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山ちゃん5963

8.名前由来9.京都松村

八、ワシの名前和久の由来
父の兄嘉は市島鴨庄尋常小学校の先生をしておったが、キリスト教の勉強もしておったらしい。家には『神ながらの道』と『神の竪琴』が相当読み古されていた。前者は日本軍国『神道』の本で神国日本の神の統治が記され、後者は敵国アメリカ一部の神『ヤーウェー』の本であり『ヤーウェー』の統治した歴史が記されておった。後者は今昭島山口家に保存してある。なぜこのような正反対の本が家にあるのか。山口嘉は鴨庄尋常小学校の一教師であったから前者は尋常小学校の教育用、後者は自分の勉学用教科書ではなっかたのかとワシは考えている。しかし察するに、父の兄山口嘉は当然戦争反対者だった、が、戦争に加担して戦死した。まあ日本国家に殺されたのかも知れんぞや。それは時の流れに逆らわずに生きた山口嘉上等兵の生きざまじゃったのだろうなあ。なぜ、嘉伯父は自分の信念を貫き牢獄に入らなかったのであろうか?その頃戦争反対を称えた者は牢獄行きだったのだ。まあいつの時代も同じだが、自己主張を曲げ国家的戦争に加担するのが大半だった。一方ワシの父親は口では言った事は無いが、戦争を大きに嫌ったふしがある。あの戦争体験者として、今後悪魔『サタン』の戦争を子供達は決して行ってはならない。それを意味する名前を我が息子達に付けようと考えたと思われる。まず復員してからしたことは、農業、畜産業、そして林業(炭焼きも含む)であった。米作り、野菜作り、乳牛(ホルスタイン)飼いにより牛乳生産、鶏飼いにて卵生産もしていた、ブタもおった、やぎもおった(やぎの乳は飲むと非常に青臭かったなあ、やぎチャンごめんよ)、猫(名前はみーチャンと嘉孝兄が名付けたチェリーだった)もおった、犬(名前は白=しろ)もおった、それらは全て平和産業の一部分である。あとは人の世話。特に神社横に住む人の世話をしとった。その人は『朝鮮』のひとではなかったかと今になって思うのだが……なぜ朝鮮の人があそこにいたのだろうか。とても人の住む家とは言えないあばら家、いや本当の掘っ建て小屋にその人は住んでいた。父は昔満州にて行った戦時中の行いに対しわびる気持ちがいっぱいで世話をしたのではないかいなと推測されるのだ。

その頃まず兄が昭和二十三年に生まれた。この世がまた天下泰平になれそして俊(しゅん)となれ、兄は泰俊(やすとし)と命名された。兄は『やすとっさん』と呼ばれた。次に昭和二十六年にワシは生まれた。昭和26年兎 永久に平和が続きますように、また永久の平和を達成する輩(やから)に成るようにワシは和久(かずひさ)と命名された。昭和二十六年四月九日父完二が生郷村役場に届けでており戸籍に記載されている。南海ホークスに稲尾和久という野球の選手もおったがのう。まゆが下がったやさしい選手だった。がワシには直接関係は無い。ワシは小さい時からその名前『和久』のいわれを良く理解して生きてきたつもりだがね。ワシは『かずひささん』と呼ばれた。泰俊兄はワシのことを『かいさ』と読んだ。だからワシはその名前に負けないように『平和』を目指す職業に就きたかったのだよ。わかるかな諸君。わかってくれよな諸君。
父の右腹には中華軍から受けた銃創傷があった。どうも戦地で鉄砲傷を受け、弾の除去手術に不手際があり長きに渡り化膿をしておった。通常は成松の田中内科医院(田中院長は父の柏原高校同級生)にて診断を受けて、化膿止めのストレプトマイシン(バイエル薬品製)を服用しておった。しかしいつも傷口から膿がでておったなあ。だから脱脂綿で膿を拭き取っておったよ。きっと痛みもあったろうなあ。今考えてもかわいそうな事だった。『満州従軍医師のへぼいしゃが?』とは父完二が膿を拭き取る時の言い草だった。
まあ父はよく石生の飲み屋(多分旅館大和と思われるが)で酒を飲み歌って家に帰ってきたもんだ。『惚れーて、惚れーて、惚れていながらゆーく俺のー、旅をせーかーせーるー、ベルのおーと、つらーいところに、きはきたーが、未練心につまずいて、流す涙の、哀愁列車。』これは、三橋美智也の有名な歌謡曲だのう。題名は『哀愁列車』というのだが。親父は石生水分かれの料亭『大和』のおかみから教わったのだろうなぁ。ワシは親父から直接聞いた事は無かったが、まあ日常腹に据えかねる事が多かったのであろう。多分山口家の『家督』を貞次爺さんが親父に譲らず、それが親父の自分の負担になったのではなかったかと思われる。つまり自分で一生懸命平和産業の仕事をしても自分は貞次爺の下にあり『家長』では無いのが疎ましいのじゃーなかったか。が、真の事は、わからない。ワシの推測じゃ。

