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山ちゃん5963

山ちゃん5963

10.東幼稚園 11.うらじろ

十、氷上東幼稚園
ワシのかわいい幼稚園の写真があるぞ。ワシが一人幼稚園から歩いて帰ってきて北野公民館の前で、井上のお姉さんに写してもらったものだよ。幼稚園は城山のふところにいだかれた東小学校の下にあった。先生はあずませんせい(もうおばあちゃんだった)と、(若い)さとうせんせいのふたりだった。さとうせんせいって甘いせんせいじゃのうと思っておったぞ。漢字で先生の名前を書くと砂糖ではなくって佐藤先生と書くのだった。が、ワシはてっきり砂糖と思うとったぜ。

その頃北野の山口家の廻りは全部田んぼだった。六月になると蛍がすごかった。そりゃーものすごい数のほたるが飛びまわっとった。菜種(なたね)の種を取ったあとの木で空をひょいとすくうんじゃよ。そうすると菜種のからにあんじょう蛍が絡み付くのだわいな。『ほーほーほたるこい、あっちのみずはにがいぞ、こっちのみずはあまいぞ、ほーほーほたるこい』と歌いながら、いつも泰俊兄と、蛍を捕まえてほたるカゴに入れるのだ。それから、蝮の目は光るのだなぁ。草むらに光るものがあって、それが明るくなったり暗くなったりしたら多分蛍だが、じーと光るのはまむしの目だから気をつけなよ。とまつゑおばあちゃんが言うとっちゃったなあ。竹カゴには蛍の好きなほたる草を入れて霧を吹いてやって寝たけんね。まあしかし『蛍の光、窓の雪』とはよくいったものだぜ。ワシらーちゃんと『蛍の光』で勉強したぜ。電気代を浮かしたぜ。ワシの嘉孝兄は小さい時に蝮にかまれたそうな、よく命拾いしたもんだ。今でも兄の足にはその時のあざがある。多分貞次爺さんが嘉孝兄の足にかぶりつき、蝮の毒を吸い出したあとが痣になったのだろうと思う。昔は解毒薬がなかったからなぁ。平成の時代になってから、玉枝母が蝮にかまれている、が、解毒薬により事無きを得た。なかなか蝮はこわいもんだわい。蝮の事をまつゑおばあちゃんは『くちなわ』と言いよった。まあ縄に口があるこわいは虫類ということやろうなあ。

そのころ、父完二は兄泰俊とワシ和久をつれて阪神パークに遊びに行った。山口泰正(山口三郎叔父の長男充弘の事でワシと同級生)と山口正彦(泰正の弟)と一緒だった。父は丸坊主だったなあ。また親父の鼻は鷲鼻だったのう。この阪神パークは宝塚にあり、当時なかなかの遊園地だったなあ。ワシらー回転木馬に乗ったのじゃが、充弘が白い回転木馬に乗ってな、ワシも『白い木馬に乗りたい』と、父親をてこずらせた。おかげで、後味の悪い阪神パーク遊びになったわい。アイスクリームも食べたっけな。しかし泣きべそをかきながら食べたのでうまくなかったのう。

北野子供会の海水浴ちゅのが、毎年夏おこなわれた。良く行ったのは、天の橋立だなあ。あの『又覗き』で有名な日本三景のうちの一つ『天の橋立』だよ。また、ある時は丹後由良に行った。丹後由良に北野の岩間秀樹さんの親戚があり、お世話になったのだ。北野で二十人くらい海水浴に行ったのではなかったか。ここに『黒猫』が登場する。父完二は海水パンツの下に黒猫を付けておった。これは日本陸軍海軍が使用しておった物だぞや。水泳が終わると、着替える時に海水パンツを脱ぎ、黒猫をそのままはいたまま、その上に猿股(さるまた)をはく。それから黒猫をはずす、ちゅうわけよ。そうするとタオルをまく必要はないわけだよ、おわかりかな。ワシらー子供達はよく泳いだもんだ。丹後由良の海水浴はなかなか『黒猫』でたのしかった。わっはっは。

北野のお池ではよく泳いだ。ただしすりばち池だから『水泳禁止』になっとった。こどもがずるずるとすべって池でおぼれた事があるそうな。昔はプールがなかったけんね。嘉孝兄と泳ぎにいったわい。なんか水面と水面下では水温がかなり違っておったなあ。上部がなまぬるく2mくらい下部は冷たい。心臓の弱い人は簡単にあの世行きじゃろうねえ。しかしその池は本当にひきずりこまれるようないやな感じがしたなあ。

