる高野山の荒行も。高野の山々千尋の谷、いまだにひやりとする。あの折は、重源殿にお助けいただいた。 さらに、文覚にも、荒行中にあっている、重源殿は、奈良東大寺で、西行、いや黄金の帰りをまっている。文覚は、今は、この桟敷の頼朝の隣にすわっている。
「佐藤家の名前を汚すわけには、いくまい」
 この頃、家名は、絶対的価値である。

 そして、頼朝が、西行を藤原秀郷の九代目を呼ばわった事は、ある種の確認であり、西行の隠れた望みであった。藤原秀郷の正当なる後継者であると、ご家人どもが認めてのである。

 この家名以外にも、西行が貫徹しなければならない約束がある。それは、慈円(じえんー藤原兼実の弟)や、藤原定家と行っている「しきしま道」の完成である。これが完成すれば、言葉によっても、日本は、京都王朝は、守られるであろう。
 歌集の完成をみなければならぬ、それまでは、西行は生きのびなければならないのだ。
 そして、それは、京都の今はなきあの麗しい方への、生涯をかけた西行の約束の貫徹である。
 走馬燈のように、西行の頭の中に、京都の思い出が蘇る、、

 今は、前には、的が準備されている。1町は続く流鏑馬道がのびていて、観客の武家の人間がかたずを飲み、秀郷流の腕前を見ようとしていた。

■三 一一八六年(文治二年) 足利の荘・御矢山(みさやま)   

頼朝は、皆より一段高い御矢山競技場土壇上から、西行の流鏑馬を、見て満足しょうとした。
今、七十歳にならんとする西行は、昔のこと、北面の武士である事を思い起こそうとしていた。この老躯に、果たして役目が務まるか。しかし、わずかながらでも、体の反応が残っているだろう。それにかけるしかあるまい。まだ、我が生涯の目的のため、負けるわけにはいくまい。

当時の馬の大きさは、前脚のひずめから肩の一番高い部分までを体高とした、日本の在来馬は、四尺(約一二一センチメートル)を通例とする。
軍馬の場合は少し大きく四尺三寸(約一三〇センチメートル)が標準である。
西洋のサラブレットの体高が一六〇~一七〇センチメートルなので、西洋高のポ二ーの大きさに相当する。中国の軍馬の条件は約一二一センチメートル以上であり、秦始皇帝の兵馬俑にある馬俑の平均体高は、一二一センチメートルであり、アジア地方草原馬の標準といえた。

当時の木製弓は、弦を外した上体では反りがなく、直線で樋のある腹側に
弦をそのまま掛けている。木の性質から弓はしならず、世界級大きなものとなり、平均で七尺二寸(約二一〇センチメートル)となり、馬の体高より大きい。
弦は、麻の繊維を錬り、その上に補強のため漆を塗る、あるいは、糸で巻き閉めてから漆を塗る。
矢は、鏃(やじり)矢羽、ヤガラからなる。矢の長さは、握り拳ひとつを1束とし、十二束(約八三センチメートル)が標準であった。ヤガラは本体部分で篠竹をつかう。
鏃は、武士の流鏑馬には、鏑矢が使われている。

西行は、見事に、流鏑馬を行い、的を打ち据えていた。二度三度、流鏑馬の走路(さぐり)を走り終え、的をすべて当てていた。
賞賛の叫びが、下野の国足利の荘・御矢山競技場にこだましていた。
この時期は、弓矢道が戦いの常道である。戦いの主役は刀剣ではない。
頼朝は考えている。この西行の藤原秀郷流の武門の技を、まして、七十歳にもなる男の見事さを、この坂東御家人の前で、見せるのは、

頼朝は、歓声の中を、急に立ち上がった。扇子を振り上げている。
「見事じゃ、見事じゃ、西行殿、さすがは、俵の藤太。藤原秀郷どのの御子孫じゃ」
藤原秀郷は、弓矢の達人として、東国の御家人からの崇拝の的である。昔語りに「近江三上山の大百足を退治し、竜神から小俵、反物、鍋、武器をもらった」という伝説が、この時代の人々の頭に埋め込まれている。

