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不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

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2007/05/05
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カテゴリ:日本旅行記
中津城跡には早朝の為、入城はできませんでした。
入城時間まで待つよりも他の所へ移動するほうを選びました。
ですが天守に入れないだけで、神社や公園になっていますので歩き回れます。
大分2中津33

中津神社
江戸時代の参勤交代や江戸藩邸安住など諸緩和令により、中津藩の江戸藩邸より帰郷する諸姫君を住まわせる為に、1863年8月に、本丸下ノ段西側のこの地に神殿「松の御殿」を建築した。
廃藩置県で小倉県に引き渡され、続いて大分県の中津支庁舎として使用される。
1877年3月の西南の役に参戦する「中津隊」の襲撃にあい灰燼に帰す。
その跡地に中津神社が1883年3月に建立された。


三斎池
関原ノ合戦後、細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二郡の領主として入部した。
1620年に家督を忠利に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。
翌年から三斎は中津城に移り、城下町の整備を黒田氏の後を引きついで行った。
その時の工事により、その水をたたえたこの池であり忠興の号「三斎」の名を冠して「三斎池」という。

大分2中津31城

中津大神宮
明治14年9月伊勢の神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座した。

日露戦争の記念に砲弾が飾られています。

城井神社
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代およそ400年の間豊前国守として徳政を布いた。
1587年5月豊臣秀吉は九州平定にあたり宇都宮家に移封の御証判を与えた。
鎮房は累代の墳墓の地で安堵を願い、この御朱印状を返上した為、宇都宮一族は黒田孝高・長政と豊前の地で死闘を繰り返す事となり、黒岩山合戦(峯合戦)では黒田長政を敗退させた。
豊臣秀吉は黒田孝高と謀り所領安堵を条件に長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
1588年4月20日に鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
黒田長政は深く感ずる処があって城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀った。


扇城神社
1588年宇都宮鎮房公従臣は合元寺に止め置かれていた時に、鎮房は中津城内での館で謀殺された。
異変を知った家臣達は次々に城中に駆け入り、竜が荒れるように戦った。
ことごとく討ち死にし、各地に祀られたり埋葬された。
1920年4月20日に鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。


看板の説明も時代ごとに話があって、わかりやすかったですね。
これほど一つの地に話があるのも珍しいと思いますね。
この城は扇城と言われてたみたいですが、上から見ないとまったくわからないですね。
もう少し、わかりやすいかと思っていましたが・・・。
大分2中津34

「黒田本丸の石垣と細川時代の石垣」という看板もありました。
石垣の色の違いでわかるというものでした。
石垣だけが当時の面影を残していますね。
大分2中津35

中津城は天守が建てられることなく終わった。
現在の天守は模擬天守のコンクリート製の五階五層の大天守と二層の小天守である。

鉄筋コンクリートなので登らなくてもいいですね。
時間があれば登りたかったですけどね。
大分2中津32



大分旅行2は、まだ続きますスマイル





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Last updated  2007/05/05 10:19:00 AM
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