「義経黄金伝説」■□ 第8号
■■第1章8 一一八六年(文治2年) 鎌倉 頼朝屋敷を出ようとすると、背後から声が掛かる。西行は後方を振り向く。「西行殿、ここで何をしておるのじゃ」聞いたことのある声だが…、やはり、、頼朝の荒法師にして政治顧問、文覚(もんがく)が、後ろに立っている。傍らに弟子なのかすずやかな眼差しをした小僧をはべらしている。「おお、これは文覚殿。先刻まで、大殿(頼朝)様と話をしておったのじゃ」「話じゃと、何かよからぬ企みではあるまいな」 文覚は最初から喧嘩腰である。文覚は生理的に西行が嫌いだった。西行は院をはじめ、貴族の方々とも繋がりをを持ち、いわば京都の利益を代表して動いているに違いない。その西行がここにいるとすれば、目的は怪しまなければならぬ。「西行、何を後白河法皇(ごしらかわほうおう)から入れ知恵された」 直截に聞いている。元は、後白河法皇から命令され、伊豆の頼朝に旗をあげさせた文覚であったが、今はすっかり頼朝側についている。それゆえ、この時期に、この鎌倉を訪れた西行のうさん臭さが気になったのだ。「さあ、さあ、もし、大殿に危害を加えようとするならば、この文覚が許しはせぬぞ」 西行も、この文覚の怒気に圧倒されている。文覚は二〇年ほど前を思い起こした。1166年京都「西行め、ふらふらと歌の道「しきしまみち」などに入りよって、あいつは何奴じゃ」 文覚は心の底から怒っていた。文覚は怒りの人であり、直情の人である。思うことは直ぐさま行い、気に入らぬことは気に入らぬと言う。それゆえ、同じ北面の武士(ほくめんのぶし)のころから、気が合わないでいた。西行は佐藤義清(さとうのりきよ)という武士であった頃は、鳥羽院(とばいん)の北面の武士。院の親衛隊である。西行は、いわば古代豪族から続く政治エリートであり、それがさっさと出家し、歌の道「しきしまみち」に入った。それも政治家など上級者に、出入り自由の聖(ひじり)なのである。 いわば、北面の武士よりも自由を得、知己も増えたのである。それが故、文覚の気に入らなかった。 文覚の罵詈雑言は、京都になり響いていた。やがて、後白河法王に対する悪言が、後白河の耳に入って来たのである。「私のことを悪し様にいう、文覚とか申す僧主おるそうな」「これは法皇様のお耳を汚しましたか。厳重に叱り付けましょう」「よいよい、その文覚という男に、私も会ってみたいのじゃ」「これは、法皇様も物好きな」 やがて、文覚が、法皇の前に呼ばれて来る。 法皇に対して正々堂々と政治の有り様を述べる文覚は、流石である。一応しゃべり終えたと思われる文覚に、後白河は思いも付かぬ言葉を告げた。「どうじゃ、お主、面白い男じゃ。いいか、伊豆へ行ってみぬか」「、、、伊豆ですと」意外な言葉に言葉もない。「そうじゃ、伊豆じゃ」「何を申される。このおり、私を罪に落とされるつもりか」「いや、そうではない。良く聞け。源氏の頼朝が伊豆に流されておる。その男に会って欲しいのじゃ」文覚は頼朝を説得していた。1180年永暦元年、今から6年前のことである。文覚は、頼朝を前に懐の袋から、古びた頭蓋骨を取り出していた。「頼朝殿、この髑髏、どなたの髑髏と思われる」 このとき、すでに文覚の幻術中に、頼朝は入っている。無論、そんなはずはない。それゆえ、常人の常識は通じない。文覚の声が、遠くから聞こえて来るようであった。「亡き父君のお骨ぞ」といい、文覚は涙を流した。「見られよ。平清盛のために殺された父義朝殿の成れの果てじゃ。何も思われぬか。お主は義朝殿の子供ぞ。お前に今源氏の氏長者は、お主じゃ。頼朝殿、この平家の」世の中でお主が、今立ち上がらなければ、誰が立つというのじゃ。父君、また源氏の恨み、このおり晴らすべきではないか。それが「人の道ぞ」。 文覚は大きな声で、一気にしゃべり終えた。頼朝の質問の暇など与えはしない。頼朝も、もう文覚の言語の勢いに飲まれるようだった。 本来ならば、判断力の鋭い頼朝であったが、このおりは熱病に取りつかれたようであった。「よし、余が源氏の旗をあげるのじゃ」サイは投げられていた。が、本当の振り手は、京都にいた。後白河法皇である。■■第1章9 1186年(文治2年)10月。鎌倉。西行は文覚に言う。「文覚どの、私はこの世を平和にしょうとおもうのだ」「平和だと、うろんくさいこと言うな。おぬしの口からそんな言葉がでようとは」「では、この国の形を変えるともしあげればどうだ」「くっつ」文覚は苦笑いしている。