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カテゴリ:落語
立川談志師匠といえば「落語とは、人間の業の肯定」論が有名ですね。なお、gooの国語辞典で「業(ごう)」という言葉を調べますと、「理性によって制御できない心の働き」とあります。 私は、談志師匠がこの「業」という言葉を使って「落語とは、人間の業の肯定である」と論じたのは『現代落語論』(三一書房、1965年12月)が最初だと長い間思い込んでいました。しかし、師匠が最近出した『談志 最後の落語論』を読むと、「談志四十九歳、『現代落語論』のパート2である『あなたも落語家になれる』という本にその言葉を書いた」としています。ただ、残念ながら三一書房から1985年3月に出版されたその本は手許にありませんので、新潮社から2008年5月に出された『人生成り行き -談志一代記-』 で談志師匠が語るつぎのような「落語とは、人間の業の肯定である」論をまず紹介したいと思います。 「立川流創設の頃まで、あたしは〈人間の業の肯定〉ということを言っていました。最初は思いつきで言い始めたようなものですが、要は、世間で是とされている親孝行だの勤勉だの夫婦仲良くだの、努力すれば報われるだのってものは嘘じゃないか、そういった世間の通念の嘘を落語の登場人物たちは知っているんじゃないか。人間ほ弱いもので、働きたくないし、酒呑んで寝ていたいし、勉強しろったってやりたくなければやらない、むしゃくしゃしたら親も蹴飛ばしたい、努力したって無駄なものは無駄--所詮そういうものじゃないのか、そういう弱い人間の業を落語は肯定してくれてるんじゃないか、と。」 また談志師匠は、『談志 最後の落語論』(梧桐書院、2009年11月)でも「落語とは、人間の業の肯定である」という持論をつぎのようにも述べています。 私は、拙サイト「十人十席の噺家の高座」に大好きな師匠たちが巧みな話術で私を大笑いさせた愉快な噺を幾つか紹介していますが、それらの多くがやはり確かに人間の業を笑いの対象にしています。桂三木助師匠の「崇徳院」では、若旦那が一目惚れしたお嬢さんを探し出したら三軒長屋を全て与えると大旦那から約束されて江戸の町を足を棒のようにして探しまわる熊さん、桂米朝師匠の「はてなの茶碗」では、京で一番の茶道具屋と評判の通称「茶金さん」が「はてな」と首をかしげてひねくり回した茶碗で大儲けしようとする行燈用油の行商人、柳家喬太郎師匠の「転失気」では、「転失気」という言葉の意味を知らないのに見栄を張って知ったふりをする和尚さん、柳家小三治師匠の「ろくろ首」、桂枝雀師匠の「貧乏神」、三遊亭歌之介師匠の「動物園」 ではなんとも情けない怠け者たち、金原亭馬生師匠の「笠碁」では碁で「待った」「待たない」で意地を張り合う旦那たち、立川志の輔師匠の「歓喜の歌」 では自ら犯したミスを適当に糊塗しようする公民館の主任の小役人的小ずる賢さ、笑福亭松鶴師匠の「らくだ」では、粗暴な熊五郎という男に初めは媚びへつらって従順に従っていたのに、酒乱のため酔いがまわると立場を逆転させて熊五郎を従わせる紙屑屋が描かれています。 しかし談志師匠は、上に紹介した『人生成り行き -談志一代記-』で「弱い人間の業を落語は肯定してくれてるんじゃないか」との言葉の後に続けて、最近は次第に「イリュージョンこそが人間の業の最たるものかもしれません。そこを描くことが落語の基本、もっと言や、芸術の基本だと思うようになった」と言い、そのことを次のように説明しています。 「でも、落語が捉えるのは〈業の肯定〉だけではないんです。人間が本来持っている〈イリュージョン〉というものに気がついたんです。つまりフロイトの謂う『エス』ですよね、言葉で説明できない、形をとらない、ワケのわからないものが人間の奥底にあって、これを表に出すと社会が成り立たないから、〈常識〉というフィクションを拵えてどうにか過ごしている。落語が人間を描くものである以上、そういう人間の不完全さまで踏み込んで演じるべきではないか、と思うようになった。