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山ちゃん5963

四十三、第一子長女寧々

四十三、第一子長女寧々

仕事が厳しいと胃腸に影響が出るというのは本当じゃよ。その時期のワシは、なぜか良く吐いたのう。悪阻(つわり)かい?ほんなあほなことはない。ワシは男やぜ。じゃから広島市民病院に診察に行った。胃カメラを飲んだ。しかし、あの頃(昭和五十一年)の胃カメラはすごく太いカメラだったのじゃ。直径約1.5センチくらいあったぞ。それを飲みこむのであるから、『おえー、おえー、おえー』診察の結果、『幽門閉塞』といいおる。胃の中が相当あれており幽門(胃袋の出口)が腫れた結果、狭くなって閉塞しておる。だから食べたものを吐くという訳だ。なるほど、筋が通っとるわいのう。胃カメラで写したカラー写真を担当の先生に見せてもらったが、確かに相当赤く胃の内部が腫れておった。酒は止めなさい。たばこはやめなさい。仕事はひかえめに。と言われてしもうた。相当仕事がきつかったんやね。たしかにきつかったわい。それはたばこ中止と酒中止と仕事を軽くして全快した。たしかに全快後の胃カメラをみるときれいな胃になっておったわい。よかったのう。

昭和五十一年恵理子に本物の悪阻(つわり)が来た為、我山口家に子宝を授かったことがわかった。『やったぜー、ベイビー』『やった、やった』『ええぞ、ええぞ』
人は、一人この世から死に至り、そしてまた新たに一人この世に生まれ出る。これは、非常に良くできたこの世の仕組みだと思わんかい。一体、誰がしくんだのかい。それは聖書に記されています。それはヤーウエーです。だってさ。
ワシにはこの第一子は、父の生まれ代わりのように思えてならなかったのう。絶対そうだ。そうに違いない。しかし、なぜか。なぜか。この世には、子宝を授からない人もいるのはなぜかい。それは、全ての人間に対して、不公平というものじゃないかい。たとえば石原裕次郎と真紀子夫人のようにな……裕次郎の兄石原慎太郎には子宝が多いぜ。これら何事も運命なのかい?そうじゃそれが運命というものだよと言うには少々問題がでかすぎるのう。『うーん』どう思う?諸君?ちがいます。人間が神から離れた結果不完全になったからです。だってさ。ははは。

恵理子は十七歳で骨折しとるなあ。柏原高校の機械体操部の頃じゃなあ。これも運命のいたずらかい?単に手を骨折しただけなのかいや?骨折部分の接ぎ方がまずく少しその部分で曲がっておるそうじゃぞ。後ろに曲げられんちゅうとったがのう。

さてワシと恵理子にとっての第一子、運命的な最終月経日は昭和五十一年六月九日、初診日は七月二十三日、胎動を感じたのが昭和五十一年十月十五日だったと記録にあるぞ。まあよく記録しとるのう。恵理子もよく覚えとるもんだわい。たいした奴じゃ。
確か、犬の日にはさらしの腹帯をしたよなあ。何で腹帯するのかい?それは、元気な赤ん坊が生まれるようにというまじないじゃよ。本当のとこは、腹を冷やさないようにするという大きな目的があるのじゃよ。だから、むかしからきちんと腹帯せにゃーいけんぞやといいおる。

さあさあ諸君、喜べやーい、喜べやーい、我等が第一子は昭和五十二年三月十五日に産まれたのじゃよ。生まれた場所は広島市祇園町大字南下安のヒノ井産婦人科の一階分娩室だった。病室はワシらの準社宅広島市祇園町大字南下安七二の三佐々木アパート十号室から歩いて三分のところにあった。その日の朝ワシは定時に会社に行った。その日の昼前十一時頃妻恵理子は一人御産の荷物を持って、歩いてヒノ井婦人科に行ったのだ。一人で、しかも新しい命をさずかる喜びの顔で。ワシャ清水建設広島支店で、その事を知らず仕事をしておったわい。夕方、ヒノ井産婦人科から『無事女の子が生まれました』と電話があった。恵理子が電話したんだったかいのう。ワシゃまず男の子が欲しかった、が、まあええじゃないの。婿をもらえば良いわい。と思いながら、バスでヒノ井産婦人科病院に向かった。まあその婿の件は、後年『事実』となって真に、真にびっくりしたが、まだまだ後年の事である。

