五十四、イラクの隔離病棟五十四、イラクの隔離病棟ある日、朝のラジオ体操が済み、朝の現場巡回を始めた。階段を上がろうとしたが、足に力が入らない。身体がおかしい。だるい。“ Mr.yamaguchi yellow yellow. ”とインディアンワーカーが言う。何のことか、どうもワシの顔が黄色いと言っていたのだ。本当に真黄色だった。眼玉の白い部分は黄色。手も黄色。黄疸症状であった。バグダッドのDr.Samarai(サマライ先生:日本で医学の勉強をした先生で奥さんは日本人。皆はサムライ先生と呼んだ)の診察の結果、『急性肝炎です、即入院しないといけません』といいおるわい。ワシはとうとう隔離病棟に入れられてしまった。さあその病院が、伝染病の為隔離するための病院で、とても、とっても、とてもひどいところだった。Baghdadからジャグディッシュの運転する車で約三十分、その病院は運河のほとりにあった。きたない病院で、ワシは六人部屋に入院させられた。食事はひどい内容で、食えない。あるとき同室の男が夜、ベッドから落下した。そしたら、あくる朝だったか、そのまま死亡していた。おいおい、ここは病院かい、監獄かい。いったい何?毎日イラキー病人食をたべさせられるだけで薬を与えられる事は一切無かった。そもそもイラクの医療レベルはかなり低く、また医療技術はかなり遅れていたのだわい。毎日バングラのクックが昼飯を運んでくれた。ワシは、早くここ(監獄病院)から退院させよと交渉した。結局一週間近く(監獄に)いたのかなあ。そして、むりやり退院にこぎつけた。現場のアコモ(宿舎)にて時期を待ち、とうとう日本に帰国した。Iraq HiRise Lot 10木遣り会の山崎君という若者と一緒に成田にもどり、成田からタクシーで立川に帰った。山崎君お世話になりました。ありがとう。明くる日さっそく中目黒共済会病院に入院した。この病院は日本では肝炎患者にとって最高の病院であってイラクの監獄とは全然比べ物にならない。毎日ちゃんと点滴をした。何日入院したろうか。はや約一ヵ月過ぎた。肝炎はいいものを食ってゆっくり療養するのが薬となる、これが贅沢病と言われる所以だ。恵理子が、寧々・藤吉郎秀吉・愛々を連れて見舞いにきた。嬉しかったなあ。ほんま。 さてさて、A型肝炎に打ち勝ったと思ったら。すぐイラクの太陽熱研究所へ行けと来たもんだ。まったく人使いの荒い会社だぜ、SCは。ワシは再びイラクの現場に向かったのう。さてさて、イラクのアブグレイブで輸入品の受け取りに行った時の事。ワシは写真機を太陽にむけ、夕日を撮ろうとした。それを見たIraqyがMushikera Mushikera Karabuchi Karabuchi と言って銃口をワシにむけた。危ないあやうく銃殺されるところだった。そこでは写真撮影は厳禁であったのじゃ。まあフィルムを抜き取られまあ事無きを得たが、危うく死亡するところじゃった。 太陽熱研究所も工事は完成したが、 問題発生。太陽熱依存率0.837が出ていない。簡単に解説すれは、太陽熱を使用してビルの冷暖房をしているが、その太陽熱に83.7%のエネルギーを依存しているビルなのだ。しかし、計算すると実際には80%を下回っていた。おまけに○○重工製の吸収式冷凍機の成績係数COP0.716もそれが確保できていなかった。○○重工からは後藤が派遣された。よってそれらの対策と実測に一年を費やす事になった。まあイラクの隔離病棟よりは良かったが、この実証にはかなりの無理があった。イラクの夜から朝にかけて外気温度はかなり下がる。そのため前日蓄熱した太陽熱が夜の間に大気に放射される。これが設計上計算に必要数が加算されていなかった。よってこのプロジェクトはペナルティを課される可能性が出てきた。結論から言うと工事請け負い金○○億円の○パーセントを留保されて決着した。いやー、おおきいぞ○億○千○百万円もある。その引き続きにイラクハイライズのメンテナンスも工事長と一緒に引き継ぐ事になってしもうた。かなわんなあ。 |