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天の王朝

天の王朝

カストロが愛した女スパイ3

▼カストロ暗殺計画4
 ロレンツの回想は続いた。ロレンツは、ハバナ・ヒルトン二十四階にあるカストロのスイート・ルームに忍び込んだ。忍び込んだといっても、カギはカストロからもらってずっと持っていたので簡単に入ることができた。部屋はカストロと過ごした以前のままだった。

バスルームに入り、クリームからカプセルを一つ取り出した。心臓は高鳴り、カプセルを持つ手が震えていた。カプセルに付いたクリームを拭おうとした瞬間、カプセルは手からすべってビデの中へ落ち、ピシャッと音を立てた。波紋が頭の中に広がった。「もう御免だわ」とロレンツは心の中で叫びながら、残ったもう一つのカプセルをクリームから取り出しビデの中に投げ捨てた。

 ロレンツがバスルームを出て、部屋の中を歩き回っているちょうどそのとき、カストロが部屋に入ってきた。カストロはわずかに驚いた様子だったが、すぐにロレンツを抱きしめた。その晩の演説のために少し休まなければならないとロレンツに告げた。

 ロレンツは疲れ切った様子のカストロに言った。「赤ん坊はどうなったの?」
 カストロはその質問には答えず、ロレンツがカストロのために戻ったのか、それともカストロを殺しに来たのかたずねた。ロレンツはその両方だと答えた。

カストロはロレンツの拉致事件に関しては自分が関与していなかったことや赤ん坊を取り出した医者が処刑されたことをロレンツに話したが、赤ん坊については「キューバ父親のもとで生まれた子はキューバに帰属する」としか言おうとしなかった。ロレンツは「私は母親よ」と言い返した。

カストロはそれ以上踏み込まず、「疲れた」と言ってベッドに横になった。そして目をつぶったままロレンツに「やつらが私を殺しにお前を寄こしたのか」と聞いた。ロレンツは一瞬氷ついた。カストロに見透かされていたのだ。「どうしよう」と狼狽しかけたが、同時にカストロが落ち着いた様子だったので、すぐに平静になり、「そうよ、私はあなたを殺しにきたのよ」としっかりと答えた。

 驚いたことに、カストロはそれを聞くと、スタンドに掛けてあったガンベルトに手を伸ばした。革命運動の間中肌身離さず携行していた銃を取り出し、ロレンツに「さあ」と言ってそれを手渡したのだ。その銃で殺してみろと言わんばかりだった。ロレンツは銃を受け取り、リリース・ボタンを押して、四五口径のクリップをはずした。目をつぶって横になっていたカストロは、その音で一瞬ビクッとなったが、身を守ったり逃げよとしたりせず、目も閉じたままだった。

「錆びてるわ」とロレンツは言った。「油をささないと」

カストロは静かに、確信に満ちた声で言った。「だれもできないんだよ、マリタ。誰も私を殺すとはできない」

 「赤ん坊のためだったらあなたを殺せるわ」――。ロレンツはそう答えながらカストロに飲み物を手渡した。本当だったら毒の入った飲み物のはずだった。カストロはそれを無条件に飲み干した。二人はそのままベッドで横になった。やがて抱きしめ合い、数分後には裸になって愛し合っていた。

 カストロを殺そうなどという考えは、二度とロレンツの頭をよぎることはなかった。

(前回までのあらすじ)
赤ん坊を無理やりに出産させられ、心身ともに傷を負ったロレンツは、キューバを離れ、ニューヨークで治療に専念していた。そこへCIAの工作部隊が近づき、赤ん坊はカストロに殺され、ロレンツも二度と子供を産めない体になったのだとウソを吹き込み、反カストロ工作にロレンツを利用しようとする。ロレンツは半ば洗脳され、次第にカストロを憎むように仕向けられる。マイアミで殺しのテクニックを学び、カストロ暗殺の刺客として、ハバナにあるヒルトンホテルのカストロの部屋に侵入した。だが、カストロと再会したロレンツには、カストロを殺すことはできなかった。

▼カストロ暗殺計画5
 「どれだけそこに滞在したんですか?ほんの一泊だけ、それで次の日帰ったんですか?」――。トリプレットの質問が再びロレンツを現実に引き戻した。
 「私はフィデルと五時間ほど会いました。私は何も言いませんでした。そして次の朝、帰ったのです」。ロレンツはこう答えるのが一番いいと感じた。

 「その滞在で、書類は盗んだのですか?」
 「いいえ」

 「議長。私はこの件の質問についてはもう打ち切りたいと思いますが、ほかの委員に質問があれば、どうぞ聞くように言って下さい」
 「この際、何か聞きたいことがありますか、ドッドさん?」と議長は委員の一人であるドッドに聞いた。
 ドッドは「いいえ」と短く答えた。
 「質問を続けて下さい」と議長はトリプレットに促した。

 「分かりました。あなたが今述べた滞在の後、再びキューバに戻ることはありましたか?」
 「フィデルは私に残って欲しかったのです。だけど私は“できない、帰らなければならない”と言いました。何故ならフランク(・スタージス)は私に、ある一定の時間内に戻らなければ、フランクが私を探しに来て、私を取り戻すと話していたからです」

「あなたはフィデル・カストロに、フランクがあなたを取り戻しに来るだろうと言ったのですか?」
 「いいえ。私はどちら側も傷つけたくなかった」

二人が愛し合った後、カストロは演説の準備のために外出しなければならなかった。ロレンツはカストロが部屋から出て行く前に、カストロに抱きつき、赤ん坊に合わせて欲しいと再び懇願した。ロレンツの心に大きな穴が開き、自分の手で息子を抱きしめないと、その穴は埋まりそうになかったのだ。カストロの答えは、かたくなだった。キューバにとどまれば、三人で暮せるのだとカストロは主張した。

