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「もえてるぞ」
兄がそう言った。 深夜一時過ぎ。 パソコンなんかをぼんやり眺めながら、そろそろ寝ないと明日起きられなくなるな、なんて考えていた時。 窓の外が騒がしい。カンカン……と鐘が鳴っている。 すぐそこを、緊急車両が通っていった。 僕はルイスウェインの描いた奇妙な猫の絵を見ていたものだから、あまりそれが気にならなかった。 もはや猫とは言い難い、幾何学に四散するそれを見ながら、心をはらはらと揺らしていると、兄が部屋にやってきた。 「もえてるぞ」 ほんの一秒くらい、兄の言葉の意味を考えた。 ハッと我に返り、鐘の音とサイレンを思い出し、 「火事」 慌てて兄がいた部屋へと駆け込んだ。 窓の外、暗がりの向こうに赤とも灰色ともつかない煙が昇っている。 煙の端には発光するオレンジ色の細かな線が幾つも踊るように舞っている。 兄も僕も、そこらへんの上着を掴み飛び出した。 ほんの十秒ほど駆けると、すぐに辿り着いた。僕の家から一ブロック先の区画。 空が樺色に染まっている。 癇癪を起こした子供が塗ったみたいに、黒く沈む家にオレンジ色が滅茶苦茶に混ざり、家の様相を、深夜の住宅街を著しく壊している。 家は向こう二棟燃えていた。すぐ手前の家は無事だけれど、いつ燃え移るとも限らない。 消防隊員が大八車のようなものからホースを取り出し、現場へと駆けていく。 火災現場は坂道のそばで、坂上と坂下に一台ずつ、赤い色の車が止まっている。 「なんで二台だけなの」 坂の中腹にいた少女がヒステリックに声を上げた。 隣では、その子の母親らしき女性が慰めるように立っている。 僕はどうしてか、その少女の声が気に入らず、頑張ってるんだから仕方ないだろ、と思った。 火事に見舞われた人だとは思わなかった。 若者が自転車に乗ってやってきたり、ビデオカメラを回し出す人がいたり、携帯電話を熱心に動かす人がいた。 若い外国人の男女がこの辺りに住んでいるなんて知らなかった。 新しい家だからか、炎の中で外壁はしっかりと形を残している。 けれど、窓や天井の隙間から、這いだすように火が吹き出て、僕はルイスウェインの猫を思い出した。 手前の家のベランダに人影があった。小さなホースで火に水をかけている。 向こうの炎で浮かび上がった男性の姿は、燃え移らせてなるものか、という緊迫感では無く、 うちにもホースあるから手伝うかな、と言ったような、半ば脱力した背中に見えた。 本当は分からない。 浮き足立っているように感じられた消防隊員たちは、きびきびと駆け回り、火は勢いを失いつつあった。 ベランダの人影はいつの間にかいなくなっていた。 僕も兄もホッと一息。 取り敢えず、我が家とその周りは大丈夫だ。 帰ろうかと踵を返すと、歌声が聞こえてきて、僕は耳を疑った。 先ほどヒステリックな声を上げていた中学生くらいの女が、歌を歌っていたのだ。 たぶん流行りの歌だろう、あまり曲を知らない僕でも耳にしたことがある。 大声ではないが、鼻歌では決して無い、人に聴かせるつもりの、ある種の自信を持った声。 どうして歌っているのか? 歌っている自分はちょっとおかしくて、それが格好良いと思っているからだ。 腹が立ったので、近寄って手拍子をして、合いの手を入れてやろうかと思ったけれど、何もせず帰った。 帰り際、兄が 「火事場泥棒って本当にあるかもなあ」 と言った。 確かに、僕の家は鍵もかけずがら空きだった。 僕は 「そうだなあ」 と返した。 火は八時間で鎮火したらしい。 翌日、二人の方が亡くなった事を聞いた。 雨が思い出したように降り出して、木の焼けた臭いはそれでも二日間残った。 対岸にしないために、僕は何をすれば良いだろう。 取り敢えず、寝る前にちゃんてパソコンの電源を落とそう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年10月08日 01時59分05秒
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