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2015年04月05日
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 朝の連続テレビドラマ「マッサン」に、初めてウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)がマッサンを高額で醸造技師として招く話が出てきます。この鴨居商店の鴨居欣次郎は実在の人物である寿屋の創業者である鳥井信治郎をモデルにしています。

 この鳥井信治郎の生誕と学歴について、ウイキペデアの2015年4月8日以前に書かれた「鳥井信治郎」に関する記事中にはつぎのように書かれていました。

「1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
 1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学  
 1892年(明治25年) 13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出た。」

 ウイキペデアに2015年4月8日以前に書かれていた記事によりますと、鳥井信治郎は1879年生まれで1890年に大阪商業学校(現・大阪市立大学)に入学しているとのことですから、11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級入学したことになります。最近も大川翔という14歳の日本人少年がカナダでギフテッド(天才児)に認定され、カナダの複数の大学に合格したことが話題になりましたから、遥か遠く霧の彼方にあるような大昔の明治時代に11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級なんてことも有り得るんじゃないのと特に疑問を抱かなかった人も多いかもしれませんね。
 
 確かに大阪商業学校という名前が大阪市大の文系4学部(商・経・法・文)関連の同窓会「有恒会」の記念誌『有恒会七十年の歩み』(有恒会、1960年発行)139頁掲載の母校(大阪市立大学)八十年年譜に出ています。同年譜の明治年間の部分を要約するとつぎのようになります。

 1880年(明治13年)母校(大阪市立大学)の前身たる大阪商業講習所が立売堀北通三丁目に開設。
 1881年(明治14年)江戸堀南通三丁目一八旧府会議事堂二階に移転、大阪府に移管され府立大坂商業講習所として授業開始。
 1885年(明治18年) 大坂商業講習所廃止、府立大阪商業学校設立。
 1889年(明治22年) 大阪府より大阪市に移管、市立大阪商業学校と改称
 1892年(明治25年) 堂島浜通二丁目に新校舎開校。
 1901年(明治34年) 大阪市立大阪高等商業学校と改称、甲種商業を附設。
 1909年(明治42年) 北の大火、校舎全焼、仮校舎を江戸堀南通三丁目に開設。
 1911年(明治44年) 鳥ケ辻新校舎の新築落成祝典。

 その後、1929年に大阪商科大学入学式挙行、1949年には新制大阪市立大学発足としています。

 また『有恒会七十年の歩み』の5頁には、片岡清という明治32年(1899年)に市立大阪商業学校を卒業した人物が寄せた「六十年前の母校を回想して亡き面影を偲ぶ」という文章があり、同文章中に当時の大阪商業学校の「学級制度は、補習科一年、予科二年、本科二年を正科」としたと記すとともに、「尚簡易科として普通商業校程度の別科が、設けられてありましたが、これも数年にして廃止と記憶します」と書いています。 どうもこの「尚簡易科として普通商業校程度の別科」こそが鳥井信治郎が11歳のとき進学した大阪商業学校のことかもしれませんね。

 さらに片岡清は、彼が進学した大阪商業学校の世間の評価や学制についてつぎのような興味深い事実を語っています。

「母校は、大阪市の経費にて賄われた市立でありますから、大阪市民の子弟を収容するを本旨と成し、且又設立者たち市先覚有力者の意向は、必ずしも高等商業教育を目的と成したるものに非ざる哉に推量せられ、従って市の高等小学修了者は受験の上補習科に入学の制度でありました。併し母校の評判は各地に散在する普通商業学枚に比し、断然頭角を顕わし、当時唯一の存在たる高等商業東京一橋の声価には及ぼざるも、是に次ぐものと認められ、従て他府県よりの入学希望者、逐次多きを加え来り、市在籍者子弟の数と相半ばするか、又は是を凌駕するに到りました。中学五年の課程を終えた官公立卒業生は受験の上、本科一年に入学許可の制度でしたが、私共の如き中学中途退学者にして、上級入学希望者は、先ず予科一年入学を受験、更に予科二年受験の順序を踏み、私は明治二十九年三月、予科二年に入学しました。」

 片岡清の上掲の文章をまとめますと、当時の市立大阪商業学校本科に入学が許可されたのは、基本は官公立の旧制中学五年課程を終えた卒業生(通常は17歳)で同商業学校本科を受験し合格した者でしたが、中学中途退学者だった片岡清は明治28年(1895年)に先ず18歳で予科一年入学を受験して合格しており、更に予科二年受験の順序を踏んでから本科二年に進み、同校本科を明治32年(1899年)に22歳で修了したことになります。

 なお、1884年(明治17年)に公布された「商業学校通則」によりますと入学資格は年齢十三歳以上だそうです。また橘木俊詔『三商大 東京・大阪・神戸』(岩波書店、2012年2月)には、明治28年(1895年)に大阪商業学校の校長に就任した成瀬隆蔵が「十四歳以上の生徒を入学させるようにし」たとのことです。しかし優秀な鳥井信治郎少年なら11歳で大阪商業学校に飛び級入学した可能性だってあるかもしれませんね。しかし大阪商業学校は英語力を重視しており、上掲の『有恒会七十年の歩み』7頁掲載に掲載された明治37年(1914年)卒の塩崎喜八郎「在学時代を偲んで」と題した文では、塩崎喜八郎が明治31年(1898年)14歳のときに大阪商業学校予科を受験し「英語の書取りに躓いた」ために不合格となり、1年浪人して明治32年(1899年)15歳で予科に合格したと書いています。