「西行殿どうじゃ、射組の試合はいかがか」
流鏑馬で、二人が合いむかい、お互いの相手を的に打ち合おうというのである。
観客から驚きの声があがって、騒がしかった。
「対戦する相手は、そうよのう、」
頼朝は、しばし考え、口を開いた。
「そうじゃ、私がつとめよう」
一層の興奮が、周りの武士たちを驚かせ、感動させる。頼朝は弓の上手として、子供の頃から有名であった。
「百発百中の芸を振って、合い戦うる事数度に及ぶ、射殺すところの者これ多し」と当時の文献に書かれていた。
この坂東で、先輩にあたる京都の北面の武士と射る合いをする事も無駄ではあるまい。と頼朝は思う。
「頼朝殿、それは」
頼朝の傍らにいた、大江広元と、文覚が、同時に叫んでいた。

■四 一一八六年文治2年 足利の荘・御矢山(みさやま)   

競技場は、頼朝、西行の2人流鏑馬対戦のため準備がはじめられている。観客の叫び、興奮は、もはや尋常ではない。
伝説ともなるべき試合が、今繰り広げられようとしているのだ。
夫々が、一町離れて、対面にたち、馬上から狩俣の矢をつがえて突進する。

木製弓は、強靱だが弾力がない。弓がしならないために、深く引き絞る事ができない。そして飛距離がでない。
お互い馬上であらえば、なおさら引きしばれない。相手の至近距離で構える理由はこれである。
流鏑馬は、左横の的を射る。弓は左手に持ち、左横の目標を撃つ。的が正面にあるうちにねらいをさだめ、流鏑馬では走路(さぐり)から、わずか3尺5寸(約一〇〇センチメートルで)で鏃がふれんがばかりに射る。矢でねらうは、「最中」つまり体の腹部である。

頼朝にとって、西行は、京都王朝のシンボルだった。板東王国をつくるべき今、自分、頼朝に将軍位を渡さないのも、いわば、ご家人衆からもれば、 京都におわす後白河法皇の考えであるとし、西行の行動の後ろに、後白河法皇が見え隠れする。
西行が、この不穏なる時期に、奥州平泉に行ったのは、京都王朝と奥州平泉の協同作戦の話に相違あるまい。そしてその作戦中心人物は、義経に相違あるまい。西行の後ろに義経の陰を見るのだ、西行は義経にとって、いわば育ての親代わり。
西行は、この板東の最初の独立国、平将門の新しい王国の夢を、破りし藤原秀郷の子孫、それゆえ、京都王朝の意志を感じる。
ともかくも、西行は、これから頼朝が打ち倒すべき敵の象徴であった。
いくら年齢の差があろうと、負けるわけにはいかぬ。まだ、完全に、頼朝は板東地方を把握している訳ではない。平家という宿敵が南海に沈んだとしても、鎌倉が堅固なる国家にはなっていない。
武家の象徴であるべき頼朝は、ここで、京都王国と武家の象徴である、西行を、後家人衆前で、倒す意味がある。

逆に対手である西行は、考えている。
(さてはて、十蔵どの、ご準備の方はよろしいかな)
山並みのいずかにいるはずの十蔵に、願いを送っている。
西行の働きは、天下静謐が、目的なのだ。そして、あの麗しき方への、人生をかけた約束をはらさねばならない。
崇徳上皇様との約束も、また、日本を敷島道でもって霊的に保護する企てもなしてはいない。まだまだ、人生においての宿願が、西行の胸にはある。
義経が、この鎌倉を打ち破る可能性もあるのだ。この砂金が、重源に届き、京都の後白河法皇が手助けの方策をとるならば、この頼朝ひきいる板東王国も盤石ではない。

