4782216 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

天の王朝

天の王朝

カストロが愛した女スパイ8

▼最悪の一夜
(前回までのあらすじ)ベネズエラへ強制送還された愛人のヒメネスを追って、首都カラカスに到着したロレンツを待っていたのは、政府当局の尋問であった。ロレンツは二重スパイの疑いを掛けられたが、懸命な弁明などにより、無罪放免となった。ほとんど無一文のロレンツは、ベネズエラ政府の計らいで観光を楽しんでいた。しかし、再び陰謀に巻き込まれ、ジャングルの奥地で置き去りにされる。

置き去りにされたロレンツは、すすり泣くしかなかった。モニカもつられて泣いていた。周りでは、ヤノマミたちの話し声が聞こえていた。遠くで鳥のさえずりも聞こえる。

裸の小さなヤノマミの男の子が、泣かないでよと言うように、モニカを軽くポンと叩いた。ロレンツがインディオたちをじっと見詰めると、向こうも見詰め返してきた。ロレンツには、彼らが悪さをする、危険な存在であるようにみえた。

子供たちが集まってきて、モニカを喜ばそうとしていた。男たちはロレンツのバッグをつかんだが、ロレンツはすぐに取り返した。座ったまま半ば呆然としているロレンツの目には、燃えるような真っ赤な夕陽が映っていた。日が暮れようとしていた。とりあえず、休める場所を確保しなければならない。

ロレンツはヤノマミの人々と一緒に、彼らの集落まで歩いていった。草葺の小屋がいくつか並んでいた。男たちはハンモックで横になり、女たちは火を起こしたり織物をしたりしていた。女たちはロレンツに身振り手振りで何か伝えようとしていたが、ロレンツにはわけがわからず、木の幹に寄りかかるように座り込んだ。辺りは暗くなり、心細さと怯えに似た感情がロレンツに去来した。

最悪の夜だった。そこら中を虫に刺された。それでも疲れきった体でモニカを抱き、バッグを枕替わりにして泣きながら眠りに付いた。何とか生き延びて、飛行機を待とう。漠然とした期待しか持つことができなかった。

夜が明けた。無事、一晩は越せたようだ。女たちの後をついて行き、川まで出ると、ロレンツは川で体を洗った。空腹でのどが渇いていた。ロレンツが口を指差して、何か食べるものが欲しいと訴えると、貝殻のようなカップに入った水とバナナの房を持ってきてくれた。

ロレンツはポケットナイフを取り出し、木の幹にモニカの名前を刻んだ。彼らはその文字を見つめて、ほめてくれた。ロレンツはにっこりと笑い返した。一歩一歩ではあるが、ロレンツと彼らの間で心が通じ合うようになって行った。

▼ヤノマミ族の暮らし
ロレンツは一日経つごとに、木の幹にXの字を彫っていった。ここには時計もカレンダーもなかったからだ。三日目には、モニカはヤノマミ族のように素っ裸になって、ほとんど見分けがつかないほど同化していた。モニカの父親にはインディオの血が流れていたようだ。ただしロレンツは、モニカが原住民のように耳や鼻や唇にピアスをさせられてしまうのではないかと、気が気ではなかった。

ロレンツは村の暮らしを注意深く観察した。男たちは槍や吹き矢を使って、バクや猿や魚や七面鳥のような鳥を獲った。動物は皮を剥ぎ取り、血とはらわたは抜き、火の上でいぶして食べた。毛がついたままの猿を丸ごと焼いて食べたりもした。ロレンツにとって吐き気がこみ上げてくるような臭いがしたが、猿の肉も生きるために食べた。

マンゴーやメロンのような果物もあった。彼らが生で食べるものの中には、太った白いナメクジのような生き物もいたが、こればかりはロレンツは生で食べる気にならなかった。そこで棒に1,2匹乗せて、火にかざそうとしたら、彼らは棒をロレンツから取り上げてしまった。彼らにとっては、このように生でおいしく食べられるものを焼くことなど冒涜であったに違いなかった。

川の中でロレンツが体を洗うと、彼らはなぜそのようなことをするのかと、おかしくて笑っているようだった。そのうち持っていた石鹸もなくなり、指のつめは割れ、ロレンツ自身も泥にまみれて、原住民のようになっていった。

