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山ちゃん5963

四十二、父の永眠

四十二、父の永眠

その昭和五十一年正月十一日、『父危篤、すぐ帰れ、母』の電報を受けた。なんと父は正月に北野公民館広場のぶらんこ修理をした後、夜、どうもぬるい(水?)風呂に入ったらしい。それでなくても心臓がものすごく弱っていた父だ。冬のぬるい風呂はてきめんに父の心臓を圧迫したはずだ。『うっつ…・・』『ぽくっ』と心臓が停止したのであろうと推察される。ワシは恵理子と車で島根縣松江市から雪の四十曲がり峠を越えて丹波に向かった。北野四十四番地の実家に到着したのは夜遅かったなあ。母が泣きはらした顔でワシ等を迎えてくれたのう。母は『お父さんの顔を見てあげておくれ』と言った。ワシは口をガーゼで湿らせて末期の水をあげた。父は口を開けて話すことはもう決してなかった。しかしまだ父の身体はわずかに暖かかったのように記憶しておる。ワシはたまらず、外へ飛び出て『おーい。おーい。おーい。おーい。』と亡き父を呼んだのだが。そこには虚空に吸い込まれるワシの呼び声。『おーい。おーい。おーい。おーい。』また空には、北斗七星があやしくきらめいておった。が、しかし返ってくる返事は全く何もなかったのじゃのう。『…………』父に聞きたい事、また話したい事、学びたい事が山ほど多くあったのに……。真っこと残念至極(しごく)であったのう。明くる日、隣の山口本家の山口新二叔父さんが『……和久さん、昨日はお父さんを何回も呼んどっちゃったねえ……』と言っていたわいなあ。

父は享年六十五歳。『香山院釈教尊居士』これは大崎仏現寺の広瀬住職がつけた父の戒名だ。広瀬住職と父は県立柏原高校の同級生(柔道部の部員)だったからまあ感無量じゃっただろう。一方、母玉枝にしてみたら、亭主二人(先夫山口嘉・後夫山口完二)にも先に旅立たれてしもうて、もうどうしようもなく人生の悲哀を感じておっただろう。ワシゃかわいそうになあと思うばかりで何も力にはなってやれんかったのう。まあ実際ワシ自身もものすごう悲しかったわい。また、さびしかったわいなあ。その晩のお通夜にワシは父の側にずっとついていてやった。しかし焼香をやりすぎて部屋が煙ってしまっておったわい。ごめんよなぁ。寝ずの明くる日、葬儀は広瀬住職を始めとして柏原の住職それから領町の住職等がやってきた。『帰命無量』喪主は母だった。正座しておったワシの足がしびれた。立ち上がる事はできなかったわい。『むむ………』SCの社長から花輪が届いた。実はSC人事部の何某から電話があって、花輪を贈るからそちらで手配してください。金は請求してください。とのことじゃった。だから社長の花輪はワシが手配したのじゃよ。松江ホテル一畑増築工事作業所からは西村所長が弔問に来られたのう。本当に遠く松江からわざわざありがたい事じゃった。西村所長はワシに会わずに帰松された。

ワシと兄二人ともう一人山口充弘で父の棺桶をかついだ。実は棺桶が小さくって父完二の遺体は足を少し曲げて中に入れられた。しかし、死後硬直していたから曲げるのは一苦労であた。霊柩車は焼き場へ向かった。さて氷上町の焼き場は成松の山奥にあった。ワシらでボイラーの釜の中に遺体をいれると、火をつけた。のぞき窓からボイラーバーナーの火によって、父の遺体が焼けるのが良く見えた。父は煙突から煙りになって虚空に消えた。人を焼く臭いはなんとも嫌な臭いじゃわいなあ。明くる日、お骨を拾いにまた氷上町の焼き場に行った。ワシと兄と母で骨壷にお骨を箸でつかんで入れた。かわいそうに父はわずかなお骨になってしもうたのじゃ。喉仏がきれいじゃった。喉仏は本当に仏様みたいに見えた。北野の共同墓地はお池の向こう側にあった。今もあるが、西日のあたるまあまあええお墓場じゃよ。ワシと兄二人とで父の骨壷を持った。といっても骨が少々はいっとただけじゃから軽かった。山口家先祖代々の墓は北野墓場の一番上、松の木のふもとにあった。そこに父は入ってしまった。もう決してこの世に出てこないぞや。自定、伊衛門、嘉四郎、嘉、貞次、まつゑ、香山院釈教尊(完二)、が皆多分仲良く永眠しているのじゃろうて。しかし、本当に出てこないのであろうか?ここは、皆もよく考えてくれい。復活はないのかい。
その日の丹波山口家家族会議で、兄山口泰俊は丹波山口家の後を自分が継ぐと言い切った。それには、たれも反対せんじゃったのう。その時兄泰俊は非常に元気じゃったからのう。一方、兄嘉孝は父の遺産分けで丹波山口家の一部の田んぼ『大崎田』を相続した。確か相続した大崎田は約数千万円で売却したのではないかと思う。その金子(きんす)は神戸の電気店みよしの借金の返済に充てられたようだわい。一方ワシは泰俊兄に『父の遺産は、何も要らんぞや』と言った。遺産を分割したら丹波山口家にはなにも無くなってしまうじゃーないか。だからワシは一銭ももらっとらん。形見分けとして父のSEIKO SPORTS という腕時計をもらったのみじゃ。ワシは正にゼロから出発したのだよ。山口孝子(故人)が言った『恵理子さんはいいねえ、何も要求しないなんて』その時点ではワシの手元にはまだ何も財産は何もなかったのう。ゼロじゃった。ワシは恵理子と二人で十分だと考えていたのう。恵理子は二億円くらいの値打ちがあると考えていたのじゃ。わしには元手は何も無かったが、でっかいやる気があった。また子供ができれば、一人二億円の値打ちが出てくると考えていたのじゃ。それが今は……むひっひ。五人で十億円にもなっちょるばってん。これは我山口ファミリーにとって大正解であった。

昭和五十一年九月三十日ホテル一畑は無事堂々竣工式を向かえたのじゃ。ホテルオープンは十月一日。株式会社ホテル一畑取締役社長 渡部傳之助(つりばか日誌みたいな名前やなあ)は真嬉かったに違いないのう。我々施工者と共に施主が喜ぶ竣工式だった。竣工式には松江の昔のきれいどころが非常に多く来ていたのう。我々は竣工式終了後、松江の飲み屋街に消えた。明くる十月一日はホテル一畑新館が堂々オープンしたのじゃよ。この工事は昭和五十一年十二月二日SC広島支店長により優秀施工工事表彰をうけた。そして記念ももらった。それは玄関に飾ってあるよ。

この頃ではなかったかい『和田明子シスター』がものみの塔を持って松江市浜乃木町の山口家を訪問したのは。それから恵理子に喜びの勉強の日々が開始されたのじゃ。今でも頑張ってヤーウェーの勉強しちょるぞや。恵理子は嘉のあとを継いだようなものじゃのう。まあしっかり頑張りなさいや。信じるものは救われる。ワシの子供まで道ずれじゃよ。ただし女子供だけじゃよ。まったく。まったく。


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