母としての思い私には5人の子どもがいます。上の3人は20代で出産、下の2人は38歳、42歳と高齢出産でした。唯一真ん中が息子で後の4人は女の子です。 5人目四女が知的に遅れのある子です。あえて障害と書きません。何の害もないからです。生後1ヶ月肺炎から酸欠状態「低酸素脳症」四女の病名です。思い出すのも辛い14年前の2月3日節分の日でした。あの日もうダメだと一度はあきらめかけた命でした。どんな状態であれ、おかげさまで私たち家族の元へ神様は返して下さいました。 「脳に障害が残ります。」と医師から言われた時40歳を過ぎてる私は「これからどうしてこの子を育てていけばいいのだろう」と人生が終わっかの様な何も目に入らない、退院してから泣いて過ごした4ヶ月でした。 前記に「妹への思い」と題して書いている三女が、「お母さん!何で泣いているの?Hちゃん帰ってきたら泣かんて言ったじゃない」と当時3歳半の三女はいつも私の顔を覗きこんでは、いじらしいくらい私のそばを離れ様とはしませんでした。 あれから14年。四女は養護学校中等部の3年生になりました。背丈も私より高くなりました。家族の顔が、母である私の顔がわかるのだろうか?歩けるのか?言葉は? 無表情のままじいっと寝ている妹に向かって,あわただしい朝のひととき「Hちゃん!いつまでも寝てたらおいていくよ。早う起きて歩かんと」と。 それぞれに声をかけ「行って来るね」と出かける姉たち。当時高校生、中学生の上の子供達は、思い思いに流行りの音楽を聴かせるともなくジャンジャンかけてる。刺激も兄姉が多い分しっかりあったと思います。 1歳10ヶ月で歩きだしました。後ろにいた四女がトントンと足音をたてて私の身体に触れたときのこと今でも鮮明に覚えています。 「かあかあ!」と私を呼んだ時も。そして今ではおしゃれにも、四女なりに関心を持ち、お気に入りの服は洗濯機に入れたがらず、明日も着るのだと言い張ります。嬉しい成長です。 頻繁に続いた痙攣発作も、ここ数年は小康状態です。発作の度に母は恐怖との戦いでした。本人はもっと苦しいはずです。高速道路を走行中におきた発作!その夜は下関の病院に入院。 助手席の窓ガラスに顔を押しつけ、泣きながら不安そうに私と四女の乗った救急車を見つめていた三女の顔が忘れられません。三女のためにも発作がおこらない様にと何度祈ったことでしょう。 誰かの手を借りないと生きていけない子ども達。連れて逝くことも、おいて逝くことも出来ない、そんな子どもの親としての活動が作業所を作ることでした。そして将来、兄、姉、妹、弟に負担のかからない生活をさせてやるためには、グループホームを建て仲間とゆっくり過ごさせたいと思ってるのですが・・・。夢を描き目標を持って母の活動はまだまだ続きます・・・。 |