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2024/06/23(日)04:21

池田可軒 拾肆・横浜鎖港談判

池田可軒さん(17)

 前回、4月9日から談判が始まったと書いたものの、どうも正式な会談は5月7日から7回に亘って行われたらしい(9回説も有)。4月9日は忘れてください  外務省で行われた会談の出席者はというと、日本側は正使・池田筑後守(可軒さん)、副使・河津伊豆守、目付・河田相模守の三代表に外国奉行支配組頭・田辺太一に通訳官のブレッキマン(F. Blekman)。仏国側は外務大臣のド・リュイス(Édouard Drouyn de Lhuys)と書記官1名であった。  第1回:5月7日15時~17時。文久3年(1963年)9月2日に起った井土ヶ谷事件(攘夷派浪士によるフランス人士官殺傷事件)の被害者となったカミュ少尉(J. J. Henri Camus)に対する賠償、生糸輸出禁止に関する件など。対長州策についても仏国側から援助の話があった模様。  第2回:5月11日15時~17時。可軒さん「大君が庶政を司り、兵馬の権を握っているが、外国と違い政事を助言する天皇がいて、国政の可否を詔諭し、その下の大名に米国との条約締結に異議を唱える者がいて、これを抑制すれば内乱の恐れがある。幕府は万難を排して条約を締結したが、天皇はそれを嫌い、外国人を国外追放せよとの命令を将軍に下した。大君は二度も京都に行って天皇の意志を和らげようと努力したが、反対勢力は天皇側について生麦事件等、数々の事件を起こした。これを放置したなら、この上いかなる事態を生じないとも計り知れない。この際どうしても、一時横浜鎖港を行って攘夷主張の鋒先を逸らしたい、それが今回の遣欧使節の使命である」。しかしド・リュイスは鎖港には絶対に応じ難いことを断言し、1862年条約(※1)不履行の賠償として大阪、兵庫(神戸)の2港の開港を要求。  第3回:5月17日13時25分~14時15分。ド・リュイスは横浜鎖港絶対反対、横浜、大阪、兵庫(神戸)を自由港にすることを提議。可軒さん「その件は即答致しかねる」。 ド・リュイス「1858年の条約(※2)の履行が延びている以上、この違約に対して3港の自由港化を仏国は武力に訴えても履行させなければならない」 可軒さん「自由港にすれば政府の収入が皆無になる故、一時にそうすれば各国と貿易をしても利益がないから、これは承引できない。そこで関税の引下げを現に行っているのである」 話題は下関問題に移り、ド・リュイスは長州候が単独で行ったにせよ大君にも責任がある、と幕府に10万ドル、長州候に4万ドルの賠償金を要求。   会談が暗礁に乗り上げた形となり、可軒さんは打開策に腐心した。と、そこへひょっこりシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)が現れた。使節団の仏国来着を新聞で知り、汽車で駆けつけたのだった。親日・知日家で、ド・リュイスと別懇の間柄であるシーボルトは使節の苦境を聞いて大いに同情し、ド・リュイスと私的に会って日本のために種々と弁護の老を獲ってくれたうえ、可軒さんに種々の局面打開策を授けてくれた。可軒さんは鎖港の不成功を知りながらもシーボルトの意見を容れて次の会談に臨んだ。  第4回:5月28日14時~16時30分。カミュ少尉の賠償、仏国へ留学生を送る件等(シーボルトから授かった案)は両国の意見が一致するも、鎖港については前回と同じ。可軒さんが秘密会談を提案し、そこで下関問題について話し合われて前回の要求額の支払を承諾。 ド・リュイス「下関海峡に関しては、仏国政府は自国海軍をもって航路開行を確保する。大君にはこの難局を惹起した一大名に御自ら命令に服従させることを重要と見做されるならば、この挙に御援助を賜りたい」 可軒さんらはこのために約定を結び、これに調印し、賠償についても取極めを行うと答えた。  第5回:5月28日14時30分~16時15分。あれッ!? 前回と同じ日!? 出典元の書籍にそう書かれているので、そのまま書き写しておく。 日本側「日本の当面する騒然たる物情を沈静させるために大君はきわめて慎重な考慮をもって、横浜を一時的に閉鎖し、その代償として長崎、函館両港では既結条約の通り仏国に対して関税撤廃を行い、商館の移転費用は幕府で弁償する。その代わり横浜鎖港を認めてほしい」。 ド・リュイス「要求する三港の関税撤廃は過去に蒙った損害の補償であって、新しい租界と同価値のものではない。恐らく他国もこれには同意しまい」。 日本側はこの考えの正当であることを力説し、「この交換条件が受諾されなければ日本に起る騒乱を防げない。もしこれが容れられたら仏国の好意に対して、我等が信ずるが如く世論は容易に信認するだろう」と言い、確かにこの要求は条約違反であると陳謝しつつも、「敢えてこれを懇願しなければならないのは、ただただ仏国の懇情に縋る他はない、日本の危急存亡は一つにここにかかっているからである」と訴えた。しかしド・リュイスは日本側の懇情を斥けた。なおも日本側は鎖港について迫ったが、膠も無く拒絶された上、留学生を送ってくれば厚遇すること、日本の必要とする武器の譲渡と購入希望軍艦選定のためのリスト作成等を提言してきた。  可軒さんらが使命が達せられないで帰国することの切なさを訴えると、ド・リュイスは卿らの失敗は幕府の要求がそもそも不可能なことにあるのに、度々の会談で誠に全力を尽くした。長い外交官生活の間、幾多の老練な外交官が自国の利益を擁護するため巧妙な手腕を弄し、死力を尽くすのを見てきたが、若き大使・可軒さんが、それらと優るとも劣らない才幹、固執をもって主張をまげなかったと賞揚した。  第6回:6月10日13時30分~。可軒さん「横浜鎖港が成らない以上、他国を訪問することは無益と信ずるので、このたびの使節としての使命は終わったものとして帰国する決心をした」。パリに於ける交渉によって生じた「パリ約定」の各項目について、相互に逐条検討した。  第7回:6月20日14時~。「パリ約定」の日・仏・蘭語の条約文にそれぞれ調印。可軒さんはド・リュイスに明日パリを出発して帰国する旨を告げ、滞在中の好意を感謝し、別れの挨拶をした。ド・リュイスは会談を重ねるうち、この青年使節に次第に好感をもってきたらしい。愚直なまでにひたむきで純情な可軒さんが、この残酷な使命を帯びて健闘したことを思いやりながら堅く握手して談判は終了した。  うんうん、本当によく頑張ったよ可軒さん…  それにしても「いらすとや」さんにシーボルトのイラストまであることに驚いた。充実度が凄い。ちなみにシーボルトはこの時68歳、故郷のヴュルツブルクに隠棲していたが新聞で見てわざわざ掛け付けてくれたのだとか。  ※1、2に関しては、万が一、興味を持たれた方のためWikiさんにリンクを貼っておくので参考にしてくだされ。  ※1. 両都両港開市開港延期問題、パリ覚書(Link先はロンドン覚書)  ※2. 日米修好通商条約   参考文献 ・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年   高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』 ・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年 ・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年

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