意志として、鎮守府将軍藤原秀郷の後裔、西行の血が、頼朝を破れと命令していた。

御家人衆の興奮の中、大江広元は、まわりの武家とは異なり、おそれをいだく。もし、頼朝殿があの西行に負ける事があれば、源氏が、この板東の、また、奥州においても、武門の誉れでないことを意味する。武門の王ではないのだ、とすれば、大江広元が頼るべきは、いったい、誰を。大江広元は密かに、北条家の面々の方をゆっくりと、盗み見た。

文覚は、考える。
(せっかくの板東王国が滅ぶ事があれば、奥州平泉が、日本を支配する事になれば、京都の寺の勧進を誰をたよるのか。仏教王国である奥州平泉に頼む事になるのか。いやはや、とすれば、また、後白河法皇に依頼せざると。いやいや、滅相もない。ここは頼朝殿に一勝負挑んでいただけなければ、ここでの武家のメンツはたつまい)
それぞれの想いをよそに、準備はとどこおりなく整う。盛装となった2人は、流鏑馬道の両端にいる。
「頼朝殿、ワシがこの勝負に勝てば、砂金の安全を。この西行を京都に帰らせ、黄金を、後白河法皇に渡す。これで頼朝殿の名前をあがりましょう。まして、頼朝殿は仏教三昧の方と聞き及びます」
伊豆に流された後の、頼朝は、たしかに朝から晩まで、仏教を唱和してきた。
「くどい、西行どの、はじめにご家人の面前にて、その事告げておろうが、この鎌倉の勢力及び範囲であれば安心あれかし」

「いあざ、いざ」
「そうれ、それ」

両者は、駆け抜けた。
一射目は、鏑矢の羽音が西行の耳をそぎ、頬には擦過傷の血がうっすらとにじむ。
「はずしたか」頼朝がくやむ。
馬の首をめぐらし、再び対戦に入る。
「いざや、二射を目にもの見せん」
西行は、顔をそらさなければ、つきたっていたかもしれぬ。
お互いに矢をいるは一本一射のみ、走り貫けるに、次の矢をつがえる間はない。
ましてや、背面から射るのは、作法にもとる。

二射目。
頼朝の矢は、西行の正面法衣をつき抜けていたが。体には触れてはいない。
が、逆に西行の二射目は、頼朝の防衣をつき抜けようとした。が防具が、そのエネルギーを別の方向に逃げさせ、馬の鞍から弾き飛ばしていた。
思わず、頼朝は馬から背面にころがる。
時が止まったように、観客のざわめきが、静寂に変わった。

「そこまでじゃ」
大江広元が叫んでいた。これ以上の醜態を、ご家人どもの前では見せられぬ。
「皆の方々、おわかりであろう。西行殿、秀郷流武芸はここ板東で発生し、京都にいっても不滅である。その西行殿の腕を頼朝殿は、しめされたのじゃ。無論、どちらも相手を射殺す事はないのじゃ」

しかし、走路(さぐり)に落ち足る頼朝は、たちあがり、そばに落ちている弓矢をそれぞれ拾い上げた、
矢をつがえ、馬上の西行に向けた。

西行も、しかたなく三の矢を頼朝に。
静かに、精密に北条家からなる近衛の弓兵隊が頼朝の動きに合わせ、会場の各所から、西行一人に向けて、その鏃を向かわせた。
頼朝の弓が、西行をねらっている、そして、西行もゆくりと、的を頼朝にしぼった。
西行は思った。
(よいかな、頼朝殿。私をまた、藤原秀郷にしたいか)
藤原秀郷は、平将門の額を打ち抜いている。それをもって、平将門の乱(九三五年から九四〇年)は終わり、最初の板東独立国はついえたのだ。
そして 藤原秀郷は、鎮守府将軍となり、武家の尊敬をあつめた。秀郷はそのとき六四歳だった。