しかし、キューバにとどまれば、CIAの連中はロレンツをどこまでも追いかけてくるだろう。裏切り者だとして、ロレンツを殺そうとするかもしれない。ロレンツには、キューバを離れることが最良の方法に思えた。

▼カストロ暗殺計画6
 「その滞在の後、キューバに戻る機会はあったのですか?」
 「いいえ、ありませんでした」

 「その後、フィデル・カストロと一度でも接触したことはありましたか?」
 「いいえ、ありません」

 「知りうる範囲において、その後、フィデル・カストロの配下の者と接触したことはありましたか?」
 「いいえ」

ロレンツは再び回想する。カストロが部屋を出て行った後、ロレンツはカストロと息子あてに手紙を書いた。「殺しの費用」として事前にもらっていた6000ドルのうち50ドルだけをロレンツがもらい、残りは手紙と一緒にドレッサーの上に置いた。

CIAのカストロ暗殺計画は大失敗に終わった。CIAはカストロを殺すためにロレンツをキューバに送り込んだ。ところがロレンツは、殺す代わりに「共産主義者の悪党と寝て、しかも6000ドルをくれてやった」わけだ。

ロレンツは泣きながらホテルを出て、空港へ急いだ。CIAの工作員らはそれを見て、カストロが死んだのでロレンツは泣いているのだと勘違いして、歓喜した。しかし、やがて彼らの歓喜は怒りに変わる。カストロが演説場に元気に現われたからだ。マイアミに戻ってきたロレンツに、罵詈雑言が浴びせられた。

「ちくしょう。これで作戦全部が台無しだ。この馬鹿なあばずれが! ワシントンに何と報告すればいいんだ」と、工作員の一人が毒づいた。ロレンツも強がって言った。「電話して、誰かほかの人間を使ったらいいでしょう!」

ロレンツにとって、カストロ暗殺はCIAと亡命キューバ人による戦争であり、もはや関係のないことのように思われた。カストロを殺さなかったおかげで、「フィデルはこれからも病院や学校を建てられる」とロレンツは説明したかったが、彼らはそのような話を聞く耳をもっていなかった。

マイアミの隠れ家に戻ってからも、彼らの怒りは収まらなかった。
CIA工作員の一人が電話をしながら叫んでいた。
「あのアマ、台無しにしやがった。しくじりやがったんだ。畜生」

ロレンツは落ち込んだ。「私は母親の期待を裏切り、父親の期待を裏切り、そして私自身の期待をも裏切ったわけね。もう、一人きりになりたいわ」と、ロレンツはつぶやくように言った。

ロレンツは当時、自分のせいで作戦が失敗したのだから、CIAもロレンツをあきらめて、解放してくれるだろうと、高をくくっていた。当然のことだが、その考えは甘かった。逆に彼らは、暗殺未遂にかかった費用は働いて返してもらうとロレンツに告げた。植えつけられた罪悪感から、ロレンツはその命令に従わざるをえないと感じていた。ロレンツはこうして、暗殺集団とともに抜け出ることのできない泥沼にはまっていったのだ。

▼オズワルドとの出会い
 トリプレットの質問は、カストロ暗殺計画からケネディ暗殺事件の核心となる人物であるオズワルドと謎の暗殺集団、オペレーション40の話に移った。オズワルドとはもちろん、ケネディを暗殺したとされる人物である。暗殺の真相を語る前に、キューバの賭博利権をカストロに奪われたとみられるジャック・ルビーというマフィア関係者に撃ち殺された。オズワルドは口封じのために殺された可能性が強い。

 「リー・ハーヴィー・オズワルドに会ったことがありますか?」
 「はい、あります」

 「いつ、どこで、最初に彼に会ったのですか?」
「最初に彼に会ったのは、マイアミの南西部にある隠れ家でした。当時、私たちはそこで生活していました。フランク(・スタージス)が責任者でした」

 「そこには他にだれがいたのですか?」
 「ペドロ・ディアス・ランツと、私たち、フランク・フィオリーニ(スタージス)のグループの他のメンバーです」

 「あなたたちの他のメンバーとはだれだか教えてもらえますか?」
 「アレクサンダー・ローク、ペドロ・ディアス・ランツ、オーランド・ボッシュです」

 「あなたたちのメンバーであなたが覚えている人はほかにいませんか?」
 「ジェリー・パトリック・ヘミング。私たちの多くはニックネームを持っていました」
(注:ヘミングに素性については、筆者もよくわからない。)

 「あなたはニックネームを覚えているんですか、それとも、軍事名で呼び合っていたのですか?」
 「だれのことですか?」

 「当時、ニックネームは軍事名だったのですか?」
 「軍事名?」

 「そうです」
 「パブロとか、ペドロとか?」

 「もういいです。とにかく隠れ家にいたわけですね。その隠れ家はオペレーション40によって運営されていたのですか?」
 「そうです」

 「あなたが当時、あなたのグループと呼んでいたのは、このオペレーション40のことですね?」
 「はい」

 「オペレーション40とは何だったか、簡潔に教えてもらえますか?」
 「訓練された暗殺者の集団です」

▼オペレーション40
 「訓練された暗殺者の集団・・・。殺人の訓練をするに当たって、特別な標的があったのですか?」とトリプレットは聞いた。
 「私たちの邪魔をする者はだれでも」

 「つまり、キューバ人だろうと、米国人だろうと、だれでもですか?」
 「だれでもです」
 ロレンツの自伝でも詳細は明らかにされていないが、ロレンツのグループが武器庫を襲撃するときは、事前に衛兵や職員を買収し、それに応じなかったり裏切ったりした場合は衛兵を始末することもあったという。

