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山ちゃん5963

20.明石高専21.CL125

二十、魚住明石高専

明石高専は兵庫県明石市魚住町西岡六七九にあった。我々は第五回生であった。つまり明石高専が開校して五年目であった。昭和四十一年の四月父とワシは明石市魚住町に来た。学生寮に入寮するのであった。十五歳で親元を離れた。そこは潮寮(うしおりょう)といった。一室に学生が四人住むのだ。二段ベッドが二組縦に並んでいて、中山(機械工学科、通称ムッチャン、彼は身体がむっちりしとったから)兵庫県淡路島出身、趣味は音楽鑑賞・洋画鑑賞)、志知(電気工学科、兵庫県淡路島出身)、中根(建築学科、兵庫県西脇市出身、趣味柔道)、山口(機械工学科、兵庫県氷上郡出身)の四人が同室であった。十五で親離れはなかなか寂しいもんだった。が、学友がおったのじゃ。藤中(機械工学科、但馬出身、趣味人生哲学)、山内(機械工学科、香住出身、趣味車)、末重(機械工学科、城崎出身)、山根(機械工学科、趣味オートバイ)、中田(機械工学科、神戸市御影出身、趣味は写真撮影・現像)多いのう、何故かというと、五年間同じクラスで勉強を一緒にし、また同じ釜の飯を食べた仲だもんねえ。氷上中学では足立確郎と一番二番を争っていたが明石高専のレベルはごっつう高かったのう。だいたいワシは中学ではいつも二百七十人中二番だった。足立確郎は柏原高校へ行った。ワシゃ正直言ってこの明石高専の学力レベルの高さには戸惑ったね。なんかとんでもないハイレベルな学校だった。ついていくのがやっとこさだった。どうも機械工学科の後ろから数えたほうが早い成績だったなあ。だから、ワシは他の明石高専生と一様に夜遅くまで勉強したもんじゃ。電話リクエストなんというラジオ番組を聞きながら。牧新二のウクレレ漫談ちゅのもあった。『あーあーあいやになちゃった、あーあー、うんがうんがおどろいた』競争もあったが、そもそも学習レベルが高かった。そこでの生活は朝七時起床。朝食。八時半学校で勉学。十二時昼食。十三時学校にて勉学。十六時まで。十八時までクラブ活動。十九時夕食。二十二時まで勉強じゃった。

明石高専校歌『あけぼのの明石大門 どよむ潮の かがやきに咲きづる 若き 魂 研学のいしずゑは 地底に徹り 自治の鉄塔は 日輪に勢へり 玲瓏と雲に映ゆ 明石高専』ワシゃ、今でも歌えるぜ。しかし、なんか難しい校歌じゃったわいなあ。今でも意味が分からんとこが何ヶ所もある。作詞は中小路駿逸先生(現代国語)じゃった。

二十一、バイク乗りCL125

機械工学科にて勉強しておったから、やはり常人だからのう、バイクに興味を抱いたのじゃ。十七歳になると、さっそく明石の運転試験場にいったぜ。昭和四十三年十二月三日自動二輪の運転免許はすぐ合格した。そうするとぜがひでもバイクが欲しくなるものだわい。だからワシは父完二にねだってしまった。そうしたら中古のホンダCL125を買ってくれた。ワシは嬉しかったのう。父上ありがとう。母は緑の皮ジャンを買ってくれた。足はGパンに父が満州から持ち帰ったあみあげの軍靴をはいた。なかなかかっこ良かったと思っていた。北野から水分かれ橋そして横田・八丁・稲継・谷川・黒田庄・西脇・社・小野・大久保・魚住とバイクで明石高専の潮寮にぶっ飛ばした。スピード違反も何回かしたような気がするね。ワシはかなり国庫に寄付しとるぜ。バイクのエンジンの分解清掃組立も何回となく行った。ピストンをはずしてピストンリングをはずそうとしたらリングがパキッツと折れてしまった。『あれーまー』あわててホンダ純正部品を買いに走ったね。自分の足で二見のお店までね。

