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「型を学ぶこと」という題で、
館長が書いた手紙を紹介します。 柔の一本目は、投げることが、どういうことなのかを学ぶためのものです。 両腕をクロスさせて両手首だけとった形(注:鉄山の本参照)では、 いくら逆手になっていても人を倒すことは、まず不可能でしょう。 特に「痛い」ということはあっても「腰」をとるような倒れ方をすることはできません。 型を格闘技的に捉えて、自分の我を通せば古人のありがたい教えも無駄というものです。 昔から武術は「型に始まり、型に終わる」といわれていますが、今や死語になってしまいました。形の手順通りなぞり、“腕力、脚力”を“より強く、より速く”使って多少のコツで相手を倒した気になるのは簡単ですが、何十年と練習されている方でもやっぱし強い力が必要だと実感されるのではないでしょうか。“相手を倒すには力が要るのは当然だ。何が悪い。”では困ります。ダメな動きを察知して修正していかなければなりません。技は決して繰り返しの中にはないことを早く知るべきです。 格闘性を優先させては、型を学ぶ意味がまったくなくなってしまいます。それは答えの出ないところで一生懸命に答えを探しているようなものです。型は実戦の雛型ではないのです。 古きを稽えるのが稽古というものです。やみくもに身体を動かしてみても、人畜無害な単なる運動にもなり得ません。(筋トレのほうがマシ) 実戦経験のない人でさえ、使えるかどうか容易に判断がつくはずです。これが解らない人になら武術には不適と思いますし、毎日の筋肉トレーニングを怠るずいぶんおめでたい幸せな人でしょう。 勝敗を超越した「型」だからこそできない箇所を丹念に稽古することができるのです。どうして「型」なのに、もろに力で相手に勝とうとしたり、「型」から外れた受けを取りがんばるのでしょうか。そんなことをしていれば、いつまで経っても型は何も教えてくれません。 入門時に習ったように、もっと素直に「型」をやればよいのです。そこには、自分と相手がお互いを高めあう稽古体系が根底になければなりません。稽古相手も強そうな人はいけません。弱そうな感度の良い人を選ぶのがいいでしょう。 「型」を学ぶことは、とりもなおさず今の自分を捨ていったん弱くなることです。弱くなることでこの上なく愛しい自分を見つめなおし、古伝(先達)の教えを素直な心で受け入れることではないでしょうか。 柔はやわらかくするものだからそのように呼ばれているのです。志は高くもちたいものです。 追伸:わからないひとにとっては、何か精神論か抽象的に思えるかもしれません。解る人には解るはずです。 以上で、引用を終わります。 館長のおっしゃるとおり型をできるようになって起こしてのお話です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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