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山ちゃん5963

山ちゃん5963

16.氷上中学17.肉腫筋腫

十六、丹波氷上中学校

中学校は東小学校のとなりの氷上町立東中学校だよ。昭和三十八年四月入学。相変わらず、前川・・池上・山本・伏田と遊んだ。ワシは陸上部の短距離をやって、本当に毎日毎日身体を鍛えた。腹筋、背筋、腕立て伏せ、ウサギ飛び、柔軟体操、ああ毎日良く頑張ったものだわい。だから百メートルは十二秒六くらいで走ったかな。走り高飛びも、走り幅跳びも、砲丸投げもやった。しかし、なぜか長距離走は苦手だったなあ。持久力が無かったのだわなあ。氷上郡中学陸上競技会に百メートル走で出たなあ。確か山東中学校に行ったと思う。競技の結果は忘れたがまずまずだったのではないかいな。友達に宮下というのがおって、あやつはワシよりもっともっと速かったなあ。足はものすごい筋肉だったなあ。腕も筋肉のかたまりだった。さわると腕の筋肉がこりこりしとったな。贅肉はひとつもついていなかった。彼の家は宮下クリーニング店で東小学校横の『よなきや』の隣じゃったなあ。あやつはまだ元気でやっとるかいなあ。『よなきや』ちゅうのは昔そこの子供が夜になると、よく泣きだして、なかなか泣き止まず母親が一晩また一晩あやしたらしい。だからそこの屋号は『よなきや』ちゅうんじゃ。いまでもあるだろうなあ。

一方、兄は美術部だった。ワシゃ泰俊兄と同じで美術も好きだった。一度兵庫県美術展に『金賞』当選した。ロダンの『考える人』の盾をもらったもんね。それから丹波新聞作文コンクールにも『子牛』が佳作当選した。子牛は母体から産まれ出て、すぐにひょっこり立ち上がる、また母牛が子牛をなめてやるその母の愛にワシは感動したのだわい。それを子供らしく表現した作文が評価されたのだなあ。子牛が産まれると、その牛の乳は売り物にはならん。なぜかというとべこ(乳牛の赤ちゃん)のために乳に特殊な成分ビタミンEが入っとるのだわい。だからワシの母はその売り物にならん濃い牛乳を使ってチーズを作ったものじゃ。作り方はまず牛乳を加熱して酢を加える。そうすると固形化してくる。濾布をいれたあみにいれて濾すと牛乳チーズが形をあらわす。それを常温に冷やすと牛乳チーズが出来上がる。あれはほんまに美味じゃったのう。味噌汁にいれるとまあ最高にうまかったなあ。

また一方、ワシゃ歌も好きだった。氷上郡学校合唱コンクールにも出たことがある。柏原のコンサートホールはまだ無かったからどこかの中学の講堂で歌ったなあ。我ながら、ワシゃわりときれいな高音が出たと思いんしゃいや。じゃが、こちら歌のほうでは賞は取れなかったなあ。が、ワシゃ歌にも才能があったんやで。後年シンガポールにおいてカラオケ大賞を獲得した。ワシゃ今でもカラオケは大好きじゃのう。NHK紅白歌合戦には出られんかったがのう。