場は沈まりかえっている。誰一人動こうとはしない。

「おまち下され」
全員がその声の主を見た。
頼朝の妻、北条政子だった。土壇上部から、叫んでいた。
「弓をさげよ」
そばには、娘大姫がうつろなる表情で、たくましき母親の様子をかいま見ている。
「西行殿を、頼朝殿以外の射手が、射るは卑怯でございましょう。武門の名折れ。我が夫、頼朝殿の武門の名前をあげるときです。頼朝殿に恥をかかせてはなりません。みなさま弓をさげれれよ」
「そうじゃ、皆、弓をさげよ」舅の北条時政が、和した。
板東武者は、武威を好む。武家の棟梁とと仰ぐ頼朝が、その武威を見せねばならない。と北条家はいうのだ。
弓手隊は、弓を下ろし下がった。

「そもそも、西行殿はお客人。まして板東武者の端源、藤原秀郷殿の腕目を、みなさまにお見せするた、ここに来ていただいた。頼朝殿はその座興に的になられたのじゃ。いかに頼朝殿が武芸の達人といえど、秀郷流にはかないません。これは我々坂東武者が一体となれりて、奥州をせめんがための座興ぞ。我々が油断せず、平泉を攻めるがためじゃ」

「先の保元の乱以来、親子、兄弟が合い争うは、この世の常じゃ。我々が仲間割れせず、平家を南海にしずめ、先には白川の関を越え、奥州をうつは間近ぞ。義経は、我が夫、頼朝殿や、皆様方へのご恩を忘れ、平泉に逃げ込み、我々をねらう。
坂東をまた、いずれかの支配の地におきたいか。
これは我々の宿願であろう。我々、板東が勝つか、平泉が勝利するかは、それは皆様のお力や、お働きによる。
我々が砂金をもって、京都に行き、後白河法皇に閲覧に拝し、奈良大仏も再建しようではございませんか。さすれば、京都の貴族たちも、我々、板東武士の意向にはむかう事は不可能でございましょうぞ」

政子の傍に控えている、父親北条時政は、弁達の我が娘に向け、うっすら笑いをこらえている。

競技場にいる頼朝が、矢を下ろして、政子の言葉に続けた。
(いかんせん、熱くなりすぎたぞ。今は。政子に助けられたか。ここが潮時。如何に納得させるかだ)
「西行殿と、砂金を京都に送り返すは、我々鎌倉の誠意と実力をみせんがためぞ。板東の武家の方々、、そして、源氏、我が北条家の方々、坂東名家の方々、心して聞かれよ。この日本をこれから、動かすは、我々坂東武士ぞ。」

西行が、頼朝の演説を途中で止めた

「でもな、頼朝殿、この周りの様子、そしてあの音を聞かれよ」
(やっと、か。十蔵殿、時間がかかったの)
地鳴りが、競技場にすこしづつ響いてきている。
「なに、これはいったい」
業腹の武士たちも、あたりの異音にきづき、騒ぎ出す。

御矢山の山奥から、その近在の山腹からも、人々の気配と異音が津波のように押し寄せてくるのだ。
目指すは、どうやらこの御矢山競技場。

御矢山神社参道や周囲にいた、道道の輩も、自らの仕事場所を打ち捨てて、競技場周りに集まりつつうあった。
この人間達を北条家の護衛兵が押しとどめようとするが、多勢に無勢である。

「京都には貴族があらえる、板東には武士、しかしながら、いにしえより、大和地方で今の京都王朝が、成立する前に、民がいた。この日本の各地、国々に、京都の意向、お主ら武士にも承伏できぬ民草がおられる。この方々との縁も、この西行はもっておる。その方々が、この西行を助けようとされておる。さあて、如何なさるぞ、頼朝殿」


■ 五 一一八六年文治二年 足利の荘・御矢山(みさやま)
■    
下野(しもつけ)国足利荘御矢山(みさやま)武神を祭る御矢山神社の山々が揺れ動いているのだ。
やがて円形競技場の周りに、人の波が現れている。結縁衆が、競技所のまわりと取り囲んでいる。