 「だれが訓練したのですか?」
 「えり抜かれた人です」

 「グループを訓練したのはだれですか?」
 「フランク・フィオリーニ(スタージス)です」

 「ほかにだれか訓練に携わった人はいましたか?」
 「ジェリー・パトリック、ペドロ、ほかにも何人か」

 「ペドロとは、ペドロ・ディアス・ランツのことですね?」
 「はい」

 「ほかの人の名前を覚えていますか?」
 「米国人の大佐がいましたが、名前は覚えていません」

 「どういう種類の訓練をしたのですか?」
 「どういう訓練かですって? ゲリラ戦争、プラスチック爆弾、武器、攻撃、自己防衛」

 もちろんオペレーション40がやっていたことは軍事訓練だけではなかった。実際には軍の武器庫や民間の武器店から武器や兵器を奪い、それを秘密基地に運搬することも日常的に行っていた。運搬用のヨットを盗むことや守衛を殺すことも躊躇しなかった。訓練はそうした盗みや殺しの技術を学ぶものだった。

 武器を運搬中に地元警察の職務質問を受けることもあったが、警察内のある電話番号にかけると無罪放免になった。仮に逮捕されても、ワシントンのしかるべき人物に電話すれば、最終的には釈放された。

 つまり、このオペレーション40の非合法活動は、CIAのお墨付きを得ていたのだ。ロレンツたちに報酬が入った封筒を手渡すのは、エドゥアルドことハワード・ハントという、後にウォーターゲート事件で悪名を馳せたCIA情報部員だったともロレンツは証言している。

 「どこで訓練したのですか?」
 「フロリダの小島にあるエバーグレイズで」

 「武器と言いましたが、どういう種類の武器を使ったのですか?」
 「M-1とか、自動小火器、ピストル、ナイフ、銃剣」

 「このグループと一緒にオズワルドにも会ったと言いましたね?」
 「はい、初めて」

 「どういう名前を使っていましたか?」
 「私はいつもオズィーと呼んでいました。私は“彼はここで私たちと何をしているのか?”と聞いたんです。オブライエンは“彼には彼の目的があるのだ。気にしなくていい”と言っていました。私がそのグループのメンバーだったのは、フィデルと関係があったからです。私はそこではただ一人の女性でした」

▼軍事訓練
オペレーション40の主要メンバーは、カストロに恨みをもつ亡命キューバ人たちだ。ロレンツは「カストロに赤ん坊を殺された」ことになっていたので、メンバーの資格は十分にあった。ところがオズワルドだけは、キューバやカストロと関係があるようには思えなかった。

 「あなたはオズワルドが関係した訓練に参加したことがありますか?」と、トリプレットは聞いた。
 「はい」

 「それについて教えてもらえませんか?」
 「ただの軍事訓練です。一般的な訓練、標的訓練、夜間の上陸訓練、それにプラスチック爆弾のテストとか」

 「オズワルドが訓練を受けていたとき、あなたはそこで何回ぐらい居合わせたのですか?」
 「約三、四回です」

 「それはいつ頃ですか?」
 「六一年の初めから私がその隠れ家を出たときまでです」

 「いつその隠れ家を出たのですか?」
 「訓練の最中に私が撃たれたときです。私はけがを負い、オーランド・ボッシュが傷口の治療をしてくれました。私はマイアミに運ばれました。私は辞退を申し入れたのですが、フランクは、私には非常に利用価値があるということで、辞退させてくれませんでした。彼は私にとって三つ目となる任務があると告げました(注:おそらくカストロの部屋から書類を盗むことが第一の任務で、カストロ暗殺が第二の任務であったとみられる)」

 ロレンツは、訓練中に受けた首の傷について思い出していた。だれかがロレンツを背後から撃ったのだ。後ろの首から血が流れ出し、痛みが後から襲ってきたのを今でも鮮明に覚えていた。

「医療班を呼べ」と誰かが叫んでいた。血は背中を伝わってどんどん流れ落ち、止まらない。初期のショック症状が収まると、全身を刺し貫くような痛みがロレンツを襲った。応急手当だけではどうしようもなかったので、マイアミに住むオーランド・ボッシュという反カストログループに属する医者の治療を受けることになった。

だれがロレンツの首を撃ったのか。本当にただのアクシデントだったのか。カストロ暗殺に失敗したロレンツを恨みに思っている反カストロキューバ人は多かった。その内の一人かもしれない、とロレンツは疑っていた。

しかし、不幸中の幸い。この傷のおかげでロレンツはキューバ侵攻作戦、つまり歴史上ではピッグズ湾事件として知られる作戦に参加せずにすんだのである。その作戦に参加していたら、ロレンツは命を落としていたかもしれない。

▼ピッグズ湾事件1
一九六〇年当時、ロレンツが受けていた訓練は、キューバへの侵攻作戦を遂行するためのものであった。ロレンツ以外のメンバーのほとんどが反カストロの亡命キューバ人で、カストロ政権打倒に命をかけていた。CIAは彼らを利用して、キューバ侵攻作戦を実施する計画を秘密裏に進めていた。

カストロ暗殺に失敗したロレンツは、半ば懲罰のようにこのグループに配属させられた。単独ではカストロを殺せなくとも、グループでなら上司の命令によりカストロの部隊を躊躇することなく攻撃できるのではないかという思惑もあったようだ。事実、訓練では考えるよりも先に相手を殺すことに重点が置かれた。戦争は常に、人間性のかけらさえも兵士から奪っていく。

ロレンツの自伝によると、ロレンツのグループはキューバ侵攻の最初の攻撃グループに入っていた。ロレンツは500人の男とともにエバーグレイズに送り込まれ、一ヶ月間の強化トレーニングを受けた。その合同訓練の最中にロレンツは何者かに首を撃たれたのだった。

ここで、ロレンツが巻き込まれずにすんだピッグズ湾事件について説明しよう。

アメリカ政府は、目と鼻の先に誕生したカストロ政権がソ連への傾斜を強めると、CIAによる工作を開始した。それがカストロ政権に対する破壊工作であったり、カストロ暗殺計画であったりしたことはすでに述べた。1959年後半から1960年にかけての話である。