その頃父完二は、自宅の改修工事を行った。その一つは便所の改修。自分でつるはしを使って穴を掘った、これは便槽を作る穴であった。サイズは二メートル×五メートル×二メートル深。型枠を組み、手練りコンクリートにて便槽を作った。便槽の上には鉄筋を自分で組みまた、手練りコンクリートにて床を作った。次ぎに壁だが、コンクリートブロックを井本健材店にて買ってきて、自分で積み上げた。屋根も自分で葺いた。細かいところは井本建材店が手伝った。しかしなかなかたいした技術だった。
もう一つは牛のサイロの建築であった。まず、サイロ用の穴をやはりつるはしを使って掘った。サイズは二メートルΦ×三メートル深。やはり自分で手練りコンクリートを作りコンクリート打設した。内面の防水モルタル塗りは井本が行った。屋根は自分でかけた。なかなかこれもたいしたもんだったわい。この中に夏草を入れて冬の牛の餌にした。このサイロの餌は臭かったが牛はうまそうに食べた。

九、母の里松村
母は京都府天田郡細見村字西松の生まれだのう。母の父は坪倉愛之助というのじゃ。なんとなく豊臣家の落人みたいな気がしやへんこ?ワシは絶対そうであると睨んどるよ。愛之助というその名前からして、絶対(愛之助というのは)武士の名前ではないか。振り返ってみれば、西暦千六百年関ヶ原の合戦後徳川家康が千六百三年江戸に幕府を開いたが、大阪の残党は根強く勢力を持っておった。しかし江戸幕府の執拗な残党狩りに切られ、また切腹し死亡した武士も多くおった。また落ち延びた武士もそれ以上に多く、実は、かの宮本武蔵はこの『関ケ原合戦』の大阪方に加担した生き残りなのだが、そのような輩が少なくなく、山間にきこりまた百姓として隠れ住み次の世を待ち、また豊臣家お家再興を我子孫に託した、てな話はよく聞くじゃーないかいね。ここはワシも、時間があれば、もう少し勉強し考えてみたいところだわねえ。今年は江戸開府四百年にもなるんじゃよ。また清水建設は創業二百年の節目じゃよ。いろいろあるのう。

ワシゃ、よく母に連れられて京都府天田郡西松に行った。母はいつも『松村』と言うとったなあ。母子二人日本国有鉄道で石生駅から市島駅まで行った。それからタクシーで市島のはずれ神地寺池のふもとまで行った。そこから徒歩で山を越えて行くのだ。その道が一番近かったようだ。もう一つ市島北奥のとべら峠を越える道もあったが少し遠かったのう。小さいワシは母の背中におんぶされとった。五歳くらいになるとワシは母の後ろからちょこちょこついていったもんだ。ある夏の日など、クヌギの木の樹液にかぶと虫とくわがた虫そして玉虫また、かなぶん、カミキリムシがものすごくたかっていたのう。まあ朝早く家を出発しとるからのう。昆虫がおるのは当たり前だ、しかし、その数のすごい事すごい事。樹液の出ていたクヌギの木には群がって昆虫がおった。今はもうそんなにいなあ。なぜか?また、蝮などもいたような記憶がある。『あの三角頭の鎌首をもたげておるのは蝮だよ、おじいちゃんだったらとるんやじゃが。しかし近寄ってさわったらあかんじょー。かまれたらしんでしまうじょー。』って母が教えてくれたもんなあ。我ながら、五歳くらいで峠をこえるのはなかなか大変な事だったと思うがのう。しかし、多分母の里帰りの楽しげなそぶりにほだされてワシも楽しかったのだろうと思うわい。峠が兵庫縣と京都府の縣境だった。その峠を越えるともう早かった。どんどん下っていくとそこには水車小屋があった、いつも水車が『コトコトコットン、コトコトコットン、ファミレドシドレミファ』と米つきをしておったなあ。ワシと母はいたどり(いったんどり)を取っていたどりで小さな水車を作って遊んだ。さあもう着いたぜ。坪倉愛之助爺の家だ。山奥にしては大きな茅葺き家だった。田舎の富豪という感じが少ししたなあ。坪倉の家の前には、小さな川が流れていてその橋を渡って家に入るのだが。ある時、愛之助爺が奥の部屋にふとんで寝ていたのだ。多分病気だったのだろうと思うが。ワシゃその病名はしらない、老衰だったかもしれない、詳しくは、ワシにはわからない。年齢は多分七十代後半だったと思う。ワシはその時何歳だったのかも覚えていないが、その布団の上にあがって遊んだのだ。坪倉愛之助爺は『おーい、子供(ワシの事)どけてくれー、苦しい……うっ・・うっ・・うっ・・』と言って事果てた。か、どうかワシゃ知らんが、とにかく苦しそうだったわい。まあこの頃は『日本』も戦後復興の途上の一番貧乏で国民皆苦しい時だったんだのう。
母のばば様もおってのワシらはばば様の座敷に泊めてもらった。北野の山口家と松村の坪倉家の違うところは小川の流れる音がする事だったのう。夜寝る時はその小川のせせらぎが『さらさらさら』と耳について眠ることが出来なかった。しかし母はうちわで扇いでくれたからワシゃ寝てしまったように記憶している。子守り歌も聞いた覚えはあるが、どんな歌だったかは、今はもうすでに覚えておらんのう。昔は『かや』をかけて寝たなあ。深緑色のかやで寝るのが楽しかったなあ。かやには独特の日本の夏ちゅう雰囲気があったよなあ。