ロレンツは髪を三つ編みにして、来るはずもない飛行機を探して空を見つめた。そのせいで、顔は日焼けして黒くなった。

昼となく夜となく、虫に刺され続けた。
毎日のように午後になると激しい雨に見舞われた。雨が降っている間は、つかの間ではあるが、湿気がなくなり虫からも解放された。だが雨がやむと、ジャングルには熱気と湿気が戻り、以前にも増して虫がわいたように現われた。

ロレンツが擦り傷や切り傷を負ったり虫に刺されたりすると、彼らは木の葉を持ってきて、これをすり込めと教えてくれた。顔料を塗りたくり、体中に彫りものをしたヤノマミの男が、木の葉や草を集めて、ロレンツのためにベッドを作ってくれた。お礼に化粧用のコンパクトを上げると、その男はうれしそうに自分の顔をのぞき込んでいた。それを見た他のヤノマミがコンパクトを取ろうとしたので、ちょっとした騒ぎになった。

男たちには2,3人の妻がいて、みなを平等に愛していた。女たちの間に嫉妬はまったく存在しなかった。男が狩りをして、魚を獲り、草葺屋根の小屋を造り、ハンモックを編むなど女の世話をできるかぎり、何人でも妻を娶ってもいいようであった。それができないようだと、一人の女をめぐって男たちが取り合いをすることもあった。

木の幹に彫った五つのX印が6列を超えたころ、つまり一ヶ月ほど経ったころ、ロレンツの体調に異変が起きた。

▼マラリア、そして神
ロレンツは吐き気がおさまらず、体がふるえた。胃が激しく痛み、体が熱くなったかと思えば、次の瞬間には悪寒で震えた。蛇、生贄の儀式、真っ暗なトンネルなどの幻覚が次々と現われた。

ロレンツはマラリアにかかったのだ。このまま、この地で死ぬのだろうか。

朦朧として横たわっていると、年配のヤノマミ女性がやって来た。女性は水を飲ませてくれた上に持ってきた葉っぱを噛めという。ロレンツはその通りにした。後は運を天に任せるしかない。ロレンツは再び死線をさまよった。

一体どれだけの時間が過ぎただろうか。ロレンツには何週間も寝込んでいたような気がしたが、ようやく死の世界から脱出して目覚めたようだった。ただ、ロレンツの体は痩せ細り、衰弱しきっていた。今度はハンモックの中に寝かされ、カシンという名の年配女性が引き続きロレンツの母親代わりとなって面倒をみてくれた。

カシンは苦い味のする葉っぱを噛み続けるようにロレンツに言った。ロレンツが葉っぱを噛むと吐いてしまって苦しくなったが、不思議と痛みはなくなった。体は軽くなり、頭はボーっとした。ロレンツは自分が回復しつつあるのを感じた。

ロレンツはヤノマミの言葉を覚え始めた。ロレンツを守ってくれる精霊は「ヘクラ」というのだそうだ。ヤノマミに対する恐怖心はすっかり消え、ロレンツはヤノマミの生活に段々と溶け込んでいった。

ロレンツは、空を見上げて飛行機を探しては泣くようなことはしなくなった。髪を切り、汚れたブラウスと靴を捨て、ヤノマミの女性と親しくなった。彼らはもはや、野蛮で未開な人々ではなかった。彼らの日々の暮らしの一つ一つが、意味を持つようになった。

出産、食事、狩り、火おこし、子育て、霊魂や神の話――あらゆるものに、完璧な時と場所があった。ロレンツは生まれ変わったように感じた。スペイン語、英語、ドイツ語は過去の一部となり、ロレンツもモニカもヤノマミの言葉を話すようになった。

ロレンツは、ヤノマミの人々が羨ましかった。外の“文明”からの干渉さえなければ、彼らはシンプルで完璧な秩序の中で暮していた。ロレンツもまた、菜園を耕し、自分の小屋を造り、槍を持ってジャングルで狩りをした。ジャングルは驚くほど多くの種類のランや、驚くほど多様な音で満ちていた。

あらゆる動物、植物、雲などの自然にロレンツは神を見出した。ヤノマミと一緒にいると、誰よりも神に近づけるような気持ちになった。

▼セックスと“結婚”
村にはカッチョという名の若者がいた。ロレンツのことが好きで、川で魚を突いては獲れたての魚を持ってきてくれた。彼は何時間も川に浸かって魚獲りをするので、かかとは皺だらけでひび割れを起こしていた。