「よいか、頼朝殿、我が手には、結縁衆がついておる。ご存じのとおり、京都王朝が成立する以前の日本全国におかれた方々じゃ。その方々との縁も、この西行はもっておる。いかがかな。ここは、この西行を、京都へすんなりと行かしていただけぬか」
西行が、流鏑馬の終わった競技場の中心で、頼朝に向かい叫んでいた。

「西行、この仏敵め」
土段上にいる文覚が、叫んでいた。
西行が答える。
「文覚殿、よいか、平泉は仏教王朝ぞ、その仏教平和王国を、この頼朝殿はつぶそうとして追われる。その考えを吹き込みしは、広元殿か、あるいは、おぬし文覚殿か」

再び、競技場、土壇の武士の動きが激しくなった。家人、郎党を呼び寄せ、戦支度を始めているのだ。一部は馬の止まりに走り初めている。

この騒ぎに再び、あの声が朗と響いた。

「今は神聖なる祭りの時、場所じゃ。双方とも武器をしまいなさいませ。ここでの戦さは不要、無用じゃ。
我々坂東武者は、日本の政治(まつりごと)を正さんがため、挙兵し、平家を滅ばした。我々は、これから日本の政を正しくおこさんが者たちが、商売や芸事を生業とする民と戦うは、意味あることか、お考えなされませ。
我々、坂東が武者は、すべての民のため、正当なる政治を行わんがため、打ち働かん。今周りを取り囲みし方々も聞かれよ。
我らは、まっとうなる政治を打ち立てん。周りにおられる方々も、安んじて生活できるたつきを与えようぞ」

北条政子であった。

それを受け、流鏑馬道で、西行に向け、弓をひいていた頼朝が弓を手からはずし、大声で叫んだ。
「よいか、皆方々、聞かれよ。本年の御矢山御祭りは、この西行殿と頼朝の流鏑馬射合をもって終わりといたす。皆には元鎮守府将軍藤原秀郷流の武芸を見ていただいた。これをもって領地への土産話とせよ」
あたりは、承服できない武士たちがいる。

再び、頼朝が告げた。
「よいか、領地に引き上げられよ。今ここで刃傷沙汰に及ぶは我が鎌倉に、弓を引いたとみなす」
少しつつ、競技場から人の波が引いていく。

頼朝は、競技場傍に設けられた仮屋敷に戻り、体を打ち振るわせ、怒りをあらわにしている。大江広元と、文覚の二人を前に怒鳴っている。

「よいか、本日は自重しょう。が、奥州平泉を攻め滅ばした後はかならづや、西行とその結縁衆を滅ぼせ。また、あの西行の敷島道を完成させてはならぬ、我々武士の武威と、仏教にて、この日本は支配されるべきぞ」
「ははつ、かならずや」
二人は唱和した。
「奥州平泉を滅ぼすのは、我が大江家の悲願でもあります」
「頼朝殿、ワシは、その頼朝殿の考えに惚れたのじゃ」
文覚が言葉を続ける。
「奥州仏教王国を滅ばしさん、その黄金を手に入れて、今度はこの鎌倉を仏教王国にいたしましょう。そうじゃ、我が鎌倉にも大仏を建設いたしたしましょう」
大江広元が言葉を継いだ。
「結縁衆の奴輩には、我々が恥をかかされておりまする。たとえ、比叡山、高野山がどういおうと、奴らを、山の中においこみましょうぞ。この街道筋や、湊泊まりに、居る場所がないようにいたしましょう、その支配の形を頼朝殿のお力でなしとげましょうぞ」

摂津、川西多田から鉱山貴族となり、金属資源の使い方を知り尽くした軍事貴族である、源氏は、当時最大の黄金郷、奥州平泉を攻め滅ぼさねばならなくなった。それが昔年の、源氏の氏長者(うじちょうじゃ)、頼朝の使命だったのである。