ただ、不完全さを芸として出す、というのは実に難しいんですが......。」 この「落語はイリュージョンである」論なんですが、DVD「立川談志 古典落語特選」第4集に入っている「松曳き」(2002年2月15日になかのZEROで収録)という噺では、まくらで「良い映画」のことを結構長くしゃべった後、「イリュージョン落語」と言ってから、赤井御門之守というお殿さまとこの殿さまに仕える田中三太夫の支離滅裂な言葉のやり取りが開始されています。 三太夫が「どうやら梅雨も明けたようでございますな、殿」と言うと、殿さまは「おおそうかつゆか。今朝の膳部の汁(つゆ)は冷たかったな」とボケ、三太夫が「そのつゆのことではございません、梅雨のことで」とツッコミますと、「分かっておる、洒落だ」と返し、「草双紙の面白いものはないか。枕絵のいいのがあったら竹書房に電話して…」と殿さまが言い出しますと、三太夫が即座に「論語などはいかがで」と提案しますので、また殿さまが「論語!! 論語道断だな。火の玉を喰うってのは熱いな」とボケてみせます。それに対して三太夫が「子曰く(し、のたまわく)でございます」とまたツッコミますので、殿さまもまた「分かっておる、洒落だ」と返しています。 さらに殿さまが「庭の松が繁って月見の邪魔になる。左に移せ」と命じますと、三太夫が「松を曳くのはたいそう難しうございます。植木屋が入っておりますので、植木屋に訊いて参ります。下世話に餅は餅屋と申しますから」と返事をしまと、殿さまはまたまた「餅屋が松を曳くのか」とボケるといった調子です。まさにワケの分からない会話が殿さまと三太夫の間で繰り返されることによって生みだされる可笑しさを作り出そうとする「イリュージョン落語」の試みですね。 この噺の下げは、三太夫が自分宛てに国表から送られた書状に「殿様御姉上君御死去仕(つかまつ)り云々とあるその「殿様」の意味を、赤井御門之守のここと勘違いし、殿さまに「姉上様が御死去遊ばしました」と伝えてしまい、その間違いを後で伝えられた殿さまが怒り出し、三太夫に切腹を命じますが、死を覚悟して引き下がろうとする三太夫を急に呼び止め、「よく考えたら余には姉はいなかった」という、まあ実にクダラナイものなんですが、だからまた最高にオカシイものなんです。本来は殿さまと三太夫という慌て者としては優劣つけ難い両者の勘違いごっこを笑いの対象にした古典落語ですが、これを談志師匠は支離滅裂な会話が繰り広げられるイリュージョン落語に仕立て直したのですね。 なお、この「松曳き」という噺の下げの部分は、桂枝雀師匠の「緊張の緩和」論が見事に適合するような気がします。この噺の聴衆は「切腹」という言葉を聞いてグーッと緊張し、「よく考えたら余には姉はいなかった」でパーッと緩和し、そこでドッと笑いが起きるんですね。 因みに、談志師匠のイリュージョン落語については、お弟子さんである立川志らく師匠もその著書『立川流鎖国論』で、「それまで談志は『落語は人間の業の肯定』だと言っていた。それが六十代のなかばごろから『落語はイリュージョンである』と言いだした。/落語における会話は、なんだかよくわからないが強烈におもしろいもの。それは非日常であり、まるでイリュージョンだ、と言ったのだ」と書き、「無精床」という噺で、現実の日常世界でお客さんと床屋さんとが交わすであろう会話なんかクソッ喰らえのはちゃめちゃイリュージョン会話を展開させています。 拙ブログに2回連続で立川談志師匠についてのコメントをアップしましたが、これらを一つにまとめて拙サイト「十人十席の噺家の高座」に「立川談志師匠の『松曳き』」と題して下記のURLにアップしましたので興味ございましたらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/dansi.html
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