一方、『東海道四谷怪談』にはかやの中で寝る井衛門とお岩さんの映像があった。あの映画は、本当に恐かったよなあ。ああ、恐かったのう。最近東京四谷のお岩さんをまつった神社に行ってきたが、お岩さんは養子伊右衛門の貞淑な妻でのう美人で働き者じゃった、夫婦仲も良く、なかなかええ人じゃったそうなぞや。だから作者『鶴屋南北』は東海道四谷怪談とフィクションにしたのじゃわいな。
今のワシはそんなもんは恐くはないんじゃ。我が家で蚊取り線香はあまり使わなかったなあ。ワシゃ本当に寝るのが楽しかった。ワシの楽しみは『良く学び、遊び、よく食べて、良く寝る事』だった。寝る時は恐くはなかった。しかし、夜、一人で便所に行く時は走って行って、小用を済ませると、走って帰って布団に潜り込んだ。なぜかというと昔の家は便所が外にあったからじゃよ。それからぽっちゃん便所だったなあ。つまり下肥(しもごえ)を溜めておく便所だよ。大便をするとぽっちゃんと御釣がくるやつじゃった。たまに御釣がきた。御釣がこないように、こえの上に藁(わら)をまいたものじゃった。こえもちという仕事もしとったなあ。肥たんごをかついで畑に肥やしを野菜にやるのじゃよ。ぽっちゃんぽっちゃんって肥がかかったりして大変な仕事じゃったのう。だから昔の野菜には回虫の卵とかサナダ虫の卵があったのじゃわい。『まくり』という苦い薬を飲んで回虫を下したものじゃった。ある時まくりを飲んでその後回虫が出た。気持ち悪かった。もし、サナダムシじゃったら、どないするんや。今はバキュームカーで吸い取る時代も過ぎて、すでに水洗便所になって良かったのう。

また丹波山口家は、食べるものは貧しかったかもしれんのう。いやー世間一般に貧しい食生活をしておったように思うがのう…。坪倉家の味噌汁と丹波山口家の味噌汁は味が違ったなあ。坪倉家の味噌汁の具はジャガイモとなすだった。丹波山口家の具は御豆腐とあげにマーガリンを浮かせたものだった。たまに鯨の皮がはいっとったなあ。鯨は舞鶴屋のおばはん(いまでも来るのかいな)がもってきたものじゃなあ。ワシャ丹波山口家の味噌汁が好きじゃったのう。

さて、坪倉家の先祖の墓は山の中腹にあった。ワシは母といつも墓参りをした。その墓に眠るのは坪倉愛之助とばば様であったろうのう。またその先祖代々とはいったいたれじゃったのか?ワシゃ知らんのう。一回調べてみたいもんじゃよなあ。

母に姉がおっての高杉の姉さんといった。が、今も息災だ。高杉の姉さんとこは丹波大山駅からバスでいった。バスで三十分くらいで。バス停から歩いて五分くらいだった。ある時母とワシゃ高杉家でテレビを観とったなあ。テレビには藤山寛美が出ていた。藤山直美の父親だわなあ。テレビを見ながらワシも母も高杉の姉さんも涙ぼろぼろやった。泣き笑いの番組だった。母玉枝と姉高杉さんはやはり二人姉妹だ、仲が良かったのう。また母の兄と弟坪倉勇二がいる。兄は大坂仁徳天皇陵近くに、弟は豊川市下野川町に住んでいる。




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