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2005/07/08(金)23:09

出家得度と在家得度

仏教(勤行・思想・講座)(43)

前回は出家についてでしたが、今回は在家が主の修験について。 タイトルにある得度とは、仏さんとの契約であると僕は思っています。 得度と共に、修行者として守るべき「戒律」を授かるので、「得度受戒」ともいいます。 現在では「得度するには師匠が必要だから」師弟関係になるという「自分で得度するタイミングを見計らう」のが主流ですが、戒律を授けてくださったり、仏さんとの契約の仲介人をしてくださるのが自分のお師匠さまですから、まずはお寺に通って親しくなり、人間的に信頼できる僧侶と師弟関係になって、その信頼できる師匠に得度するのに十分と判断して頂いてから授かるのが本来です。 師匠は得度のときの仏さんの世界との仲介人でもあり、その後の修行の手ほどきや相談事があったりしたときの相談役の役割をするのも師匠ですから、「三年かかって師匠を選べ」という中国拳法の言葉にも頷けます。 では、修験の「在家得度」について。 在家得度を解釈すると、「家に在って、仏との契約を結ぶ」となると思います(僕の解釈です)。 出家とは字のごとく家を出ることであり、人間では計り知れない仏さんの世界と契約を結ぶわけですから、「家=体」と考えてみると「死」を意味します。 しかし在家では家庭があり、出家してしまうと家族が取り残されてしまうので、在家でありながら得度しているという状態を「在家得度」といいます。 修験では山修行に入るとき、「死んだ」と観念(イメージ)するそうです。 ですから、今でも高僧の葬儀のときに行う「四門くぐり(※)」という儀式をそのままうつした修行があったそうで、今でも残っている吉野山の「発心門」のほかに大峯山脈には三つの門があったそうです。 発心門(銅の鳥居)では門柱(鳥居の柱)に手をかけけ唱える詠に「・・・弥陀の浄土に入るぞうれしき」とありますから、「弥陀の浄土=死後の仏の世界」をイメージさせます。 こうして、山修行に入るときに死んで娑婆(通常の世界)に戻れば普通の生活をするのですから、「仏の世界と娑婆を行き来する」として篤く信仰されました。 山形の羽黒山の修験では、最初に「笈(おい)からがき」という「葬式」を模した宴を開いて魂を「笈」という箱におさめ、またその箱が母の胎内であるという儀式をするそうです。また、修行が一通り終わると火(産湯の表現)の上を飛んで修了するそうですから、修験は「死と再生の宗教」とも呼ばれています。 しかし、山修行から娑婆へ帰ってきたからと言って普通の生活に戻るわけではなくて、行者は普段の生活をしつつ「里の行」を修行しなければなりません。 ここから俗に言う「拝み屋さん」が発展していったと考えられます。 そこが難しいところで、ほぼ出家得度である行者さんや、在家得度である行者さんや、在家得度でも出家得度の行者さんと同じ修行(加行:けぎょう、護摩など特別な修法を研修すること)をしている人など様々です。 いろいろ説明しながら自分でも、「出家得度と在家得度の違いなんて、たいして無いなぁ・・・」と思いながら書いてますが、それは現在の「副職」としての出家得度に問題があると思います。 それはなぜか、「僧侶」という立場が金稼ぎのための「職業」になりつつあるとおもうからです。 昔はどうだったかは僕にはわかりませんが、少なくとも「金・金・金」と目を輝かせた坊さんもいるかもしれません。そりゃぁ、人間ですからね。 そういう中でも、弘法大師や行基菩薩さんや蓮如さん、日蓮さんのような庶民の味方のお坊さん、修験道の行者や六部といわれる行者たち、巡礼修行者たちが世間に出て、世間を知っている行者たちが宗教面だけでなく相談に乗ったりして、自分が最低限度に生活できるだけの施しを受ける程度で、職業意識などまったく無かったと思います。 ここまで長く書いて自分の中でも何を言いたかったのかわからないような内容になってしまいましたが、僕のなりたい「行者」とはいかなる心構えでなるものなのか。この日記を書かせていただくことで改めて深く考えることができました。 また、僕と同じ志を持ってみえる方々や、理解していただける方、仲良くしていただいている行者さんに見て頂いたり、ご意見を頂くことで自分の考えを深めることができたり、過ちを正すことができます。 これからも宜しくお願いします。

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