十一、うらじろ物語
あれは幼稚園に行く前の頃のことだった。おもちつきだ。まず杵と臼を出してのもち米をせいろで蒸すのだ。ワシの手伝いは火の番。つまり『おくどさん』に薪を入れて火を絶やさないようにする。たまに火吹き竹でフーフーする番人。もちろん火の用心をして火がおくどさんから落ちないように見張る。蒸し終わったもち米を臼に入れるのは母。『ぺったんこ、ぺったん』餅つきは父が、あいの掛け声をかけながら、臼のもちをひっくり返すのは母の役目だった。ワシゃきな粉もちとあんころもちを食べるのが仕事だったなあ。どちらかといえばあんころもちが好きじゃった。しかし、切り餅を焼いて砂糖醤油につけて、また焼く、つまり付け焼きはその匂いがまた味がたまらんかった。ワシ等の贅沢なおやつじゃったね。またぼっちんというのもあった。切り餅を一センチくらいのサイコロに切って、それを焼くのだが、これが本当の最高のおやつじゃった。さらに家にはホルスタイン乳牛がおったから、おもちに牛乳入れたけんね、この薄切りもちの油で揚げたフライは飛び切りおいしかったね。大晦日にはおもちをついて鏡餅を作ったね。大きいのと小さいの。それから丸餅だねえ。母とまつゑばば様は上手に丸餅をこさえたぞ。『かずひさや、こうやって餅をまるめると、餅肌のつるつるの丸餅ができるよ。』と餅の中身を表面に出すようにもむようにまるめる方法を教えてくれるのだった。しかし当時は、その方法はワシには難しかった。今のワシなら餅肌はちゃんと出来るぜ。

お正月の蓬莱さんて知ってるかい。三方に米を入れ、鏡もちを置く、勝ち栗と干し柿と昆布を置き一番上にだいだいを乗せるのだのう。そこで三方にうらじろを差し込むと蓬莱山になるんだよ。そのうらじろは家の廻りにはなかったのだ。家から山に登り崖を登ったところに良いうらじろがあったんだよ。ワシと泰俊兄はいつも一緒に遊んでいた。けんかした事は一度もなかったぜ。ほれでいつものように兄とうらじろ取りに岩山へ行ったんだよ。崖の上によいうらじろがあってのう、崖に登ったのだ。傾斜は九十度近くあったのだないかい。うらじろの表は緑色だが裏側は白いんだ、知っとるか。そしたらワシゃ崖の上から落下してしもうてのう……『あれー・・…』その後の記憶無しなのだなあ。蓬莱山は古墳時代に我祖先が大陸からこの日本に渡ってきて、毎年毎年故郷を思い出す名残りなのだろうなあ。蓬莱山は中国の山である。

ワシゃ気がついたと思うたら、まつゑばあちゃんのいる座敷で寝かされとった。なんか鼻が痛かった。鼻血が出たあとがあった。手が動かなかった。その時、まつゑばあちゃんにバナナを買うてもろた記憶があるのう。あの頃(昭和三十年頃)のバナナって貴重品じゃったよなあ。フィリピンバナナやったのか台湾バナナやったのかいのう。崖から落下したおかげで鼻が曲がってしもうてのう。今の鼻曲がりのワシがあるのだ。まあけがもええなあなんてワシゃ決して思わなかったのう。やはり五体満足だわい。ワシゃ今でもそう思うぜ『健康一番』健康なら何でもでけるぜ。健全なる肉体に健全なる魂宿る。という事よ。
またまつゑおばあちゃんは沖縄の蛇皮線の漫画本を買ってくれたわい。あれは怪談漫画じゃったのう。ごっつう恐かったじょ。

しかし、彼岸の中日(春分の日、秋分の日)には兄といつも北野の裏山に登ったなあ。お弁当つくってもらって、なつかしいのう。裏山の大きな岩に登って一番頂上でお弁当食べたわい。うまかっちゃん。それから、松ノ木に寄生した鳥もちの木から鳥もちをとってな、『ガムじゃ、ガムじゃ』言うてかんで遊んだわい。あれはからすが鳥もちを食べてその糞がまた松ノ木に鳥もちの木を寄生させるんやなあ。まあそんな遊びをしとったなあ。秋分の日の方が木の実が多く楽しかった。




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