ある時は、お腹が赤い3匹のピラニアを獲ってきた。その場でピラニアを殺して、鋭い歯をロレンツに見せたりした。ヤノマミはピラニアが嫌いで、彼らは何か毒性のものを川に撒き、ピラニアを下流に追いやってから、上流で漁をした。

カッチョは、大きくてがっしりした体つきだった。皮膚には彫り物はなく、金赤褐色の肌をしていた。足は、つま先が広がった偏平足であった。愛情の表現として、ロレンツの顔に自分の鼻を押し付け、快感のしるしとして舌を鳴らした。彼はフルーツや野いちごを持ってきて、ロレンツの様子をうかがっていた。ロレンツには、それがどういう意味なのか、薄々感付いていた。

ある日、ロレンツは野いちごと薪を取りに、ジャングルに分け入った。すると、カッチョが後をつけてくるのがわかった。ロレンツはわざと隠れん坊をして、カッチョをまこうとしたが、向こうのほうが一枚も二枚も上手であった。

そうこうするうちにロレンツは、道に迷ってしまったのではないかと不安になりながら、小道沿いにかがみ込んでいた。カッチョはロレンツを見つけて、そばに膝をついた。彼はロレンツの胸を両手で触り、やさしくロレンツを横たわらせた。いよいよ、“その時”が来たのだ。

ロレンツはカッチョの目、角張った顔、それに滑らかな唇を見つめた。拒む気持ちは生じなかった。カッチョは槍や吹き矢の筒を地面に置くと、腰布を脱ぎ捨て、ロレンツの汚れたジーンズを脱がした。カッチョはうめき声をあげながら、恍惚とした表情で、裸の体をロレンツの体になすりつけた。そして、勃起した大きなペニスを誇らしげに見せつけ、刺し貫くように挿入した。

二人は狂ったように愛し合った。あたりはばかることなく、うめき、転がり、快楽に浸った。純粋なセックスだった。ロレンツの背中は、木の枝で傷だらけになり、アリや虫はそこら中を這い回っていたが、気にならなかった。カッチョは果ててもすぐに回復し、何度も何度も愛を確かめ合った。純粋な男の純粋な肉体に触れたロレンツは、かつて経験したことがないぐらいに乱れた。

雨が降り始めた。二人の体はずぶぬれになり、疲れきっていた。カッチョは起き上がると、彼の武器を拾い上げ、腰布を身に付けた。彼は、同じ言葉を何度も繰り返していたが、ロレンツには意味がわからなかった。

部落に帰る途中、ロレンツに罪の意識が込み上げてきた。妊娠したかもしれないという不安にも駆られた。ロレンツはそっと自分の小屋に入り、ハンモックに入り込むと、モニカを抱き寄せた。

カッチョはそのようなロレンツをじっと見つめていた。そして、村の長老のところへ行き、ロレンツを妻にしたいと申し出た。どうやら“結婚”は認められたようだった。

一夜明けて、ロレンツが薪を集めていると、カッチョもやって来て、一緒に手伝ってくれた。二人は何をするのも一緒にやるようになった。カッチョには既に、別の小屋に妻と子供が一人いたが、嫉妬は存在しなかった。“新婚生活”がスタートした。

しかし、その生活も長くは続かなかった。

月の満ち欠けを大雑把に見積もって、この村に来て8ヶ月が過ぎたころだった。ある朝、ロレンツが川の中で体を洗っていると、空からブーンという鈍い音が聞こえてきた。

▼救出
かつてはロレンツが一日千秋の思いで待ち焦がれていた飛行機の音であった。しかし今は、平穏な生活を乱す不協和音。ロレンツの心の平安は乱された。過去が蘇り、屈辱感がフツフツと湧き上がってきた。ロレンツは濡れた髪を激しく振り乱し、侵略者がやってきた空と太陽をにらみつけた。

怒りがこみ上げてきた。ロレンツは傍らの槍を取ると、太陽に向かって思いっきり投げた。カッチョとロレンツを除く全員が、「空から降ってきた鳥」を見ようと、雑草に覆われた離発着場に駆けていった。