その笑いは同じく国を変えようとされているからであろう」「何年たっても私の考えがおわかりにならぬか」「わかりたくもない」「で、秀衡殿を呪殺されようというわけか」「主は何を企む。平泉と何を企む。まさか、」文覚はある考えを思う。「主は崇徳上皇にも取り入り、弟の後白河法皇に取り入り、また平泉にも取り入るつもりか」崇徳は30年前、1156年保元元年、弟の後白河法皇に敗れている。保元の乱である。この後、四国に流されている。「文覚どの、鎌倉には法皇の命令で、今は鎌倉の味方か」「だまれ、西行、貴様こそ、由緒正しい武士でありながら、「しきしまみち」を使うとは先祖に対して申し開きできるか」「文覚どの、その言葉そのまま返そう。お主も武士でありながら呪殺を江ノ島祈願いたしておろう」「うぬ。敵、味方はっきりしたならば、お主を平泉に行かせまい」「よろしいのか。大殿とのの命は」確かに頼朝の命令は西行を平泉に行かせよである。「しかたがないのう。ここで雌雄を、、、」二人はにらみ合っている。恐るべき意識の流れがそこに生じていた。「御師匠様、おやめ下され」かたわらにいる子供が言いた。子供ながら恐るべき存在感がある。その顔は夢みる眦に特徴がある。「おおう、夢見か。わかった。この西行殿が顔を覚えておけ」「西行様、夢見でございます。京都神護寺からまいりました。師匠さまの事よろしくお願いいたします」夢見、後の明恵(みようえ)である。法然と宗教上で戦うこととなる。同時に何の集団が近きつつあった。「くそ、西行、味方が増えたらしいのう。集団で動くかお主も、勝負はいずれ,まちおれ」「生きて合えればのう」西行も悪態をつく。 二人はふた方向にわかれた。「西行様、ご無事で」いつのまにか東大寺闇法師重蔵が控えている。が、笑いをこらえている風情である。「おお、重蔵殿あいすまぬ。」汗をかいている。「ふふ、ワシとしたことが、つい歳を忘れてしまう。あやつにあうと」にが笑をしている。「お知り合いでございますか」「古い付き合いよ。北面の武士以来だ。」廻りの集団が気に成っている。「結縁の方々、ありがとうござる。何でもござらぬ。もう終わり申した」重蔵の言葉に近くの樹木の影にいた気配がすべて消えていた。西行はにがりきった笑いをする。「法眼殿の手下か」先ほどの手勢は、方眼が京都から連絡した結縁衆であろう。密かに西行を守っている。重蔵は、西行にもこのような面があるかと思い微笑んでいる。この有名なる京都「しきしきみち」の漢に子供のけんかのような、、「あの子供の方が気にかかります。なにやら恐ろしげな、、」重蔵はつぶやいている。 西行は生涯を通じて、交渉者たらんと欲した。佐藤家という彼の出自が大きくものをいっていた。時代は西行のような斡旋者を強く要求していた。保元の乱から始まる源平合戦は、古代より続いた貴族社会に住む人々にとって、青天の霹靂であった。仏教でいう末法が思われた。 武士という自分たちのルールに従わない人種が出現し、あれよあれよという間に政治の仕組みに食い込んで来た。そして、土台ごと乗っ取られていることに気がついたのである。 古来から貴族たちは、血が流れるのを嫌った。自分の勢力拡大のために、流れる血は気にしなかったのだが。今の世の中の血の流れている戦いは別種であった。古の壬申の乱以来である。 西行は源氏にも平家にも顔が効いた。まして、相国(しょうこく)平清盛入道とは、北面の武士のおり、同役であった。また征夷大将軍坂之上田村麿ゆかりの京都神護寺(じんごじ)の文覚とも同役であり、顔見知りであった。平家往時のおり、西行の庵は六波羅のすぐ側にあった。 六波羅は鴨川の東岸にあたり、鳥辺野の真ん中に位置する。平家政治集落の様相を呈していたのである。また、六波羅は清水寺への参道に位置していた。京の動きは街道の人の行き来から判断することができた。 西行に、上皇をはじめ、院、貴族層が気を許したのは、その歌の作詞能力(しきしまみち)であった。古代からの歌の伝統を踏まえ、美しい歌をつくることができる西行は、貴族たちと同じ人種であることを意味した。平家、源氏、貴族、そして寺社勢力、両方面に西行は顔が効き、出入りができたのである。 源平の争乱のとき、西行は伊勢の草庵に隠遁していた。そして、西行、最後の賭けの時が六十九才のおりに訪れて来た。西行の動き、あるいは言葉の一つで、この微妙なバランスで保たれている。日本の政治状況が変わるかも知れなかった。 西行は変えようとした。 彼は政党を持たない一個の政治家であり、思想家であった。続くhttp://w3.poporo.ne.jp/~manga/