不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

2006/03/14(火)22:10

山陰小旅行記(三)米子城址

日本旅行記(1267)

◇総泉寺、感應寺から歩いていくと、深浦神社があります。 そこから深浦橋を渡り、米子城跡の登り口に着きました。 米子城跡の登り口は何ヶ所かあるみたいですが、旅行者はたいてい目に付いた登り口から上がるでしょうね。 目に付いた登り口から、登りました。 車両が通れる広さの道から登り始めてのですが、だいぶ遠回りになりました。 後で他の所から下りますが、以外と坂が急でしたね。 こちらから登ってよかったのかも知れませんね。 本丸跡にまで登りました。 頂上?は広いスペースがありました。 大山が雪をかぶって見えています。 この旅行では、ここまでついていなかったですが、ここからの大山の景色は綺麗でホッとしましたね。 米子城跡の天守跡ですが、見晴らしだけなら、なかなか良いと思う城跡でした。 海の方は、もう少し見晴らしがよければよかったんですけどね。 石垣も駅方面への道などは、当時の面影を残していると思われます。 その方面は少し濡れていて急な道でしたので、一度転びかけました(笑)。 米子城跡(吉川氏、中村氏、池田氏) 1601年(慶長6年)、このときわずか12歳の中村一忠は、父・一氏が関ヶ原の合戦で功績をあげたことにより、伯耆国の城主として十八万石を与えられました。 すでに天正19年(1591年)には、吉川広家によって四重の天守が造られていましたが、一忠はさらに五重の大天守を建立。 名実ともに山陰一の名城となります。こうして、米子城を中心とする新しい地域が繁栄するようになりました。 しかし時を経た明治の初め、米子城はわずかな金銭で売却され、取り壊されるという運命をたどります。 城跡は現在、市民の憩う公園となり、米子市街や中海を眼下に従えて、島根半島や大山までもが眺められる天守閣跡は絶好の展望地となっています。 志し半ばで20歳の生涯を終えた若き城主は、山陰随一とうたわれた我が名城の、石垣だけを残す姿を知るよしもありません。 山陰小旅行は、まだ続きます。 実際はもう少し大山が綺麗に見えていました。

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