昭和三十九年四月、これまでの東・北・南中学校が統合して氷上中学校になった。そうするとクラスが十一クラスにもなった。すごいマンモス学校の誕生だったわい。
氷上中学校校歌『丹波の国の あさぼらけ みどりの大地 目覚めたり 友びときたれ 友よいざ 若草もゆる 丘の上に ともに語らん このおもい ああ あこがれは 雲ににて はてなき夢を えがくなり わが学び舎の 氷上中学校』
ワシのクラスは二年七組だった。池上博も同じクラスだった。東中学校は徒歩二十分で通ったが、氷上中学校は自転車通学じゃった。新しい茶メタリックの自転車を細見雑貨店の横の山口自転車店で買ってもらった。ぴかぴかできらきらの自転車ワシゃ嬉しかったなあ。三段速切り替えの最新式『カチャ、カチャ、リン、リン、リン』自転車通学楽しいな。しかし雨の日は辛かったのう。ゴムの雨合羽を着て自転車で、雨道四キロ四十分。雨合羽の内側は汗でべとべとで臭かった。さらに雪の日はさらに辛かった。なんせ道がつるつる滑るのじゃけん。特に橋の上は大変じゃった。橋が氷ついておったから、自転車を降りて歩いても皆滑ってころんだ。女の子はかわいそうだった。雪の日、家から学校まで一時間以上はかかったね。
細身菓子店にはテレビがあった。我が家にはテレビは無かった。親父とワシは細見菓子店の前にある荻野クリーニング店のテレビを見せてもらった。あのころプロレスの実況中継の後、九時から『世にも不思議な物語』というテレビ番組があった。今でも覚えているが、呪いの首飾りちゅうのが放送された。これは呪われた首飾りを着けた女性の首がしまるという恐ろしい『世にも不思議な物語』じゃったわい。ああこわかったわい。あの夜父と荻野クリーニング店から帰るとき恐かったなあ。まあ呪いの首飾りに首を絞められることはなかったがね。
第十八回オリンピック競技大会(オリンピヤード東京大会)は昭和三十九年十月開催された。ワシ達は氷上中学校体育館のテレビを見て応援した。マラソンはエチオピアから来た裸足の鉄人アベベが優勝した。円谷も頑張った。柔道はヘーシンクが無差別級優勝よかった。自衛隊の三宅が頑張った。亡くなった人もいる。なぜ、一人で悩むのか。なぜもっと強く生きて行けないのか。ニチボウ貝塚のおばはんなんかものごっつう頑張ったぜ。まだ元気でバレーボールのコーチやっとるぜ。この東京オリンピックの記念切手はたくさん発行された。特に寄付金つき記念切手が多く発行された。しかし、ワシには買う事が出来なかった。こずかいの金が無かったのだわい。そりゃ月十円だもんねえ。
そのあとかいのう、我が家にテレビが購入されたのは。だから昭和四十年かいなあ。どいう訳か四国放送というのがよくはいった。とは言っても写りは悪かったなあ。もちろん白黒テレビだぜ。『東海道四谷怪談』を見たのもこの頃じゃよ。恐くって。特に戸板がひっくり返ってお岩さんの顔が恨めしくってたまらんかったなあ。愛々が行った戸板女子短期大学はお岩さんの学校じゃーないんかい。ひひひ。さて、冬になるといつもこたつにはいってテレビを見たなあ。ひょっこりひょうたんじーまがとてもおもしろかった。『波をちゃぷちゃぷのりこえてーすーいすーいすーい、ひょうたん島はどーこへ行く』

三年六組になった。さて次の関門は高校進学である。昔小学五年から考えていた通り、ワシゃ国立明石工業高等専門学校に行きたいので担任の谷田先生にそのように伝えた。谷田先生は英語の先生だ。『山口よ、明石高専はお前の実力では無理ぞ、あそこの倍率は十倍やぞ、柏原高校にしとけよ、それから神戸大学に行ったらどうや。もう一回考え直せやい』この谷田先生の言葉には、ワシゃほんまに頭にきたぜ。『絶対受かっちゃる。』と決意し、それからテレビはNHKのニュースだけ、夜十二時まで勉強したぜ。高専入試問題集というのがあって、厚み五センチのやつだが、石生の飛鳥書房で買うてきた。そいつを最初のページからどんどんと解いていった。しかし難問題が多かったぜ。これで高専に合格するのかいと考えてからは勉強時間を一時間増やした。