ロレンツは川岸に腰をおろした。むなしさや怒りや不安が複雑に絡み合って、ロレンツの胸に去来した。文明と“未開”の狭間で、ロレンツの心は揺れていた。

やがて軍服を着た四人の男が、ロレンツを探しにやって来た。うち一人は赤十字のバッグを持っていた。ロレンツは無表情に、濡れた膝を抱えて地面に座ったままだった。吹き矢筒を手にしたカッチョが、ロレンツを守るように立っていた。軍服の男たちが近づくと、ロレンツはカッチョの脚にしがみついた。その姿を見た軍服の男たちの眼には、信じられないものを見たときの驚きと戦慄がはっきりと見て取れた。

彼らはロレンツを説得して、連れて帰ろうとした。裸のモニカもロレンツにしがみついていた。ヤノマミの人々は一列に並び、棍棒や槍や吹き矢筒をふりかざして、甲高い金切り声を発していた。一触即発の状態だった。不測の事態を予測して、女と子供たちは小屋の中に引っ込んだ。

そのとき赤十字のバッグを持った男が言った。「あなたの母親からの依頼で、アメリカに連れ戻しに来ました」

ロレンツの母親が娘の危機を知り、救助隊を送ったのだ。この後、どのような別れのシーンが展開したのかは、ロレンツの自伝には触れられていないのでわからない。母親が派遣した救助隊でなければ断っていたかもしれないし、そうなれば小競り合いになったかもしれない。とにかくロレンツは、男たちの言葉に素直に従ったようだ。ヤノマミの人々も問題を起こすようなことをしなかった。おそらく、ロレンツがもと来た場所へ帰るのは、自然なことであると判断したのだろう。

自伝では、次の場面はマイアミに飛ぶ。病院に収容されたロレンツは、39・5度の高熱を出していた。医者の診断によると、マラリアと赤痢を患い、無数の皮膚の切り傷を負っていた。モニカも鼻を何かに咬まれて高熱を出し、3日間も生死をさまよった。二人とも1週間の入院が必要だった。

126▼犯人は誰か
ロレンツをジャングルに置き去りにした犯人は誰だったのか。ロレンツの自伝によると、ヒメネスに敵意や反感を持つベネズエラ政府内の軍人や役人だけでは、このような罠を仕掛けることはできなかったのではないかという。ロレンツは、CIAが裏で糸を引いていたとみている。

ロレンツは、とにかく知りすぎていた。カストロの愛人でCIAのカストロ暗殺作戦に参加し、数々の武器庫を襲撃し、ヒメネスのアメリカからの国外追放を邪魔し、ケネディ暗殺事件の直前まで暗殺者集団と行動を共にしていた。そのロレンツがラテンアメリカに滞在することは、キューバなどラテン諸国でアメリカが展開している反共活動にも悪影響を与えかねなかった。

ロレンツはCIAから見れば、邪魔な存在であることは疑いのない事実であった。ではなぜ殺さずに、ジャングルに置き去りにするという策略をめぐらしたのか。そこにはロレンツの母親の存在があったようだ。

ロレンツの母親は、第二次世界大戦中から事実上のアメリカの諜報部員として働き、戦後もアメリカのために諜報活動を続け、当時は米国家安全保障局の要職に就いていた。その娘を直接殺すことは、やっかいな問題を引き起こしかねなかった。そこでジャングルで行方不明になったことにして、自然に任せて始末しようとしたのではないだろうか。

幸いなことにロレンツの母親は、娘が危険な罠にはまったことを察知して、あらゆる手段を使ってロレンツを探し出した。そしてすぐに、救出チームをベネズエラのジャングルに派遣したのだった。

ロレンツとモニカは、ニューヨークにある母親のアパートで暮すことになった。

▼ニューヨークの生活
ニューヨークでの生活は、若いロレンツにとって刺激に満ちていた。古くからの父親の知り合いも多くいた。その中の一人である「チャーリーおじさん」は、特にロレンツとモニカをかわいがってくれた。

チャーリーおじさんは、「ザ・ブレード(刃物)」というニックネームを持っていた。つまり、刃物の使い手であるということだ。何の罪で捕まったかロレンツは知らなかったが、チャーリーには前科があり、刑務所で服役していたこともあった。しかし、ロレンツとモニカにとっては、モニカにおもちゃを買ってくれたり、シチリア料理を作ってくれたりする、優しいおじさんであった。

ロレンツとモニカは、毎日のようにチャーリーのアパートに遊びに行った。驚いたことにチャーリーは文字が読めなかった。そこでロレンツは、チャーリーに読み書きを教えてあげることにした。代わりにチャーリーは、ロレンツの親代わりになり、ロレンツを守ってくれた。

