体系的知識の重要性
吾輩、慈善事業で教養レベルの政治学を体系的に学べる講座を作っている。(大学の教科書を下敷きにしてるので”大体合ってる”程度には勉強になるはず)最近、この『体系的知識』の重要さを知る機会があった。それは、私の主張と相手の主張する所がほぼ一致しているにもかかわらず、攻撃的に論難されたという謎の事件。まあ、SNS上での話なので、SNSの限られた意思交換能力の問題と言えるかもしれないのだがこの原因は、相手方が、ある『色んな意味を含む用語』を、それが持つ様々な意味の一部”だけ”で理解したり、その語を含みその語から派生した別の意味の言葉を元の言葉の意味で理解してしまっている事にあった。例1:「音楽を味わう⇛音楽は食べられない!」例2:「”鼻を明かす”⇛鼻(嗅覚器官)を明らかにしてどうする?」これは専門の知識を持つ必要がない人ならよくあることで、普通は誤解されるような部分はつど説明すればいい話。問題は相手方がかなりの読書家で古典や専門的な書籍にも通じている人っぽい事。厄介なことに、この場合、一般的な説明をしても”自分の理解”の方が勝って説明をそのまま聞くことができない。『この音楽の味わいがうんたら~』という説明に『音楽が食べられるわけないだろいい加減にしろ!』となってしまうんである。この結果、高い知識があり、同じ言葉を使っているにもかかわらず、理解が決定的に食い違うという結果になってしまう。私は概論的な部分は多少分かっているつもりだが、細かい部分はすぐ忘れるので、例え学んだ部分でも微に入り細に入りとなると正直自身がない。なので指摘を受けると「昔読んだ奴は間違い・覚え違いだった?wikiでも同じ事が書いてあるけど?」と頻繁に不安になってしまう。今回は議論を通して勉強になる事も多くあったが、話が通じないのには参った。よく見ると相手側は私の主張と同じ事を別の言葉で主張しているのだが、語の用法や理解が彼独自の理論に基づいているようで、ひとつひとつの発言の意図や私の主張をどのように理解したかについて、いちいち深い考察を要するという大変疲れる状態に陥ってしまったんである。なんでこういう難解な感じになってしまったかといえば、相手側が膨大な読書から理論を構築しているのに対し、こちらは体系的な理論そのものを学んでいるという違いからきている。私も独自理論を展開するが、独自性のある理論であってもその前提や基盤には一般的な政治学の知識が存在している。そして、偉い学者の本などはこうした共通の一般的知識を前提として書かれている場合も多い。つまり、これを欠いてしまうと、書籍を正しく読めなかったりもするんである。そもそも今回問題にされた主張自体はwikiに書いてあるくらいたわいない話で、実は相手方も理解している話という、本来揉める要素が何も無い話だった。今回は結局のところ、専門的な話をする際に用語に対する理解が一致しないせいで意思疎通がとれず不要な徒労を生じてしまったという話。専門的な話をする時には、まず専門家が共通して使っている知識の基盤を体系的に学習したほうが知識の吸収にも知識の共有にも利便性が高いい。体系的に学ぶことはある意味、数十~数百冊の読書に勝るといえるだろう。