不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

2005/07/06(水)10:48

源氏屋島合戦(十)

香川旅行記(195)

◇弁慶の活躍?の場です(笑)。 屋島合戦では、弁慶はどこにいたのだろう? 影の薄い存在になっています。 菜切地蔵があるお堂です。 小高い所にありました。 道を間違えて探しまくりましたけどね。 地蔵はお堂にあるのでのぞく事しかできません。 たぶん。 本物かどうかはわかりませんが、弁慶が使って地蔵の背中には包丁(大鉈)の跡が残っているそうです。 小高い所を下って少し行った所に、長刀泉があります。 道沿いにあるしげみがそうです。 看板や石碑や旗がないとまったくわからないと思います。 枯れている穴があるのがそうだと思います。 昔は弁慶が掘って泉になったそうです。 言われないとまったくわかりませんね。 その川沿いを少し行った所に、瓜生が丘があります。 でも行き止まりでした。 車ではきつい場所にありました。 この辺りに陣を張った所だそうです。 丘なのでこの辺り一帯がそうだと思うのですが、石碑があるのはどうしてここかはわかりませんね。 石碑は『宇龍ヶ岡』と掘っています。 なにもあるわけではないですね。 戦いで引き分けた事から、相引川(あいびきがわ)の名前がついているところがあります。 いつの時の引き分けかはわかりませんけどね。 屋島の登り口付近に看板がある程度です。 今はコンクリートの川です。 弁慶の投石がある所もあるそうです。 源氏ヶ峰にはわからなくなった義経腰掛岩があるそうです。 両方とも場所がわからず、確認はしていません。 ☆源平屋島合戦の状況☆ 二日目の戦いは、日暮れとともに軍を引いて瓜生が丘(うりゅうがおか)に陣を張りました。 兵士は疲労をしているのを見て、弁慶が進んで食事の仕度を始めました。 豪快な弁慶は、弁慶さま自慢の長刀でとんとんと地面をたたいて、井戸を掘り出したのです。 しばらくすると、清水がこんこんと湧き出てきました。 これを「長刀泉(なぎなたいずみ)」と呼ぶようになりました。 続いては、なんと石のお地蔵様をうつぶせに倒し、その背中で菜っ葉を切り、武者汁を作ったのです。 このお地蔵様は、後に「菜切地蔵(なきりじぞう)」と呼ばれるようになったと伝え聞いております。 源氏軍は、この三日間の間は一睡もしておりませんでした。 腹ごしらえがすむと、みな眠気におそわれます。 ある者は、甲をまくらにし、鎧の袖やえびらなどを枕にして、夢も見ないほどぐっすりと眠りこけました。 私も、頭はまだ興奮の中にいるようでしたが、身体はすっかりと疲れきっていて、いつのまにか深い眠りに引き込まれていました。 義経さまは高い場所に上がって、敵を見張っていました。 この山上は、後に「源氏が峰」と呼ばれるようになったそうです。 義経は平家の夜襲に警戒して、付近の農夫に松明を持たせかわるがわるに歩かせました。 源氏に援軍が来たかのように思わせるためでした。 一方、平家の方では、能登守を大将にして、その軍五百騎が、夜討ちをしようと仕度を整えておりました。 軍儀では、松明を見たものは援軍が来たと言う者もおり、夜襲は卑怯な手口だと言う者もおり、話がまとまりませんでした。 その中で、越中次郎兵衛盛次と海老次郎守方(えみじろうもりかた)とが先陣を争っているうちに夜が明けてしまったそうです。 もし、この時に平家が夜討ちを行っていたとしたら、屋島にいる源氏軍は壊滅的な打撃を受けたでしょう。 義経には、戦の神が味方をしていたのかもしれません。  (いろいろ資料を基にしています) 後、数回だと思います(笑)。

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