あるときロレンツに、アンディというボーイフレンドができた。偽札のロンダリング(洗浄)でカネを稼いでいるマフィアであった。偽札の出来栄えは見事で、ちょっとやそっとでは見破れないほど精巧であった。ロレンツはそのころ、失うものは何もないと、半ばやけになっていた。

そこでアンディから偽札の束をもらうと、それを使いまくった。ロレンツにとって偽札を使うことは、ひとつのゲームだった。一日で2000ドル使ったこともあった。

2,3ヵ月後、偽札の記事が新聞をにぎわすようになった。チャーリーはこの記事に怒った。チャーリーに言わせると、偽札を使うことは彼が愛している国に対する裏切りであるのだ。“仕事”で人を殺すのはいいが、汚いカネは犯罪だという。ロレンツが偽札を使った一人であることを告白すると、チャーリーは残りの偽札をロレンツから取り上げ、ビリビリに破って、トイレに流してしまった。

チャーリーはロレンツを怒鳴りつけた。
「お前はレディであって、マフィアのメンバーではない! 悪党になりたいのか?」
ロレンツは答えた。
「そうよ、ワルになりたいのよ」

「お前には仕事が必要だな」と、チャーリーは厳格な父親のように言った。
「仕事ぐらいやるわよ」と、ロレンツは言い放った。「ギャングの殺し屋はどう? それともゴッドマザー? 私をギャングのゴッドマザーにしてよ」

チャーリーの怒りは収まらなかったが、ロレンツにしかるべき真面目な仕事を紹介することで両者は和解した。

▼仕事、犯罪、離婚
チャーリーはロレンツに、スタットラー・ヒルトン・ホテルの仕事を紹介してくれた。そこは、1959年にロレンツがカストロに同行してニューヨークを訪問したときに泊まったホテルでもあった。ロレンツは受付係として働いた。

やがて1965年、ロレンツはウンベルトというキューバ人と知り合い、結婚した。彼はハンサムでおしゃれで優しかった。ロレンツにとっては、愛人や不倫ではない初めての公式な結婚であった。

しかし、普通の結婚もすぐに破綻する。ある日、ウンベルトのスーツケースが開いて、中身が床に落ちた。そこに散らばったのは、拳銃二挺、泥棒の道具、それに大金であった。ウンベルトもまた、胡散臭い犯罪者だったのだ。

見抜けなかったほうにも問題があるが、ロレンツはメモに「結婚生活に耐えられないので離婚して欲しい」と書いて、スーツケースから2包みの札束およそ5000ドルを掴み取ると家を出た。

2ヶ月ほど経って、ウンベルトの質札が見つかったので、なんだろうと思って、それを質屋に持っていった。するとたちまち、刑事たちがロレンツを取り囲んだ。質草は盗品でウンベルトはニューヨーク市警から指名手配されていたのだ。

今度は、そのときロレンツを取り調べたニューヨーク市警の一人であるJJとロレンツはデートするようになる。JJは最近、離婚したばかりであった。

ウンベルトの行方は依然、不明であった。ロレンツの手元にはまだ、ウンベルトからくすねた5000ドルがあった。ロレンツは一部を専門学校の入学金などに使い、残りを100ドル札でジーンズのポケットに入れて持ち歩いた。

ロレンツはJJとデートを重ねた。やがてJJからウンベルトが偽札づくりにかかわっていたことを知らされた。ロレンツはまた、“偽札をつかまされた”のだ。

ロレンツは再び、良心の呵責に悩まされた。カネの出所を警察に話すべきか、それとも今までのように使い続けるか。ロレンツは、チャーリーに告白した。チャーリーは激怒して、ロレンツから紙幣を取り上げると、再びビリビリと破きトイレに流してしまった。

「二度とこんなことをするんじゃない。わかったな?」とチャーリーは声を荒げて言った。「お前はいい母親のはずだ。刑務所で一生を終えたくないだろう。悪ぶるのはやめて、過去を忘れるんだ。とにかく忘れるんだ!」

確かにロレンツは、過去の暗い影を引きずっていたのかもしれない。CIAや犯罪集団に巻き込まれ、人生の荒波にもみくちゃにされ、半ば自暴自棄になっていた。しかし、このような危険なゲームを続ければ、チャーリーが言うように、モニカを失いかねなかった。モニカはロレンツの生きがいであった。

