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2023/11/19(日)11:09

池田可軒 陸・為人 其ノ弐

池田可軒さん(17)

 池田可軒(長發)の為人(人となり)を文献から探ってみよう其ノ弐である。壮年時代の可軒さんは責任感が強くて真直ぐな熱い人だったように思うのだが、このような気質を一言で表すと何だろう?  鎖港談判使節の正使であった可軒さんと副使・河津伊豆守並びに目付・河田相模守の三使節が帰国後、幕府に提出した6千字超の建白書を読むと、国の未来を思う熱い思いに胸が打たれる。蟄居隠居を命じられなければ、可軒さんの意見に幕府や朝廷が耳を傾けてくれていれば、近代史に名を残す活躍をしたことだろう。  ありし世の 秋はさなから かくまでに かなしきものと しらで過しを(可軒)   一 本 気 「池田は狷急、悻直の士である。そして国に殉ずる赤心に富んでいる。この使命を奉ずるや既に死を決したるらしく、この談判が成功しなければ、引責して甘んじて自決しよう。よしんば日本使節の死が外国政府の耳を驚かすに足らずとするも、幕府の使者として死を以って事に従ったことが評判になれば、それによって朝意を動かすこともできよう。そうすることによって、臣下としての節操も全うできる、との見解をもっていたように思われる」(幕末外交談) 「池田はホテルの窓に日章旗を掲げた。池田は市中の遊歩にも陣笠を被り、大小をたばさみ、威風堂々としていた。好奇心の強いパリの人士は皆眼をみはった」(航海日録)  ――これも横浜鎖港談判使節団に随行した佐原盛純が記した「航海日録」より。使節団は洋装禁止だったらしい。 「ド=リュイスは会談を重ねるうち、この青年使節に次第に好感をもってきたらしい。愚直なまでにひたむきで純情な池田が、この残酷な使命を帯びて健闘したことを思いやりながら堅く握手した」(悲劇の大使) 「五、六月の二ヶ月にまがり、回を重ねること七回にわたる樽俎折衝は、年若く、外交の経験の皆無な池田筑後守を心身ともに疲労困憊させた。  双肩に荷った重責と、押しても突いても寸毫動くことのない壁にぶつかる苦悩は、この人をして夜も眠れぬ、辛い境遇に陥らせた。眼は血走って、顔面蒼白となり、食事をとらぬことさえしばしばで、時には白昼、あられもないことをつぶやくこともあって、従者を驚かし、急いで取り静めるのに汗をかく始末であった」(同) 「(使節団の突然の帰国に)若年寄 立花出雲守がみずから横浜に急行して池田に会い、上京をさし控えるように説得した。しかし池田は肯き入れなかった。  若い頭脳に、未知の世界情勢に目覚めたこの青年武士は、無知蒙昧の日本の現状を打破して、開国こそ国を救うものと一図に思い込み、使命感に燃え上がっていたからである。客気に逸る池田が馬を飛ばして東上するその途中、生麦村で竹本隼人正、栗本安芸守が待ち受けて、意を飜えさせようとしたが、これまた到底、阻止することは出来なかった。  だが、一応、登城を見合わせることには成功し、ひとまず、池田邸に落着き、ここでパリでの会議の顛末、直ちに差出すべき建白書などについて話しあった。この建白書には。各国との今後の外交方針、新聞の尊重、留学生派遣等きくべき意見もあって、他日これは検討さるべき卓抜な収穫であった。  因循姑息な幕府は、この当るべからざる意気の池田が、何をし出かすか、計りしれないので、時を移さず、その当夜、彼を免職処分に附し、千二百石の知行をその半ば、六百石に減じ、隠居、自宅謹慎の懲戒処分に附した」(同)  ――可軒さんの滾る思いが文章から伝わってくる。まさに「悲劇の大使」であった。また、この時の様子を河田副使の談話によると 「ところが正使の筑後守がだんだん焦れてきて、私共の留めるのも振り切って、ただ一騎、入ってはならぬと留められている江戸表へ乗り込みましたが、イヤこの時は騒ぎでした。  一体、池田筑後守という人は年若ではありましたが、英気もあり才気もある人で、ずい分立派な男でしたが、いかにも神経が強いので、帰りました頃から、よほど気が変になりまして、横浜に上がりました頃から、よほど心配の様子でしたが、とうとう横浜から一騎で飛ばして、江戸へ走り込んで行ったのです。