当時、アメリカの大統領は共和党のドワイト・アイゼンハワーであったが、副大統領のリチャード・ニクソンがキューバ問題を担当した。この年はちょうど大統領選挙の年で、ニクソンは共和党の大統領候補として選挙活動を展開していた。

CIAの工作員だったロバート・マローの証言によると、ニクソンは1960年10月、CIAの仲介で、ある亡命キューバ人のグループと密約を結んだという。そのグループは反共産主義勢力で、キューバ侵攻が成功した場合は、その他の邪魔なグループのリーダーは抹殺し、キューバに親米政権を樹立する。一方アメリカは、亡命キューバ人のグループを軍事訓練し、彼らがキューバに侵攻する際、空爆など必要な軍事支援を実施することを約束したのだという。

ところがここで不測の事態が起きた。大統領選に勝利すると思ったニクソンが、民主党の若き政治家ジョン・F・ケネディに僅差で敗れたのだ。CIAの対キューバ工作班は戸惑った。ニクソンが大統領であれば、すぐにもキューバ侵攻にゴーサインが出されるはずだったからだ。侵攻計画を実現させるには、ケネディを説得しなければならなくなった。

▼ピッグズ湾事件2
1961年1月、大統領に就任したケネディに対して、CIA幹部たちはキューバのカストロ政権がアメリカの安全保障にとっていかに危険であるかということを説き続けた。CIAは、すでに亡命キューバ人のグループが戦闘態勢を整えているとケネディに説明。カストロ政権打倒軍がキューバに上陸さえすれば、「独裁者カストロ」の「圧政」に苦しめられている国民が蜂起し、容易にカストロ政権を駆逐できると主張した。

当初、作戦は2月に予定されていたが、ケネディは国際世論の動向を懸念して侵攻を認めようとしない。しかし、CIAが絶対にうまくいくと請け負ったことなどから、ケネディはとうとうゴーサインを出す。

4月16日、偽装のためニカラグアを飛び立った米軍のB-26爆撃機がキューバの空軍を爆撃。翌17日には、一五〇〇人のカストロ政権打倒軍がピッグズ湾からキューバ上陸を開始した。ところがケネディ大統領は、空爆が米軍によるものであることがわかると国際的な非難にさらされるのではないかと恐れて、予定していた二度目の空爆を中止。このためピッグズ湾に上陸した亡命キューバ人の部隊は孤立無援となった。怪我をしなかったら、この中にロレンツがいたかもしれないわけだ。孤立した反カストロ分子の多くはカストロの部隊に殺されたり、捕らえられたりし、計画は大失敗に終わった。

この二度目の空爆中止をめぐっては、ケネディ政権内部でかなり激しい意見対立があったことが知られている。ケネディの側近には、キューバ侵攻への米国の支援が明らかになればソ連の介入を誘発し第三次世界大戦へと発展しかねないと、空爆に反対する者も多かった。一方、アレン・ダレス長官らCIA幹部は、国際世論など無視して徹底的にカストロ軍を空爆でたたくべきだと強硬に主張した。

大統領選に勝っていれば当然この作戦を指揮することになっていたリチャード・ニクソンの自伝には、ケネディは政権内部の空爆反対派とCIAの空爆強硬派の間をとって3回爆撃する計画でいったんは了承した。しかし、国際世論の批判を恐れて3回のうち2回をキャンセルしたのだと記されている。

米ジャーナリスト、クリストファー・マシューズの著作『ケネディとニクソン』によると、CIAのキューバ侵攻計画担当の情報部員ハワード・ハントらは、キューバ侵攻計画に参加する反カストロ部隊から、どうやったらキューバに上陸する少数の部隊がカストロの20万人もの大軍に対して戦えるのかと聞かれて、空からの米軍による援護爆撃で、あらゆるキューバ軍の戦闘車両や戦闘機を戦闘不能にするから大丈夫だと保証していたという。その保証は、ニクソンが大統領になった場合の保証であったのだろう。少なくともケネディ政権首脳から来ているものではない、ただの空手形であった。

ケネディが空爆を一回しか認めなかったことは、CIAとカストロ政権打倒軍にとっては大誤算であった。ケネディが二回目の空爆を躊躇しているとき、ハントらはCIAの戦争会議室で、早く空爆するよう激しくケネディらをののしっていたという。

ニクソンの自伝によると、ピッグズ湾事件の失敗でケネディはもちろんのこと、CIA幹部も大いに落胆した。うなだれて肩を落としたダレスCIA長官は思わずニクソンに漏らしたという。「ああ、彼(ケネディ大統領)には失敗は絶対許されないと言っておくんだった。もうちょっとで説得できたんだが、できなかった。私の人生で最大の失敗だ」

大統領就任早々評判を落としたケネディは、この事件の責任を取らせて、ダレスらCIA首脳陣を更迭した。ピッグズ湾事件は、CIA強硬派のケネディに対する遺恨となっただけでなく、ケネディは反カストロの亡命キューバ人からも空爆を認めなかった「裏切り者」として記憶にとどめられることになったのである。

▼三番目の任務
 トリプレットの質問がロレンツを目の前の現実に引き戻した。「私の質問は、訓練を受けていたリー・ハーヴィー・オズワルドをあなたが三、四回見たというのは、いつの期間かということです。最初に見たのは、六一年の初めごろだと言いましたね?」
 「六〇年の終わりごろか、六一年の初めだと思います。というのも私が三番目の任務を与えられたときだからです」

 「では、最後にあなたが、オズワルドが訓練を受けているのを見たのは、いつですか?六〇年の終わりごろから六一年の初めの期間ということですか?」
 「はい」と、ロレンツはぼんやりと答えた。