別の仮小屋では、北条家の面々が集まっている。
「婿殿は、我々板東政権によって、いらぬ時がくるかもしれぬのう、政子殿、その事、政子殿考えておられよ。幸い、2人の子供に恵まれておるが、我らが源氏の方々を頭にいただいて、いくが当然じゃが、その氏の長者がやくにたたぬ時もありえよう」
北条時政が周りを見渡し言った。政子は、顔を青ざめながら、ゆっくりと首肯した。

その頃、頼朝は大江広元だけと話をしている。
「広元、ワシは、お主の使わせた、手先の者どもの事は相知らぬぞ。おまえに任せるが、失敗した折りは、すべて、お主が責任をとれ。お主がどう動こうとワシは知らぬ。また鎌倉郎党の者も使うのはやめよ」
矢継ぎ早に、頼朝は命令する。
「まさに、ここ、御矢山で、西行が盗賊に会うは、ご神前で誓ったワシが恥をかく。また、この事は、文覚にしれるではないぞ」

しばらくして大江広元が、北条政子に呼ばれていた。
「ここは、ふたりだけの相談でございます。大江殿、いかが考えられる、いやこれからの攻め手の事」
大江は、頭を振り絞る。ここは、政子殿、いや北条家に自分の知略を見せておかねばなるまい。
「あるいは手として、義経殿の命と、奥州黄金の支配権とを天秤にかける方法もございましょうが」
「それは、坂東の方々、世の方々が納得すまい」
「武士は武士。それはそれ、後白河法皇の勅宣という事もございましょう。まして、藤原秀衡様が亡き後ならば、義経殿の支配に、奥州の武士の方々がつき従うとお思いですか。それはありますまい」
「それはなぜじゃ」
「奥州は、源氏の流した血で汚れておりますぞ。その象徴である義経殿を、中心にすえるは、奥州武士の面々がいかにも納得いたしますまい。まして義経殿の戦い方は、山丹の手法。我が国の手法ではない。奥州武士が納得いたしません。ここは、京都を利用利用いたしましょう」
「如何に。大江殿」
「我が物見によれば、決して、奥州平泉の兄弟仲は良くはありますまい。鎌倉殿に、この日本の沙汰(支配権)を奪うまでは、利用できるものはすべてお使いになられた方が。京都、奥州、さらには、あの西行殿の手下どもも」
と告げて、大江は、政子の顔をじっくり見た。
「まして、義経殿は、平家を滅ぼした戦の上手でございますぞ。義経殿の和子がまだ生きておわす事を知るは、政子殿と、この広元のみでございます」
 政子はひやりとして、少しばかり話題を変えた。
「この日本に昔からおられる方々を、支配しやすく、いたしましょう。住む場所をきめますのじゃ」
「良き考えです。また、板東には、京都から新しい仏教を移住させ、武者殿の精神的背景になる教義を使いましょう。我々が許す信仰しすい形の仏教を広め、鎌倉を別の佛都にするのです」
「頼朝殿が大将軍の位におつきになり、この国をおさめる事になっても、この国の民をお忘れなきようにお願いいたします。この国は武士だけによって動いているかわけではございません。京都の貴族、我我、武士。文覚殿のような法師殿が支配するわけでもない」
「作用です。国を富ましましょう。そして、相国平清盛殿が押し広げた中国宋との貿易、また平泉がもつ山丹の貿易利権も、手にいれましょうぞ。さすれば、あのような、民草は恐れる必要はございますまい。土地の支配権を、貴族や仏教からとりあげ、土地は、我々、板東の者ためにいかしましょう。それこそが、我らが生き残る道でございます」
大江広元は、北条家に乗り換えていた。

御矢山神社にある荷駄隊の馬留め場まで戻った西行は、十蔵の顔を発見した。
早々と、武士の郎党は、この神社境内から姿を消しつつある。田舎にある神社の静寂が、すでに戻りつつある。
西行は、十蔵に頭をさげながら、つぶやいた。
「ふふ、また、おかげで生き残ってしもうたのう。お役目ご苦労でした。が、十蔵どの、今度は静どのを助ける番か」
東大寺闇法師、十蔵はにやりとうなずいた。



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