▼ドイツへ
チャーリーはロレンツの母親に電話をかけた。
「マリタは警察と泥棒ごっこをして遊んでいる。方向を見失っているんだ。故郷のドイツへ返したほうがいいのではないか?」

ロレンツはドイツに帰ることになった。

ロレンツには、ドイツに帰る前にやらなければならないことがあった。ウンベルトとの婚姻を解消することだ。ボーイフレンドのJJから、ウンベルトが捕まってオシニングにあるシンシン刑務所にいることを聞き出したロレンツは、JJに車で送ってもらい、ウンベルトに面会した。

スーツケースからくすねたカネを返すからとウソをつき、ロレンツはウンベルトに婚姻無効届けにサインさせた。ウンベルトはそのときやっと、自分が何者であるかをロレンツに明かした。その告白によると、ウンベルトはマイアミで、CIAが作った反カストロ組織「アルファ66」(編注:ロレンツが属していた「オペレーション40」の上部機関)に所属していたが、喧嘩別れしたのだという。

婚姻無効届けにサインさせたロレンツは、最後にウンベルトにこう言ってやった。
「ねえ、ウンベルト。あんたは本当にクソったれよ! あんたは役立たずだからキューバから逃げてきたか、カストロに追い出されただけでしょ。アメリカに来てCIAのために働き、本当に汚いやつね。ニューヨークでは、罪のない勤勉な人からカネを奪い、法律を犯して平気でいられるんだから」

しかし、そのウンベルトに惹かれ結婚し、ウンベルトから金をかすめ取って使ったのは、ロレンツ自身であった。ロレンツは自己嫌悪を覚えながら刑務所を後にした。

ロレンツとモニカは、ドイツにいるロレンツの父親の生家を訪ねた。生家はライン渓谷シュタインのバート・ミュンスタ村にあった。父親はガンに侵され、入院していた。

ロレンツは毎日、病院に通い、菜園を耕し、果樹園を散策した。叔父と叔母がおいしいドイツ料理を教えてくれるなど生活全般の面倒をなにかとみてくれた。

やがて父親は亡くなった。1966年7月14日のことだった。

▼ヒメネス釈放
ロレンツは最初、ドイツにとどまって働き、モニカを育てようと考えた。だが結局、母親と一緒に暮すためニューヨークの東86丁目に戻った。モニカを私立学校に入学させ、ロレンツ自身はメディカルスクールのクラスを受講し始めた。

ロレンツは獄中のヒメネスにも頻繁に手紙を書いた。モニカの父親の記憶を消さないようにするためだ。そのヒメネスは、1968年に釈放された。新聞によれば、彼は出国してマドリードのホテルに滞在しているという。ホテルの名前も記されていたので、ロレンツは電話機の受話器にテープレコーダーをつなげ、ヒメネスに電話した。

ヒメネスはロレンツからの電話を非情に喜んだ。電話がかかってきた瞬間に、ロレンツからの電話だとわかったのだという。ヒメネスは、ロレンツが送った手紙やモニカの写真をすべて受け取っていた。美しい自分の娘にぞっこんで、奪われた信託資金を補償すると約束した。そして、話があるのでマドリードまで来るようにロレンツに告げた。

ロレンツはそのとき、気になることがあった。ヒメネスをベネズエラへ強制送還した“張本人”であるロバート・ケネディが1968年6月5日、カリフォルニア州の民主党大統領予備選に勝利した直後、暗殺されたのだ。兄のジョン・F・ケネディのときと同様に、陰謀の疑いがあった。

ロレンツはヒメネスに聞いた。
「ロバート・ケネディが暗殺されたことは知っているわよね?」
ヒメネスは電話の向こう側で答えた。
「ああ、いいことだ。やつは殺されて当然だからな」

「なんてこと言うの、マルコス。どうしてそんなことが言えるの?」
「言えるさ」

「あなたが裏で糸を引いていたの? 強制送還を恨んで?」
「もう何も言うな! お前がこちらに来たときに話してやる」

ヒメネスは話題を変え、ロレンツにモニカと一緒にマドリードに住みたいかと訊いた。ロレンツはイエスと答えた。

モニカも電話口で、“パピ”と話をした。ヒメネスはモニカにささやいた。
「とっても愛しているよ。パピのことを忘れては駄目だよ。もうすぐ一緒に暮せるからね」

ロレンツはテープを巻き戻して、母親に聴かせた。ロバート・ケネディの話になると、母親の顔は青ざめた。「何てことなの」と母親は叫んだ。「誰が聴いているかもしれない国際電話で、暗殺された大統領候補の話をあけすけと話すなんて」

