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鈴木康央の「いのち文化研究所」 赤心庵2 

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いのち文化研究所

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2007.02.06
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林芙美子は尾道で生まれたのではない。
しかし尾道で、作家「林芙美子」は生まれようとしていた。

尾道林扶美子2.jpg

パリのカフェで雑誌を読む芙美子

尾道林扶美子9.jpg


芙美子は、尾道で多感な少女時代をすごした。作家になろうと決めたのも尾道であった。
芙美子の波乱の人生の中で、もっともやすらぎと落ち着きに満ちた数年であったろうと推測される。

15歳の時、芙美子は尾道市立高等女学校へ入学した。
才能を発揮したのは作詩である。
空想力が自由に跳ね、生き生きした文章が駆け出したとされる。

商業高校に通う岡野軍一と出会ったのも、そのころだ。
2人は語り合って時を過ごす。
でもそれは淡いときめきだった。



芙美子が少女時代をすごした家がある。
本来はこの場所にあったのではないが、家ごと移転し今は喫茶店の中奥深くにある。


尾道商店街を入って右側にそれはあった。
もちろん私は事前に知っていたわけではない。
ふらりと歩いていて見つけたのだ。

客は「芙美子コーヒー」を一口飲んではその家に入り、幼き芙美子が座って原稿を書いたであろう古びた畳を手でなでるのだ。
そしてまたコーヒーを一口のみに喫茶室に戻ってくる。


尾道林扶美子3.jpg

尾道林扶美子4.jpg


尾道林扶美子6.jpg

1階が4畳半と台所、トイレ。2階が4畳半の小さな家だ。
今は台所とトイレはふさがれている。

裸電球がなつかしい・・・。

もっとも、芙美子の時代はこれが電球ではなくランプであったはずだ。
その下で芙美子は、胸を躍らせながら恋愛少女小説を書いていたのかもしれない。
あるいはろうそくのゆらめく炎の下で、恥じらい燃える乙女心を筆で書きしたためていたのかもしれない。


尾道林扶美子5.jpg

しまっていれば、あけようとするのが人情だ。だれもがこの障子を引こうとする。私も張り紙に気づかず、ぐっと手をかけた。


尾道林扶美子7.jpg

尾道林扶美子1.jpg


芙美子はいろいろな面を見せた作家である。
あるときは詩人、あるときは料理家・・・そんなスナップが飾ってあった。


尾道林扶美子8まんじゅう.jpg


もちろん「芙美子まんじゅう」もあった・・・

林芙美子銅像.jpg

商店街入口の記念銅像



「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」。
だからか、芙美子は「放浪の女流作家」とよばれる。

多感な少女時代を過ごした尾道はやはり格別な場所であったと思われる。



「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」


夜の10時ごろから執筆を始め、深夜の4時に就寝する。
朝は7時に起床して、また机へ向かう。
濃いコーヒーとタバコを愛する生活は、芙美子の健康に暗い影を落とした。
肺炎で一度入院したが、仕事は一向に減らない。
動悸が激しくなり、持病の心臓弁膜症で少しの運動にも耐えられなくなっていく。

「私はあと幾年も生きてはいられないような気がしている。
心臓が悪いので、酒も煙草もとめられているのだけれども、煙草は日に4、50本も吸う」
(「椰子の実」より)

いくつも連載中のまま、林芙美子は短い生涯を閉じた。
死因は心臓麻痺だった。


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林芙美子うずしお小路の舞台尾道.jpg


芙美子が暮らしていた「うずしお小路」。短編小説の処女作『風琴と魚の町』の舞台でもある。
(尾道市・・・広島県の資料から抜粋)


林芙美子文学記念室書斎レプリカ.jpg


文学記念室」にある芙美子の書斎のレプリカ。遺品やゆかりの品が展示されている。(同)


林芙美子『放浪忌」.jpg


毎年6月29日の命日に、JR尾道駅近くにある林芙美子像前で「放浪忌」が開かれる。(同)


林芙美子文学のこみち文学碑.jpg


「文学のこみち」にある『放浪記』の文学碑。碑を書いたのは、小学校時代の恩師であり芙美子というペンネームの名付け親である小林正雄。(同)



(以下資料・・・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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林芙美子(はやし ふみこ、本名林フミコ、1903年12月31日 - 1951年6月28日)

山口県下関市生まれ(自称)の小説家。
晩年は映画化されるなど女流作家として確固たる地位を築いたが、作風は自らの貧困に苦しんだ生い立ち、流浪の経験などを基にした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴である。
「花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりき」という彼女の言葉は広く知られている。

<人物>

出生地については山口県下関市生まれ説(自称)と、井上貞邦(北九州市門司区の外科医、故人)が唱えた現在の福岡県北九州市門司区小森江生まれ説の二説あるが、除籍謄本の発見により小森江生まれ説の正当性が裏付けられている。
本籍地は母の故郷である鹿児島県の古里温泉。
行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に非嫡出子(婚外子)として生まれた。麻太郎とキクの離別後、母キクとキクの結婚相手である沢井喜三郎(養父)とともに九州各地を行商で転々とし、貧困の日々を過ごした。

多感な青春期を過ごした広島県尾道では少女時代から文才を発揮し、恩師の進めもあって尾道市立高等女学校(現広島県立尾道東高校)に進学し、文筆の道を志す。

卒業後は岡野軍一を頼って上京。
職を転々としながら友谷静栄と共に詩誌『二人』を創刊した。
俳優の田辺若男や詩人の野村吉哉と同棲したり、詩人岡本潤、壺井繁治らとの交友があった。
1926年に画家の手塚緑敏と結婚する。
1928年から雑誌『女人芸術』に19歳から23歳頃までの多感な放浪の日々を書き綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年に単行本として出版され当時のベストセラーとなった。
『続放浪記』『放浪記―第三部』も出版されている。
戦時中は報道班員(従軍作家)となり、中国やフランス領インドシナに従軍した。戦後も多くの小説・随筆を発表し、「晩菊」で女流文学者賞を受賞した。
1951年に『朝日新聞』に『めし』を連載中に、心臓麻痺のため急逝した。
2005年10月現在、東京都新宿区にある当時の住居(山口文象設計)は「林芙美子記念館」として公開されている。

<主な作品>

;『放浪記』 1930年(昭和5年)映画化された。
;詩集『蒼馬を見たり』 1930年
;『風琴と魚の町』 1931年(昭和6年)
;『清貧の書』 1931年
;『泣蟲小僧』 1934年(昭和9年)
;『牡蠣』 1935年(昭和10年)
;『稲妻』 1936年(昭和11年)映画化された
;『うず潮』 1947年(昭和22年) NHK朝の連続テレビ小説でテレビドラマ化(1964年4月6日-1965年4月3日)
;『晩菊』 1948年(昭和23年) 映画化された
;『浮雲』1949年(昭和24年) 雑誌『風雪』『文学界』に連載された。1955年に映画化された。
;『茶色の眼』 1949年
;『めし』 1951年(昭和26年)絶筆

<関連項目>

;森光子(『放浪記』で林芙美子役を演じて人気を得た)

<外部リンク>

;北九州市 - 大里地区の観光スポット (出生地に関する記述あり)
;林芙美子記念館を管理運営する新宿区生涯学習財団のHP
;林 芙美子:作家別作品リスト (青空文庫)
;林芙美子(名句名言のウラ側)


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<きょうの「やすを」>


この世に
たしかに自分は
存在していた、という
証を
芙美子は
感じていたんだろうな

ああ、わたしも
それが一番
ほしいんだよ











Last updated  2007.02.06 00:09:39
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