中学三年は修学旅行に東京に行った。石生駅から汽車は修学旅行専用車だった。東京まで夜行で行った。東京の観光先は東京駅に降りてなぜか『はとバス』で皇居二重橋。ここでは記念写真を写したなあ。また、皇居の足利尊氏銅像前で昼食弁当、とってもおいしかったぞや。この時も池上博とマッチャん(松野)と一緒だったなあ。そして、国会議事堂。有田喜一衆議院議員が議事堂内を案内してくれたわいな。赤い絨毯の会議場が印象的だった。おみやげに有田喜一名前入りハンカチをもらったねえ。あれは有田喜一の売名行為だったのかいなあ。まあ覚えているのはワシくらいだと思うがのう。次は東京タワーに上ったね。兄の作ったマッチの東京タワーとほとんど同じだった。泰俊兄はちゃんと勉強しとったんだねえ。しかし現実の三百三十七メートルちゅう高さはものすごく高かったなあ。東京タワーの施工者は『竹中工務店』だったぜ。さて東京の宿泊は本郷の学生会館だった。確か木造だったなあ。例によって学生会館では寝る前枕投げをやったわい。谷田担任が怒りにきた。『おまえらー、はようねんかい、明日は早起きなんぞー』恐い担任だった。それから明くる日は、栃木県『日光』に向かったのだわい。バスに乗ってなあ、いろは坂、華厳の滝、日光東照宮、左神五郎の招き猫、見ざる言わざる聞かざるはすんばらしかったなあ。また『うなり竜』ちゅうやつがおってなあ。『うぉー』本当にうなりおったぞや。ああ恐かった。今でもおるんやろか。さて、中禅寺湖では湖畔の旅館に泊まった記憶があるなあ。なかなか修学旅行はどこもすばらしかったなあ。おみやげは日光般若の金のお面。ワシゃ国内でも国外でも旅行は大好きじゃい。なんでも知らないとこへいったり新しいことをするのは大好きじゃわいな。なんとなれば、渡る世間が広く見渡せ(深くは覗けないが)、なお且つ、自分の肥やしになって、将来の力にかわるのだなあ。ワシは昔からあちこち旅行しとるが、実際ワシの人生の肥やしになっとると思うぜ。また生気を与えてくれるのが旅じゃよな。

十七、骨肉腫と子宮筋腫

中学三年に同じクラスだった増田昭三。かれはごっついまたいかつい感じの中学生だった。誰もが彼は健康だと思っていた。ところがある時、彼が入院すると聞いた。右足のひざが『骨肉腫』という病気なんだって。『骨肉腫』これは何やろかい、これまで一度も聞いた事は無かったし、あまり詳しい事は知らないが、骨が癌細胞に侵される病気なんだって。そして彼は癌に侵された足の『骨肉腫部分』を切断したのだ。それしか生きる手はなかったらしい。しかしその時すでに癌細胞が他の部位に転移しておったらしいのだ。本当にかわいそうな事だったよなあ。ワシはクラスの委員長として、京都にある国立病院に見舞いに行った。谷田担任と副委員長足立確郎も病院に同行した。増田昭三はわりと元気にしているように感じた。その時もうすでに右足は付け根から切断されておった。ベッドの毛布の右足部分はぺったんこだった。かわいそうだった、ワシが生きている彼を見たのはそれが最後だった。人はなぜに死ぬのか。彼はまだ人生五十年の四分の一しか生きてはいないではないか。神がおるとするとなんと不公平な事をするのか。これはワシの一生の課題となるはずである。とその中学三年の時思ったもんだ。中学三年六組の同窓会を行うとワシら必ず増田昭三の墓にいくぜ。ワシら同級生は皆、増田昭三には長生きして欲しかった一人じゃと思うておるわいのう。

母玉枝がこの頃下半身から出血して倒れた。生理出血が止まらず、畑で倒れた。父が貞次爺といっしょに母をむしろを担架がわりにして乗せて家に担ぎこんだ。『生理出血と体内を流れる血は違うものだと思っていた』と父が言っていたなあ。『そんなこと絶対あるかい、体内の血はどこへいっても同じだわい』とワシは思っていた。救急車が来た。母は出血多量にて即日柏原日赤病院に緊急入院した。救急車ってはたして請求書が来るんやろうか。母の病名は『子宮筋腫』といった。どうも子宮癌ではなかった。『これは手術して患部を摘出すれば完治します』という診断で、日赤病院にて手術を行う事とした。手術には母と同じA型血液が必要であった。ワシはA型血液を輸血用に供出した。二百CCもとられてしもうたわい。そのあと甘い増血飲料を飲んだ、多分葡萄糖ドリンクだと思った。ワシ達ーは輸血したから、今も母玉枝は健在じゃ。しかしもう子宮は摘出されて無い。柏原日赤病院には見舞いに行った。だんだんと元気になり母は退院した。本当に良かったのう。

骨肉腫でも子宮筋腫でも、似たような病気ではないのかい、しかし、その手術の結果、両者には生と死の分かれ道があったはずだが、それはいったい何が影響したのかい。ワシゃ良く分からん。増田昭三は十五歳で死んだ、母玉枝はいまだ健在。この分かれ道を左右する者は一体何者かい?


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