 ロレンツがこのとき答えた時期は、実は非常に意味があることにロレンツ本人は気付いていなかった。ロレンツの記憶では確か、オズワルドを見たのはピッグズ湾事件の前だったのだ。しかし、後に分かるが、その時期、オズワルドはソ連におり、米国にはいなかった。ロレンツは六三年夏に再びこのオペレーション40と呼ばれるグループに戻り、そこでオズワルドに会っているとも、自伝などで語っている。既に約十五年が経過しており、ロレンツの記憶がゴチャゴチャになっていた可能性は強い。このことは、委員会でも後で問題となる。

 「あなたの三番目の任務とは何だったのですか?」
 「三番目の任務は・・・。フランク(スタージス)は、私がフィデル暗殺でヘマをやったので、辞めさせるわけにはいかないんだ、と言うんです。私はパン・アメリカン航空の国際線に就職しました。スチュワーデスになりたかったんです。フランクは私を訪ね、ベネズエラの元大統領、マルコス・ペレス・ヒメネス将軍から情報を集めるよう命じました。私はそれをやったんです」

訓練中にロレンツが怪我を負ったからといって、スタージスはロレンツを“無罪放免”にはしなかった。スタージスらにとって、カストロ暗殺を失敗した「罪」は、それほど大きかったのだろう。

ロレンツの次の任務は、少なくとも暴力を伴わないものであった。当時マイアミには、ラテンアメリカ諸国から何らかの理由で逃れてきた金持ち連中がたくさん住みついていた。多くは暗い過去をもっていた。汚職で一財産築いた政府高官のほか、政争に敗れた者、追放された独裁者、負けた軍の指導者もいた。彼らは祖国を逃れるとき、それまでの不正でもうけた巨額の富をもってきていたので、マイアミでは何不自由なく、快適に暮していた。その中で、カストロに恨みをもつ者や亡命キューバ人の運動に賛同してくれる者から寄付金や情報を集めるのが、ロレンツの新しい任務であった。

それは1961年6月のことだったと、ロレンツは自伝に書いている。ピッグズ湾事件から二ヶ月ほど経ったころだ。ある日、スタージスがロレンツのところへやってきて、ディアス将軍という人物に会って来いと命令した。

▼独裁者ヒメネス1
 ディアス将軍とは何者だろう。ロレンツはスタージスからマイアミビーチの住所をもらった。そこで将軍がパーティーを開くのだという。ロレンツは身ぎれいにして、化粧をし、いかにも女っぽいフリル付きの白いブラウスを着て、出かけた。

ディアス将軍の家は、マイアミビーチではおなじみの大邸宅であった。電流が通じている高さ4メートル近いゲート。邸宅の裏庭を流れる川には、遠洋航海用のヨットが係留されていた。

7人もいる警備員の一人が、ロレンツを一人の男のところへ連れて行った。その男は、はげで背が低く、おまけに太っていた。そしていかにも女好きのスケベな顔立ちだった。それが「ディアス将軍」との最初の出会いであった。

ディアス将軍はにっこり笑いながら、灰色の目を細めてロレンツをしげしげと眺めた。そしてロレンツを、応接間らしい上品な部屋にロレンツを案内した。壁にはベネズエラの地図が貼ってあり、高価な家具が部屋を飾っていた。ディアスはロレンツにその部屋で待つように言って、いったん部屋から出て行くと、高級ワインと3000ドルほどの現金が入ったスポーツバッグを持って戻ってきた。

ワインはロレンツへのプレゼントで、金は「大儀のためのほんのはした金」だとディアス将軍は言った。ロレンツがお礼を言うと、将軍はこう言い返した。「なあに、たいしたことはない。君の元ボーイフレンドを始末するためのささやかな支援金さ」

ロレンツはこの言葉に切れた。現金の入ったバッグを床に下ろすと、「なんてことを言うの。こんなものいらないわ」と言い放し、帰ろうとした。ディアス将軍は慌てて、声をかけながら追いかけてきた。「いや、行かないでくれ。悪かった。お願いだ。怒らせるつもりはなかったんだ」

ディアスはロレンツの素性を、おそらくスタージスから事前に聞いていたのだろう。ディアスはお詫びを兼ねてロレンツを食事に誘った。ロレンツは少しもうれしくなかった。

ディアスはその後も、執拗にロレンツをデートに誘った。ディアスはロレンツの日程を知っているようで、ロレンツが非番で隠れ家にいるときに訪ねてきた。運転手が「将軍がお話をしたいそうです」と言ってきたが、ロレンツは「戦争が終われば考えてもいいわ、多分ね」と答えて、追い払った。

その4日後、ディアスの肖像をかたどったコインが付いた18金のブレスレットが送られてきた。金のブレスレットはずっしりと重かった。コインに自分の肖像が彫られているということは、かなり重要な人物であることは明白だった。このディアスこそ、ベネズエラの悪名高い独裁者マルコス・ペレス・ヒメネス将軍であったことが後にわかるのであった。

▼独裁者ヒメネス2
「ディアス将軍」からの熱烈なデートの誘いは、その後も執拗に続いた。ロレンツはそのしつこさに負けて、一時間以内に戻ってくることを条件にデートに応じることに同意した。

高級レストランでのディアスとの初デートは、ロレンツにとって楽しいものではなかった。武装したディアスの護衛がレストランのあちこちに立っており、目を光らせていた。そのデートでディアスは初めて、ディアスが本名ではなく、1958年に祖国を追われたベネズエラ大統領マルコス・ペレス・ヒメネスであるとロレンツに明かした。

ヒメネスはどのような人物だったのか。彼は当時、ベネズエラ政府から指名手配されていたおたずね者であった。ヒメネス自身はもちろん、ロレンツに詳細は語ることはなかったが、彼の悪行の数々は、ベネズエラの近代史に深く刻まれている。