 では鳥井信治郎少年は子どもの頃からその非凡な英語力で才能を発揮していたのでしょうか。彼が語学力の天才だったという話は聞いたことありませんし、邦光史郎『芳醇な酒 やってみなはれ』(集英社文庫、1991年9月)81頁には、鳥井信治郎が二十歳代で鳥井商店を開業し和製葡萄酒の調合や販売を手掛けた頃、「英語のエの字も知らない」ので欧米人の所に和製葡萄酒を直接持ち込むことには躊躇したと書いています。どうも11歳で大阪商業学校飛び級入学説にも無理がありそうです。

 これらのことから推測しますと、明治23年(1890年)に鳥井信治郎が満11歳で進学した「大阪商業学校」とは、片岡清が前掲の文章中に記していた「普通商業校程度の別科としての簡易科」のことかもしれませんね。

 実は「大阪商業学校」をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです。同校の同窓会が出版した『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の34頁には同校帽章についてつぎのようなことが書かれています。

 「天商の帽章は、梅花の中央に『商』の字が配された」ものが明治25年(1892年)に採用され、「のち大阪高商昇格時『商』の字を『高商』と改め使用し、大阪甲種商業学校分離後は甲種校は『商』の字を復活使用」されたそうです。

  帽章

 また同校史に載っている前史を要約するとつぎのようにまとめられます。

 1880年(明治13年)に大阪商業会議所会頭五代友厚が中心となって住友家・鴻池家・藤田家の代表も加わり大阪商業講習所が西区立売堀北通に開設。
 1881年(明治14年)に経済的理由で大阪府に移管、「府立大阪商業講習所」として西区江戸堀南通に移転、授業再開。
 1885年(明治18年)、前年に「商業学校通則」が公布され、「府立大阪商業学校」が開設、「大阪商業講習所」の一切を継承。
 1888年(明治21年)本校規則を制定し、予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く。
 1889年(明治22年)に大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更
 1892年(明治25年)に学制改革を行い、北区堂島浜通2丁目に新校舎落成。
 1901年(明治34年)に「市立大阪高等商業学校」が開設、「この大阪高商に附設された3年制の甲種商業科が後の甲種商業学校に継承されることとなる」。
 1909年(明治42年)の「北の大火」で堂島校舎は全焼。
 1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転。
 1912年(明治45年)に甲種商業科を廃し、新たに「市立大阪甲種商業学校」を大阪高商内に開設。
 1919年(大正8年)に「大阪市立第一商業学校」と改称。
 1920年(大正10年)に「大阪市立天王寺商業学校」と改称。
 1948年(昭和23年)に「大阪市立天王寺商業高等学校」として発足。

 鳥井信治郎は1890年(明治23年)満11歳で進学していますから、1888年(明治21年)に「予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く」の「付属科」(後の甲種商業科)のことかもしれませんね。

 では鳥井信治郎が進学したこの商業学校の当時の所在地はどこだったのでしょうか。山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)に山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史が載っており、その71頁に鳥井信治郎の学歴がつぎのように紹介されています。

「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ。
   (中略)
 四年制の高等小学校にも二年しか在籍していない。北区梅田の大阪商業学校に進んだ。当時の学制は、まだアイマイなものであって、信治郎の成績がずば抜けていたためにこうなつたものかどうかという証拠はない。ただ、後年の信治郎から推察して、才気換発の腕白小僧ではあったろうと思われる。
 大阪商業学校は、年代から考えて、私塾から発展したものだろう。この学校に二年在学はしている。
 明治二十五年、十三歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公する。『丁稚一名を求む』という小西儀助商店の新聞広告が残っているから、欠員があり、その一名が信治郎であったに違いない。」

 また森杉久英『鳥井信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫、1983年)の13頁~15頁に付けられている「鳥井信治郎年譜」では、誕生年月日を「明治12年1月30日」とし、大阪商業学校入学年を「明治23年4月」とし、鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地を「北区梅田出入橋」と記しています。 
 
 しかし前掲の『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の天王寺商業高等学校前史(明治年間)によれば、大阪商業学校は1892年(明治25年)以前は西区江戸堀南通にあり、同年に北区堂島浜通2丁目の新校舎に移転しています。鳥井信治郎が同校に入学したのは明治23年(1890年)ですから、当時同校は西区江戸堀南通にあったようです。

大阪市立大学の同窓会有恒会の記念誌や天王寺商業高等学校の同窓会の記念誌に基づけば、鳥井信治郎が入学したのは大阪商業講習所をルーツとする市立大阪商業学校の付属科と思われます。ですから2015年4月8日以前に書かれたウイキペデアの「鳥井信治郎」に関する記事中の「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」の( )内の「現・大阪市立大学」は削除するか訂正する必要があるようです。それで、私が2015年4月8日にそのことに関連する事項を幾つか追加して訂正することにしました。

 しかし、ウイキペデアの2015年4月8日以前の「鳥井信治郎」に関する誤った記述「1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」がネット内にすでに拡散しており、「鳥井信治郎」に関連する様々なサイトで「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」とされています。さらに2014年11月に日本経済新聞出版社から発行された永井隆著『サントリー対キリン』にも鳥井信治郎の学歴として「大阪商業学校(現在の大阪市立大学)」としていました。単純多数決なら「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」が正しいとされてしまいそうですね。

 ものごとを調べるのにやはり確かな文献に基づく実証的検討が必要ですね。






最終更新日  2015年05月23日 17時01分18秒
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