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不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

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2010/12/23
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カテゴリ:日本旅行記
◇「城安寺」の前の小高い所にある松平直諒の墓に訪れました。
松平直諒(なおあき)は広瀬藩松平家の八代目である直寛の嫡男である。
直寛が1850年に死去した為に、家督を継ぎ九代藩主となった。
直諒は入国すると、製紙業や製油業などを奨励して経済・産業の振興に取り組んだ。
しかし、1861年6月15日に病に倒れ、同年7月19日、広瀬藩邸にて没したため、城安寺墓地に埋葬された。

寺からも見えていたので、迷うことなくいけました。
なんで1人だけ、ここにあるのだろうか?
広瀬藩松平家の菩提寺では無いって事かな?
島根安来d5松平家の墓

「新宮党館跡・太夫神社」
新宮党は、尼子氏の強力な一門であったが、毛利氏に謀られた冨田城主・晴久によって、1554年に滅ぼされた。
尼子経久の二男・国久、その子・誠久、豊久、敬久の墓とともに太夫神社の祠がある。

道路から150mの広場がそうらしいです。
太夫神社は新宮党一族を祀った神社だそうです。

「毛利元秋の墓」
宗松寺跡の奥、竹薮の中にあるのが毛利元秋の墓です。
元秋は毛利元就の五男で、1573~1591年頃、天野隆重に推されて富田城主になったが、1585年に富田城内で病死した。

道路から120mの山の中がそうらしいです。

「尼子氏奥都城」
尼子一族の墓所とされている所。
尼子一門で、新宮党の末裔にあたる久富二六氏が先祖の地新宮谷を訪れ、尼子時代の尼子の夢をこの碑に託し、1941年に此の地に建立した。

道路から100mの所がそうです。
ここは入口が狭いが、広場という名の駐車所はありました。
碑だけですね。

「塩治掃部介の墓(荒法師)」
塩治部介は尼子経久が京極氏から追放を受けた後、富田城の目代として入城したが、文明18年元旦、尼子経久の奇襲を受け、富田城内で討たれた。
俗に荒法師と呼ばれ、昔から此の墓をみだりに荒らすと必ず祟りがあるといわれている。

道沿いにありますが、草が生えていました。

「堀尾忠氏墓」も道から150mらしいです。
広瀬町史蹟ガイドマップには載ってなかったので訪れていません。

「山中鹿介幸盛生誕の地」
鹿介の生誕の地については異説があるが山中家は尼子家の分かれであることから古文書、系図等の調査によって此処が生誕地と定められている。
鹿介は1545年8月15日、父・満幸、母・なみ(立原佐渡守鋼重の娘)の次男として生まれた。

道から150mの山の麓にあります。
案内看板はあり場所はわかりましたが、説明看板は無かったです。
島根安来e1鹿介生家跡

「尼子晴久の墓」
晴久は経久の孫にあたり、父・政久が戦死した後、経久から家督を相続した。
しかし毛利軍が富田城に肉薄しようとした1560年に急死した。

天守跡の山の麓にありますが、車なら反対側から回れば近くまでいけました。
駐車場は数台停めれます。
そこから段差を上がれば、ありました。

「尼子興久の墓」
経久の三男。
禄高の不足を父・経久に訴え、これを聞き入れなかったことから父に背いた為、やがて父の手によって追放された。
1534年に妻の実家にあたる備後甲山城主・山内大和守直通方に身を寄せ、そこで切腹した。

「安来市立歴史資料館」の駐車場の山沿いに墓があります。
看板もあります。


島根安来旅行で訪れた所!


島根安来旅行は、まだ続きますスマイル





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Last updated  2010/12/23 07:00:10 PM
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