あの剣幕では老中の前へ出て、どんなことをするか知れないからというので、河津と私で追いかけました。(略)そこで、ともかく附近の寺院へ入りまして、談判をしているうちに、池田の血相が変わってきて、私共のとめるのを振り切って、江戸へ入って行ったのです。よんどころなく私らもその跡を追いかけまして、ようやく池田の屋敷の近辺で引止めることができました。(略)その晩は寝させましたが、竹本がその様子を申し上げたものですから、翌日は叱られて、それきりになりました」(旧事諮問録)  ――英仏蘭米の武力行使計画を知り、急ぎ帰国して知らせようとした…という説もあるが、短気で一本気な可軒さんなのであった。まぁ元々無理な談判を20代の若さで任された可軒さんは、初めての異国の地で本当によく頑張ったと思う。そりゃあ気も変になっちゃうよ…。   風 流 人 「筑後守は、名は長発、可軒と号して、漢詩が上手で、字もうまかった。 “これだけ発明(利巧なこと)で器用な方は、見たことがない” と、古老だちが賞めちぎっとったから、よほど、才智すぐれた人物とせねばならない」(鶴遺老) 「さりとて、日常生活を全然詩酒風流に耽溺したのではなく、読書研學を専らとし、夙夜修養につとめたことは、自ら規定した自課によっても明らかである」(幕末外交使節池田筑後守) 「文雅のたしなみのある風流人であったことは、現在散見する幾つかの漢詩和歌などによって立證することができる」(池田可軒の舊藏書) 「教養の豊かな視野の廣い學者であったことが判る」(同) 「其の引退生活に拘はらず、常に『可軒様』とご尊稱されていたのは、備前藩主の支族であるという点もあろうが、一に高邁なる識見、高潔なる人格によったものであろう」(鶴遺老)  ――晩年を岡山で過ごした可軒さんは「世と相忘れた」(世を忘れ世に忘れられた)悠々自適の生活を送られたそうだが、遺された幾つかの漢詩や和歌は万感胸に迫るものがある。  「鶴遺老」にある近藤真琴・幕府海軍操錬所教授の評文を載せておく。原文は漢文らしい。 「余嘗て幕府の海軍校に入り航海術を教授す。偶々公に謁することを得て、その風采を欽ふ。公の鎖港の不可を論ずるが如きは侃々諤々当時幾人かあらん。然も世の屯難に遭ひ、動もすれば意の如くならず。然り而して吟咏自適、世と相忘る。所謂『英雄首を回らせば即ち神仙』とは公豈その人か」(岡山県後月郡誌)  ――『英雄回首即神仙』は宋代の黄天谷の『絶句』からで、英雄の資質を持った人は、ひとたび志を改めれば神仙になる、英雄といったとて角度を変えてみれば神仙である…というような意味なのだとか。  2回に亘って可軒さんの為人(人となり)を追ってみたが、可軒さんが使節団を率いて仏国へ旅立った文久3年(1863年)は、ちょうど新選組が結成された年だったりする。翌年7月に使節団一行は突如帰国するのだが、その頃といえばちょうど禁門の変が起っていた折だったので、そりゃ幕府も大慌てで対処するしかなかったのではなかろうか。幕府側にも斯様にエネルギッシュな若者がいたというのに才能を発揮出来ず、無念でならない。   参考文献 ・岸 加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年 ・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年 ・日本書誌学会 [編]『書誌学』11-13(日本書誌学会)昭和43年   岡田裕子『池田可軒の舊藏書(1-3)』  ・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年   高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』 ・岸 加四郎『池田筑後守長発とパリ』(岡山ユネスコ協会)昭和50年 ・岡 長平『ぼっこう横町――岡山 “聞いたり見たり” ――』(夕刊新聞社)昭和40年 ・大塚武松 [編]『遣外使節日記纂輯 第三』(日本史籍協会)昭和5年   岩松太郎『航海日記』 ・尾佐竹猛『幕末遣外使節物語――夷狄の国へ――』(岩波文庫)平成28年 ・榎本 秋『世界を見た幕臣たち』(洋泉社)平成29年

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