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山ちゃん5963

山ちゃん5963

五十六、バグダッド日本人学校

五十六、バグダッド日本人学校

家族子供を連れてバグダッドに行く計画をして、それが会社に認められた。よかった。さあ、恵理子と寧々と藤吉郎秀吉秀吉と愛々のパスポート段取りだわい。昭和五十九年十二月二十五日パスポートを取得した。

1984旅券

山口恵理子、併記する子寧々・藤吉郎秀吉・愛々となっている。さて、子供達が立川の某病院にて、予防接種を受けた時、先生はもう御老体だった。そして秀吉がその太い予防注射器が恐くって泣いたのじゃよ。ワシはしかりとばした。藤吉郎秀吉はよけいに泣いた。しかし、隣の夫婦者はその夫婦のちいちゃい子供にたいし『よくがんばったねー○○ちゃん、御褒美においしいもの食べようね』と言っていた。ワシはなるほどな、そういういい手があったのかい、と思った。子育ての勉強させられたわい。

一度目は昭和六十年一月十九日成田を離陸。途中バンコック経由でバグダッドに着いた。これは冬休みではなかったから、立川三小は特別に休んだ。イラクは冬。日本と同じ冬だがバグダッドでは雪は決して降らない。雨は降る。帰国は二月十八日。

バビロンホテル

二度目は昭和六十一年八月九日成田を離陸。イラクは夏。外気温四十度を体験。帰国は八月二十六日三木所長と。これは夏休みをねらってのバグダッド旅行。


バビロン

さて寧々はバグダッド日本人学校に経験入学した。これが、なかなか楽しかったようだ。同じクラスに○○さんという女の子がいた。寧々と仲がよかった。実はこの経験入学はワシ一人で決めて一人日本人学校に行き校長と交渉した。後で、ハイライズの所長が怒っていた。ワシゃ自分の道を進むのみ。そりゃ当たり前じゃろうが。まあしかし、所長たる人をないがしろにしちゃーいけんということよ。

これはIRAQ Hi Rise現場での話しだが、寧々はインディアンワーカー達の前でラジオ体操の指導をしたのだわい。寧々はピンクの半ズボンをはいていた朝礼壇に上がったわいなあ。なかなか寧々はがんばった。ワシがあの年(八才)だったなら恥ずかしくってようせんなあ、きっと。
あるとき、ザウラパークの遊園地でコーンアイスを寧々に買ってやった。ところが寧々がそれを食べる前になぜかコーンからアイスが転げおちた。そのときの寧々の顔は忘れはしない。寧々の目が点になり、それから泣いたのう。かわいそうだったがワシはアイスを新しく買ってやることはしなかった。ものはすべて大切に扱いなさい。寧々小学三年生じゃった。

ワシらーはカラダオフィスに宿をとっておった。秀吉がカラダオフイスの外でサッカーをしていた。ボールが破けたので道路に捨ててきた。するとイラキーの子供がそれを拾ってサッカーを始めたのじゃ。イラクの子供ってサッカーが大好きなのだわい。ワシらー子供と皆で声を殺して笑ったもんじゃった。その時藤吉郎秀吉小学一年生。

愛々はおとなしくしていたのう。愛々三才じゃった。

ある時国士館大学の藤井教授(イラクで長年遺跡発掘をしている、特にウルの織物の断片を発掘したのが有名)と黒いオイルの湧き出る泉にいった。ただオイルがにじみ出ているだけだが、これはなかなかすばらしいところで。不思議なところだった。オイル(原油)って本当に化石と同じものかいや。ワシには別物に見える。なぜこんなものがイラクの土漠で出てくるのかい。一体埋蔵量はいくらあるのかい。はたして無限にでるのだろうかいのう。ワシら家族はこのようにあちらこちらと海外旅行と海外生活を開始したのじゃ。それが今後の山口ファミリー全体の行動半径を膨らませたと思う。そのとおりじゃ。

Iraq Hi Rise には月光仮面が出没したのだ。ある時は早朝オートバイが駆け巡り、現場の資材を調達。朝四時にA工区にあったベニヤの山がいつのまにか朝礼の始まる八時にはもう違う場所B工区に移動していた。それはその日のうちに型枠として使われた。その月光仮面こと我らが仮面だった。まあ、よくがんばる月光仮面だった。この仮面にはシンガポールにて再び会いまみえることになる。

昭和六十二年九月二十九日イラク バビロン インターナショナル フェスティバルが開催されたのじゃ。“From NABUKHADNEZZAR To SADDAM HUSSEIN”じゃった。清水建設Baghdadカラダオフイスの事務のワラさんと所長と事務長と一緒にジャグディシュの車でバビロンに出かけた。その日バビロンシアターでイタリアのオペラが催されたのだ。オペラの内容は忘れたが、非常にたくさんの外国人が鑑賞した。そしてイタリアオペラを楽しんだ。非常に楽しいフェスティバルだったなあ。


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