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山ちゃん5963

山ちゃん5963

四十七、第三子愛々、四十八、小田原LIOJ

四十七、第三子愛々

さて、待望の第三子。最終月経開始日昭和五十六年八月二日、この妊娠の初診日九月二日広島橋爪産婦人科。胎動を感じた日十二月十日。恵理子はこの頃風疹の予防接種をうけた。じゃからその風疹の予防接種が体内の子供に影響を及ぼすのをおそれて生むのをどうしようか迷ったらしい。ワシに相談したのだ。あほか、ちゃんと生みなさい。ワシが皆面倒みちゃる。あたり前じゃろうが。たとえ五体不満足でもかまわん。新しい命はそまつにしちゃーいけんよ。しかし乙武ひろただだったら、ワシはどないして育てたかいのう。今となってはわからんのう。ばかと薬は使いようじゃぞ。諸君気をつけろやい。分娩予定日昭和五十七年五月九日、しかし二十日ほど早く、四月十九日朝こむかい産婦人科にて診察を受けて『これはまだまだ生まれません、大丈夫です』と言われたそうな。恵理子は買い物に行ってからタクシーで立川マンションに帰ろうとしたが、どうもおなかが痛いわ。よってタクシーに行き先変更。『こむかい産婦人科に行ってください』そしてその日、四月十九日夕刻午後五時十五分第三子誕生。分娩の経過は頭位、出血量少量、性別女体重二千百十五グラム、身長四十一センチ、胸囲二十九センチ、頭囲三十センチ、分娩取扱い者立川市錦町二丁目三番三十号こむかい産婦人科小武海成一。新生児は未熟児のため、その日救急車にて立川市立総合病院に入院した。ワシはSC東京本社から駆けつけた。保育器に黒い赤ちゃんがいた。『あれー、黒ちゃんが生まれたのやろうか?なんでや?どうしたんやろか?おかしーな?』あわてもんやねー。よく観ると、お隣に白いおさるさんのような赤子がおったわい。こりゃー、小さいわい。そりゃ当たり前やないかい、未熟児やもんな。子供は小さく生んで大きく育てる。まあこれから大きく育つに違いないわい。だから、未熟児をしばらく総合病院に預かってもらったわい。恵理子は母乳をしぼり、義母秋枝がその母乳を総合病院に運んでのませた。やはり母乳は一番だよ。ビタミンEをたくさん含んでおるぞや。

四月二十七日命名『山口 愛々』なかなかかわいい名前だろう。これは『かわいいおさるさんのアイアイ』から付けた。いやいや、実は、徳川に愛姫というお姫様がいらっしゃってな。それにあやかり『愛』にしようとも思ったが、ここは名付達人として『愛々』と命名したということよ。最近天皇陛下と美智子妃殿下の息子皇太子殿下と雅子様もワシの真似しておられるぞや。しかしその『愛子さま』より『愛々ちゃん』のほうが格段に良かろうが。まあ『愛々』は保育器から出て、親の愛情を注がれながら、元気に育ったよなあ。よかったのう。ワシ等山口ファミリー子宝合計六億円。
後の事だが、ワシが愛々を連れて立川市民球場の遊び場にいったんじゃ。そこでぶらんこ遊びしとったら、愛々がぶらんこから落ちてのう。愛々が二歳頃だったのう。ぶらんこが前から頭に当たった。そしたら頭を下げればええものをそのままにするもんじゃけー。今度は後ろから頭に当たった。次にもう一回前から当たった。血が出た。ワシャ病院まで走ったのう。まあまあたいした事にはならんかったが、何針か縫った。愛々のかわいそうな一日だった。猿もぶらんこから落ちるちゅう事かいのう。