バイクの関連で、死ぬ目にあったのは次の通り二回もあるのだ。ワシは明石高専潮寮から近くの二見公園に行った帰り、明石市二見町から明石高専潮寮に向かっていた。途中山陽電鉄の踏み切りがある。キンコンカンコン下り電車が通っておる。だから一時停止する。そこは踏み切りだが遮断棒が降り無い踏み切りだった。電車が通りすぎる。キンコンが止まる前に、ワシゃCL125を発進させた。『ブォーン』と、反対側から上り電車が突っ込んできた。電車は、ワシのバイクとあと五メーターの距離だった。ワシゃそのままバイクを発進。電車は『ギギギー』と停止した。『ウワー』危機一髪。『ああ、助かった……』ワシゃその場から犯罪者のごとくにCL125で走り去った。ごめんね、山陽電鉄の社長さーんやーい。ワシゃ罰金払うとらんぜや。まあ事故ではないからのう、請求のしようも無かったろうが。諸君、遮断棒の無い踏み切りは注意・注意その上にまた注意だぜ。注意一秒、けが一生。

もう一つある。冬休み北野から舞鶴・京都・大阪とCL125で旅をした。目にあてるゴーグルを忘れたのだわい。結局寒さの為、目がぼやけてしもうて、大阪道頓堀の交差点の赤信号で飛び出してしもうた。『ガシャッン』淡路交通タクシーの反運転席側のドアにぶつかった。ワシゃ死ぬかと思ったが、生きとった。タクシーのドアの修理代は約二万円もかかった。その日ワシはCLを転がして家まで帰れなかった。松本悦治伯父さん家に泊めてもらった。おじさんは裁判所の仕事しとったなあ。頭がつるつるだったなあ。いつも頭をみがいていたなあ。おじさんは父の姉よし子さんの嫁ぎ先で家は神戸市垂水区霞ヶ丘の高台にある一軒家だった。瀬戸内海の鳴門海峡がきらきらと光って見えた。ワシは、明くる日ハンドルの曲がったCLを運転しながら、北野山口家に帰った。ワシはその修理代の為に石生の『足立組』で土方をして稼いだ。しかし命があってよかったわい。ほんとじゃよ。諸君『注意一秒けが一生』、下手したらあの世行き。ほんとに、ほんとだよ。特に秀吉やーい。

昭和四十四年九月三十日、嘉孝兄は結婚した。ワシはホンダに乗って駆けつけた。神戸市湊川神社だ。結婚相手は美恵子と云う女性じゃ。気は強そうで、力持ち、可愛い人じゃったのう。ワシは良く多聞台の嘉孝兄のところに遊びにいったから、美恵子姉さんの事は知っていた。まあこの日、正式に姉が出来たわけじゃのう。ワシはその披露宴にかろうじて間に合った。自己紹介は『ぼくが兄貴の弟です』皆が笑っていた。ははは。父も母も来ていた。美恵子姉の家族も来ていた。向井の父。母だった。その後向井の父母とは付き合いは無いなあ。

明石高専の修学旅行は高校に合わせて三年生の時に行った。『あーあー高校三年生』『二度と帰らーぬ、思い出乗せてクラース友達、手を取合えば、ベルがなるなる修学旅行』旅行は自分達で計画し、実行した。九州の旅だった。長崎。西海橋。グラバー邸。阿蘇。桜島。とバスにて回った。ぷくぷくのバスガイドさんが機械工学科のガイドだったなあ。『朝だちて、今日も元気に桜島』とバスガイドさんが言うと皆が大きな声で笑った。ガイドさんはなんのことかわからずきょとんとしていた。しかし、九州はおおらかでよかところたい。ワシはガイドさんにファンレターを書いた。ワシの人生に何も変化は起きなかった。


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