近代のベネズエラも、他の多くの中南米諸国と同様に、独裁国家としての歴史を歩んできた。長い間、軍部の独裁が続いた後、軍部と文民の混合団体が1945年10月、クーデターを起こして、当時の軍事政権を倒した。新政権では首班の文民政治家ペタンクールが穏健な民主主義路線を進め、新しい民主的な憲法と普通選挙制が施行された。これにより1947年には総選挙によって著名な作家ロムロ・ガリェゴスが大統領に就任した。

ところが1948年11月24日、軍部が再び文民政権を倒し、ペタンクールやガリュゴスら文民政治家は亡命を余儀なくされる。代わって3人の軍人が実験を握った。その3人のうちの一人がヒメネスであった。ヒメネスはやがて独裁者となり、彼を支えるごく一握りの富裕層に有利な近代化を推進、自国に誘致したアメリカ企業から歩合を受け取る仕組みを作るなど驚くほどの私腹を肥やした。逆に政府は巨額の負債をかかえ、農業生産は著しく減少、農民はますます貧困にあえいだ。

忠実な秘密警察庁長官ペドロ・エストラーダを使って、政敵を次々と粛清することにも躊躇しなかった。敵と思しき人物は投獄され、多くは拷問を受け、自白しない場合は殺された。ヒメネスは自分が権力の座にとどまるためには、手段を選ばなかった。

しかしヒメネス政権も、膨張する大衆の怒りを力ですべて押さえ込むことはできなかった。大衆に押された陸海空軍によって転覆されると、ヒメネスは1300万ドルの詰まったスーツケースを持って亡命を企てた。ところが亡命途中のアメリカで発見され、フロリダで足止めを食っていたのだ。

ロレンツによると、ヒメネスは少なくとも7億5000万ドルの金を祖国から計画的に略奪していたという。それらのカネは世界中の銀行、不動産、会社などに隠匿されていた。だから、滞留先のフロリダでも武装した護衛に守られながら、贅沢な日々を送れたわけだ。ただし、フロリダ州デイド郡から出ることは許されておらず、月に一度、移民帰化局で手続きをしなければならなかった。

▼愛人生活1
(前回までのあらすじ)
カストロへの思いから、カストロを暗殺できなかったロレンツは、アメリカに帰ってから亡命キューバ人やCIA工作員から罵声を浴びる。「暗殺失敗の罪」をあがなうため、キューバ侵攻作戦の訓練に参加させられるが、訓練中に何者かに撃たれ重傷を負う。この怪我のおかげで、ピッグズ湾事件として知られる侵攻作戦に加わらずにすんだものの、ロレンツにはベネズエラの独裁者からカストロ打倒のための支援資金を取ってくるという新たな任務が待っていた。

 「あなたはマルコス・ペレス・ヒメネスから情報を集めたのですか」
 「フランク(スタージス)は知りたかったのです。私は当時、その人がベネズエラの元大統領だなんて知らなかった。私はパーティーに行きました。フランクは、将軍がおコメとか、物資とか、現金などの形でどれだけの金額を亡命キューバ人に提供してくれるのか、間接的に知りたかったのです。私はパーティーの後、フランクにそうした情報を教えました。その後、将軍は私とデートをしたがったのです」

 「そのパーティーはいつ、どこであったのですか?」
 「六一年にマイアミのパイン・ツリー・ドライブ四六〇九番地で。そこは将軍の住宅でした」

 「そのパーティーにはほかにだれがいましたか?」
 「いろいろな人が大勢いました。数百人規模です。元大将とか、将軍と一緒に亡命して来た人とか、フランクやアレックスもいました」

 「そしてあなたは、実際にいくら資金や物資が提供されるかという情報を手に入れたのですね?」
 「はい。それに、いつでも彼に話ができるという保証も手に入れました」
実際は、ロレンツの自伝に書かれているように、最初にあったときにいきなり資金を渡された。

 「フランクは何故こうした情報が欲しいのか説明しましたか?」
 「いいえ」

 「フランクが何故こうした情報を欲しがるのか聞きましたか?」
 「いいえ。フランクはただ、将軍が亡命キューバ人の運動にどれだけかかわり、どれだけ資金を提供してくれるか知りたかっただけなのだと思います。要するに、フランクはもっと金が欲しかったのです」

 「フランクは将軍から資金を得ようとしたことがあるのですか?」
 「分かりません」

ヒメネスは極悪人の独裁者であった。しかし、女性の扱いに関しては紳士的で、女心をよく心得ているようだった。なによりも信じられないくらいの金持ちであった。ロレンツはヒメネスからの誘いをまんざらでもないように思うようになった。

 ロレンツは、このヒメネスがベネズエラの独裁者で、権力の座にとどまるためなら、拷問、殺人など手段を選ばなかった冷血漢であることをずっと後になってから知ったと、自伝で述べている。当時のロレンツは、反カストロ運動に富の一部を提供しているベネズエラの前指導者に口説かれているぐらいにしか思っていなかったという。

ロレンツはそのころ、パン・アメリカン航空に就職が決まった。自立して隠れ家から脱出したかったのだ。ヒメネスは自分が所有しているアパートメントを貸そうと申し出た。ヒメネスの巨額の財産から見れば、たいした投資ではなかっただろうが、パンナムの給料ではとても住めそうにない二階建ての高級家具付アパートメントであった。

 これが意味することは明らかだった。ヒメネスの愛人になるということだ。そのころロレンツは、ヒメネスの過去をよく知らなかったこともあり、マイアミで豪華に暮らすヒメネスを好きになっていた。訓練に戻っても、また命を狙われる可能性もあった。それよりもヒメネスの愛人になったほうが少なくとも安全だ。ロレンツはヒメネスの申し出を受け入れた。必要から生まれたビジネス上の合意であると考えるようにした。

▼愛人生活2
ヒメネスの正式な妻はペルーのリマに住んでいた。ヒメネスはパイン・ツリー・ドライブの自宅にロレンツを住まわせることも考えたようだが、時々正式な妻が訪ねてくるので、そういうわけにもいかなかった。