四十八、小田原LIOJ

立川から通勤するSC本社は東京駅から歩いて十分、東京都中央区京橋にあった。部署は設備部工務課。課長は渡辺輝治課長。昔は設計課長をやっていたのだ。黒田先輩、茂木同輩、大田原後輩がいた。渡辺課長はかなり細かい課長だ、ワシは広島時代から、すでにあごひげをたくわえておったのじゃ、聖徳太子にそくりの非常にいいひげ、また、耳は福耳ときとる、課長は何か言った。また人事部には松平という部長がおった。彼は徳川の武士の家系だわなあ。わしのひげを見て一言『まだひげを蓄えるのは早いぞ』といいおった。あほか、お前らー、うらやましいのかい。ワシゃ、そんな事は全く気にしなかった。きっとうらやましかったんじゃなあ。それはワシの勝手だ。そのワシのひげはなかなかかっこ良かっんやぞ。まあ昔のSCはなかなか小うるさい会社じゃった。いまはまあまあ世間並みじゃのう。

設備部工務課では、海外本部の設備見積作業をしておった。その頃手がけた見積要綱は、全て英語でドキュメントが書かれておった。(BQ書)見積書も英語で作成した。英語の辞書をひきひき仕事じゃった。
まず、
1 ザンビア病院
2 ネパールトリブバン大学病院
だった。どちらも日本政府無償援助物件で、全ての資機材は日本から輸出し、現地調達はブリック(日干し煉瓦)と労務(ワーカー)だけだった。さて当然見積資料の言語は英語となる。現地で仕事する場合も当然英語だわい。

そこで、普通は小田原にLanguage Institute Of JAPANという学校に入学するのが決まりだ。だから昭和五十七年六月七日ワシはLIOJに入学した。先生はすべてアメリカ人。日本語は一切御法度。一言日本語をしゃべると百円とられた。なかなか大変だった。約一ヵ月勉強した。最初にクラス分けがあった。ワシはAクラス。これは英語力最低のクラス。是枝もAクラス。成田はCクラス。Cクラスは英語力最高のクラス。タイランドの女性も二人Cクラスだった。チャオバピットラプラプソンとトミーだった。彼女らはもちろんCクラスだった。ワシは毎日苦しい英語勉強をした。最初自己紹介。これは、まあまあ出来る。さて自分の仕事の内容を英語で皆に説明しなさい、と言われた。これはかなり難しい説明だ。日本語で説明しても難しいワシの仕事だのに英語でそれが説明できるかい。しかし、一ヵ月も英語だけで生活すると、まあなんとかなるものだぜ。ワシはオリベッティのタイプライターを持ち込んで勉強した。『パシャ、パシャ』それから、雨の日以外は毎日、小田原城の公園散歩をかかさなかった。最終日には皆でファイヤーワークをした。これはワシのアイデアであった。日本語で言うと花火の事じゃよ。昭和五十七年七月三日無事小田原LIOJは卒業したのう。よかったのう。ちょうど一ヵ月間の英語の勉強だった。この学校はワシの今後の人生に大きく影響した。明石高専もそうじゃが、学校ちゅうのは青年期の思想を作り、将来への道をかたち作るもので、非常に大切なものじゃのう。

昭和五十七年夏、チャオバピットと丹波山口家へ行ったなあ。行きは車トヨタスプリンターで寧々と一緒じゃったなあ。丹波山口家で一泊した。母玉枝はチャオバピットの寝間着の前をあわせてやっとったなあ。外人に寝間着は無理じゃよ。やっぱりパジャマじゃーないとあかん。明くる日は京都で一泊。ちょうど夏東山の大文字焼きの日じゃった。すごい人出じゃった。昔兄が勤めていた『東山閣』に宿泊した。チャオバピットは一人京都の町を歩いた。よく外人女一人で行くよ。明くる日、チャオバピットは新幹線で東京に帰った。ワシと寧々はトヨタスプリンターで立川に帰った。チャオバピットにとっては我愛車トヨタスプリンターは冷房が無くって暑かったのだろうぜ。タイランド生まれだのに。ところが、寧々は別に暑いとは言わなかった。えらいぞや。



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