さあ母子手帳によれは、出産予定日は昭和五十二年三月十六日。しかし出産は一日早い三月十五日だった。分娩所用時間五時間四十一分。出産時間午後五時五分。出血量は少量。体重三千四十グラム。身長四十八センチメートル。胸囲三十二センチメートル。頭囲三十二センチメートル。性別女。分娩取扱い者は桧井紀正医師。助産婦村地サダコ、と記載されている。ワシが病室に着き恵理子の顔を見ると、初産の為かなりいきんだ様で恵理子の顔は赤く発疹がみられたのう。ワシはバナナを持って喜びの声を伝えた。『良かったのう。親子共元気でのう。えらいぞ。バナナ食って栄養つけて母乳出せやーい』赤子の顔を良く見た。なかなかかわあいい顔をしとったぞや。口元がおちょぼ口で小さく、本当にかわいい赤ん坊だったわいなあ。ワシにはこの赤子が美人になる事が確信出来たのだわい。まだ名無しの我子やーい。幸せな人生を送れやーい。赤ちゃんはうなずいたようじゃった。ほんとう。

その晩ワシは祇園町の自宅の布団の中で、一人良く良く良ーく考えたぞい。またその次の晩も良ーく考えた。幾晩も熟考したのだよ。そしてノートに何回も書いてみた。誰からも愛されて、また良妻賢母になるように、また日本国中どこにも無い、良い名前に、読みやすく、名前を呼ぶ声をかけやすい、またワシの一番好きな名前に。

その第一子の命名は『山口 寧々(ねね)』とした。恵理子も『いい名前ですね』と言って喜んでくれた。出生届けは昭和五十二年三月二十二日に広島市長に提出した。生まれて一週間後じゃねえ。つまり一週間その名前を熟考してつけたことになるわいのう。広島市役所安佐出張所の住民票担当の女性は『まあ、寧々って、いいお名前ですね。ほんとうに、おめでとうございます』と言った。ワシは、照れ臭く『いやー、どうも、どうもありがとうございます』と答えたけーのう、確か。ここに娘の『山口 寧々』が誕生したのじゃよ。ワシゃとってもとってもうれしかったぞーい。『わーい』

ワシは兵庫の北奥から大内秋枝義母に広島まで来てもらって母子の面倒を見てもらったのじゃよ。田舎では田植えが控えていたので大変な時期じゃったが、秋枝義母も非常に長女『山口 寧々』誕生を喜んでくれたわい。伊三郎爺もな。今、お礼言うとこかい『秋枝おばあちゃん、どうも有り難うさんでしたね、伊三郎お爺さんもありがとう』秋枝おばあちゃんにとって寧々はもう何人目の孫だったのだろうか?大内一彦、大内里美、木下剛紘、木下恭子、芦田瑞樹、山口寧々だから、きっと六人目じゃろうなあ。

高見のおばあちゃん(義母秋枝の御母堂)からすればひ孫じゃったのう。ワシ等、お宮参りは広島護国神社に行ったのう。ワシの服はワインレッドのスーツじゃったのう。なんか恵理子も色を合わせておったぞや。また、後に秋枝義母とは安芸の宮島へ行ったもんだ。昔、戦時中、大内伊三郎・秋枝夫婦は安芸の宮島経由で中国に商売の為、海を渡って行ったたことがあるそうで。宮島には思い出があるようだったのう。

昭和五十二年四月一日ワシは二級職になった。それは大変よい事だったのじゃ。私生活以外に、仕事もだんだんと厳しく、責任も重くなってきたのじゃわい。これは幸先良し。
その頃の仕事としては
1 山陽観音マンション(山陽木材のマンション)
2 山陽元宇品マンション(同右)
3 祇園いずみ改修工事(スーパー改修)
4 五日市いずみ新築工事(スーパーマーケット)
5 因島呉相互銀行新築工事(銀行)
6 広島デサント新築工事(事務所ビル)
7 菅工業ビル新築工事(事務所+住宅)
8 佐渡マンション新築工事(SC広島支店の社員佐渡氏のマンション)
9 エリザべート音楽大学(広島の有名な音楽大学)
があるなあ。なかなかタフな仕事が多かったのう。因島にはたびたび出張した。瀬戸内海にある田舎の港町だった。建物を建てるというのは、『人生の記念碑』を建てるのじゃから、我々施工者としても当然ごっつう気合が入るもんじゃのう。

ワシもいつかは金字塔を建てたいものじゃ、と思っていたもんじゃ。


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