ヒメネスは大半の時間をロレンツと過ごした。愛し合うときはロレンツのアパートを使った。ロレンツは後で知ったのだが、ヒメネスがロレンツを愛したのは、カストロが愛していた女とセックスをすることにより、カストロに屈辱を与えるという考えもあったようだ。時々、カストロよりセックスがうまいかどうかロレンツに尋ねるので、ロレンツはよく激怒した。おそらくは政治的な信条の違いから、ヒメネスはカストロを憎んでいた。

ある日の夕食の席で、ヒメネスはロレンツにこう尋ねた。
「私はお前の次のターゲットなのか、それともお前は私のものなのか?」
ロレンツはそのようなことはまったく考えていなかったので驚いて、ヒメネスに真意をただした。ヒメネスによると、亡命キューバ人の一部とCIA工作員たちは、ヒメネスかロレンツのどちらか、あるいは両方に死んでもらいたがっているということだった。ヒメネスは、ロレンツが訓練中に撃たれたのは事故ではないと思っていた。

「お前は愛人のカストロを殺し損ねたのだ。だから、やつらはお前を殺したがっている」とヒメネスは言った。だが彼らに殺させはしない、とロレンツに約束した。おそらくヒメネスには、CIA工作員や亡命キューバ人の一部をおとなしくさせるには十分なぐらいの財産があったのだろう。武装した護衛も大勢いた。少なくともヒメネスと一緒の間は、命を狙われることはなかった。

正式な愛人になったことを祝う披露宴も開かれた。50人ほどの男たちがロレンツの家に集まり、ヒメネスとロレンツを祝福した。ヒメネスは皆の前で、彼がかつて陸軍士官学校を卒業したときにもらった指輪を自分の指からはずしてロレンツの指にはめた。それは彼の妻よりもロレンツを大事に扱えという、部下に対する暗黙の宣言でもあった。

普通の平和な生活が始まろうとしていた。ただしヒメネスは、ロレンツがパンナムで働くことに反対した。6ヶ月の訓練が終わりいよいよ客室乗務員として飛び回ろうとしているときに、会社に手を回してロレンツを首にしてしまった。

ロレンツは異議を唱えたが、そうこうするうちに、ヒメネスの子供を妊娠していることが判明した。当時、客室乗務員は独身女性ばかりで、妊婦はお呼びではないという風潮が会社にあった。ヒメネスがわざわざ手を回さなくても、ロレンツは会社を辞めるはめになったかもしれなかった。

ロレンツにとって妊娠は、まったく思いがけないことだった。CIAの工作員たちに、もう子供は産めない体になったと吹き込まれていたからだ。それは、カストロに対する憎悪を募らせるためのウソであったわけだ。ロレンツはまったく健康な体だった。洗脳された脳の、一枚一枚の皮が剥がれていくようだった。

▼愛人生活3
妊娠を知ったヒメネスは有頂天になった。ただヒメネスは、ロレンツといる間は誠実でいると約束したにもかかわらず、女遊びを止めなかった。そこで、あるときロレンツは、ヒメネスが自分の島からキューバ女たちとヨットで戻ってくるところを待ち伏せした。ドックに戻ってきたヒメネスに向かって三八口径の銃を突きつけ、一発発射した。ヨットは波で揺れていたので、弾はヒメネスの膝に命中した。それ以来、ヒメネスはすっかり真人間になったとロレンツは自伝に書いている。

妊娠9ヶ月目になって2週間が過ぎるとロレンツは、当時ニュージャージー州フォート・リーに住んでいた母の家に電話をかけた。兄のジョーが電話口に出た。ロレンツは「あと二週間で子供が生まれるの」と言いながら、その子の父親となる人物の名前を告げた。電話の向こう側からは「何だって、また独裁者じゃないだろうな。まさかあの残忍で冷酷な独裁者マルコス・ペレス・ヒメネス将軍なのか?」という叫び声が聞こえた。ロレンツは「そうよ。ママに伝えておいてちょうだい。明日、そちらへ行くわ」と兄に伝えた。

マルコスの護衛がニュージャージーまで付いてきた。それが母親の家で出産するヒメネスの条件でもあった。護衛四人と、1万ドルの現金、それにヒメネスから母親へのプレゼントであるゴールドとダイヤモンドのピンを携えて、ロレンツは母親と再会した。母親も兄もロレンツが再び「独裁者」の子供を産むと知って、がっかりしていた。

それでも母親は、ロレンツを温かく迎え入れた。子供部屋も用意してくれた。ヒメネスからは毎日電話がかかってきたが、母親が出るとヒメネスと何時間も話をして、情け容赦なく文句を言い続けた。

出産予定日から一週間以上過ぎた1962年3月8日、ロレンツの陣痛が始まった。すさまじい吹雪の日だったが、勇敢な新人警官が運転するパトカーで対岸のニューヨークの病院に運び込まれ、翌9日午前6時、ロレンツはかわいい赤ん坊を産んだ。欲しかった女の子だった。電話口のヒメネスは、男の子でなかったのでがっかりしていた。

ロレンツは幸せだった。ロレンツが初めて抱く自分の赤ん坊であった。ヒメネスは自分の母親の名前を取ってアデラ・マリアと名づけたがったが、ロレンツはモニカ・メルセデス・ペレス・ヒメネスと名づけた。2週間後、ロレンツは赤ん坊を連れてマイアミに戻った。

▼ハワード・ハント登場
 場面は再び委員会に戻る。トリプレットの質問はエドゥアルドこと、ハワード・ハントの話に移った。言わずと知れたCIAの悪名高い情報部員だ。反カストロの亡命キューバ人とCIAを結ぶカギを握る人物で、ケネディ暗殺直前にロレンツが本当にハントとダラスで会っていたのかが、大きな焦点となっていた。

 「この時期(編注:ヒメネス将軍とつき合っていた時期)、あなたはエドゥアルドと会ったことがありますか?」
 「エドゥアルド。エドゥアルドとはその前に会いました」

 「いつ最初にエドゥアルドに会ったのですか?」
 「一九六〇年です」

 「エドゥアルドというのは、ハワード・ハントのことですね?」
 「そうです」

 「どこで最初にエドゥアルドに会ったのですか?
 「最初に会ったのは、マイアミのブリックル・ガーデンというアパートでした。フランク(スタージス)がそこに行き、何かを受け取らなければならない、と言ったのです。私たちは皆、車の中にいました。そこへ、エドゥアルドが出てきて、封筒に入ったものをフランクに渡したのです」

 「フランクは当時、エドゥアルドを知っていたという感じでしたか?」
 「はい」
ハワード・ハントは当時、対キューバ問題を担当するCIA情報部員で、フランク・スタージスは対キューバ工作員。ハントから定期的に工作資金などを受け取っていたとみられる。その後もウォーターゲート事件でスタージスが捕まるまで、あるいはそれ以降も、彼らの密接な関係は続くのである。

 「エドゥアルドがフランクに何を手渡したか、知っていますか?」
 「お金です」

 「いくら?」
 「正確にいくらだったかは分かりませんが、私たちがやっていけるに十分な金です」

 「次にエドゥアルドを見たのはいつでしたか?」
 「何度も見ました。というのも、彼は私たちがやっていけるよう、この種のお金をいつもくれたからです」

 「彼がお金を渡すとき、いつもフランク・スタージスに手渡したのですか?」
 「フランクが受け取ります。そうです」

 「ほかの人はどうですか? たとえば、ペドロ・ディアス・ランツが受け取ったことはありましたか?」
 「いいえ。ペドロは私たちと一緒でした」

 「ほかにいつもあなたと一緒にいた人がいるのですか?」
 「時々、オーランドが一緒だったり、ノボ兄弟が一緒だったりしました」

 「ノボ兄弟のファースト・ネームは覚えていますか?」
 「いいえ」

 「オーランドとは、オーランド・ボッシュのことですね?」
 「オーランド・ボッシュです」
ロレンツが訓練中に撃たれた怪我を治療した医者だ。

 「ハワード・ハントとフランク・スタージスが一緒のところを何回ぐらい見たと思いますか?」
 「三十とか、三十五回ぐらい」

 「それは六〇年に始まった?」
 「そうです」

 「最後に彼らが一緒だったのを見たのはいつですか?」
 「いつかはよく覚えていませんが、六一年に私が将軍と関係を持ったときと、六三年に将軍が本国送還になった後、彼らが一緒だったのを知っています」

 「将軍というのは、もう一度記録のためですが、姓名で述べてもらえますか?」
 「マルコス・ペレス・ヒメネス将軍です」

▼強制送還1
 トリプレットはいよいよ、ケネディ暗殺事件解決の決定的証言となりうる暗殺前のスタージスらの密会について質問することにした。

 「オーランド・ボッシュの家での会合に出席する機会がありましたか?」
 「はい」

 「その会合がいつあったか覚えていますか?」
 「六三年の八月以降、十一月よりも前と、十一月下旬です。何故なら、将軍は本国送還され、私は、私に危害を与えようとする人たちから逃げているときでしたから」

ヒメネスの本国送還と、何者かがロレンツに危害を加えようとした件については、説明が必要だ。

ロレンツとヒメネスとの愛人生活もそう長くは続かなかった。1962年12月12日、ヒメネスがデイド郡拘置所に連行されたのだ。ケネディ大統領の弟であるロバート・ケネディ司法長官、ディーン・ラスク国務長官、アーサー・ゴールドバーグ最高裁判所判事、それにベネズエラのロムロ・ベタンクール大統領の間で、ヒメネスをベネズエラに強制退去させるという合意ができていた。ベネズエラは、祖国を最後に出るときに1300万ドルを盗んで持ち出した罪でヒメネスを正式に起訴していた。

そもそもヒメネスが安穏と米国に滞在できたこと自体、不思議なことであった。もちろん、その「不思議」には理由があった。ヒメネスが巨額の金を法執行機関の職員や政治家にばら撒いていたからだ。

しかし、時代は変わった。ケネディが政権を取り、特に1962年10月にキューバ(ミサイル)危機を乗り越えた後は、ケネディ政権は反カストロ運動を積極的に取り締まるようになった。その一環で、反カストロ運動に資金を提供していたヒメネスが狙われたわけだ。12月にはほかにも、カストロが約5000万ドル相当の食糧、医薬品と引き換えに、ピッグズ湾事件の捕虜1179人を釈放するなど、ケネディ政権とカストロ政権の間で歩み寄りが見られた時期でもあった。

ヒメネスは、1963年8月にベネズエラに強制送還されることになった。ヒメネスの妻と三人の娘はペルーのリマに逃れ、長女は米フロリダ州キーウエストに男と駆け落ちした。

総額で40万ドルを上回るヒメネスの不動産は差し押さえられ、窓という窓には板が打ち付けられた。11台の車を含む私有財産は、すべて船でペルーへ送られた。残った財産はヒメネスの弁護士デービッド・ウォルターズが所属している事務所の所有となった。

強制退去を遅らせる法的戦術も使い尽くされ、唯一残された方法が、ロレンツがヒメネスに対して婚外子扶養請求訴訟を起こすことであった。だが、これには問題があった。ヒメネスが娘モニカのために設定した7万5000ドルの信託基金は、設定者の匿名が条件になっており、ヒメネスであることを受け取り側が明らかにした場合は、支払われなくなってしまうからだ。

「世間に知られれば、モニカの信託基金が台無しになってしまうわ」と、ロレンツはヒメネスに訴えた。ヒメネスは「心配するな」と請け負った。最後はロレンツが折れ、仕方なく婚外子扶養請求訴訟を起こした。



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