母親はまくし立てた。母親によると、マルコス・ヒメネスは、汚い仕事をするだけの手段、資金、動機を十分に持っているという。ヒメネスはロバート・ケネディ暗殺に関与していたのだろうか。

▼ロバート・ケネディの暗殺の謎
(前回までのあらすじ)ベネズエラのジャングルの奥地に置き去りにされたロレンツとモニカは、原住民のヤノマミと一緒に暮すことになる。数ヵ月後、母親が派遣した救助隊に発見され、二人はニューヨークで暮らす母親のもとへと帰る。ドイツで父親の最期を看取った後、再びニューヨークに戻ったロレンツは、釈放されてスペインに滞在するヒメネスからスペインで一緒に暮らそうと持ちかけられる。

民主党大統領候補で兄のケネディ政権時代に司法長官を務めたロバート・ケネディの暗殺に関しては、謎が多い。ケネディ政権時代に司法長官としてマフィア取締りを強化したため、それを恨んだマフィアがロバートやジョン・F・ケネディ暗殺の背後にいたのではないかとの見方もある。しかし、どうもそれだけではないようだ。

ロバート・ケネディ暗殺犯として逮捕されたのは、サーハン・サーハンというパレスチナからの移民であった。逮捕されたとき、サーハンの手には今しがた撃ったばかりの銃が握られていた。

しかし、サーハンの銃には8発の弾丸が込められていたとみられているが、サーハンが再び弾丸を込める時間がなかったにもかかわらず、10発以上の弾丸が発射された疑いがある。しかも、ロバート・ケネディに致命傷を与えたとみられる、至近距離から頭部に発射された弾は、ロバート・ケネディとサーハンが立っていた位置や距離からみて、サーハンが撃ったとは考えづらいものであった。

サーハン単独犯説に疑問を持ったロバート・ケネディの友人でニューヨークの弁護士であったアラード・ローウェンスタインは、独自に調査を開始。現場にサーハン以外の暗殺者がいたことを証明しようとした矢先、自分の事務所で殺された。

元CIA工作員のロバート・マローによると、ケネディ兄弟暗殺には、CIAと亡命キューバ人が関与していたという。マローはその話を、リチャート・ニクソンとつながりのあるワシントンの弁護士マーシャル・ディッグズから直接聞いている。マロー自身が明かした、そのときのやり取りを紹介しよう。ケネディ大統領暗殺がオズワルドの単独犯行であるとするウォーレン委員会の報告が出たばかりの1964年9月末ごろのことだ。

ディッグズ:ところで、ロバート・ケネディがお前のキューバ通貨偽造作戦(注:マローは1963年当時CIA工作員として、カストロ政権を打倒するため、通貨偽造作戦に携わっていた。それがロバート・ケネディ司法長官の知るところとなり、逮捕された)をつぶした直後にケネディ大統領が暗殺されたのを覚えているか?

マロー:ああ、覚えているが、キューバ人が関係しているのか? どういうことだ。それはもう終わった話だろう。実際、ウォーレン委員会の報告書には、そのような可能性があったことは何も書かれていないではないか。

ディッグズ:(苛立たしく手を振って否定しながら)あんな報告はどうでもいい。委員会だって疑念を抱いているのだ。もし、ある手がかりをつかまれたら・・・おそらくわれわれはここに座っていることもできないのだ。

マロー:ちくしょう、脅かすなよ、マーシャル。あれは終わったことだ。キューバやキューバ人、それにCIAのことは何も(ウォーレン報告書に)書かれていなかったのだ。オズワルドがある朝起きて、ケネディが気に食わないからやってやると決断したという以外、何の陰謀もなかったんだ。

ディッグズ:ヤツの弟もそう思ってくれたらよかったんだが・・・。

マロー:ヤツの弟って、ロバート・ケネディのことか?

ディッグズ:そうだ。ロバート・ケネディだ。

この会話があった直後、CIA局員の元妻でケネディ大統領と不倫関係にあったメアリー・メイヤーについて、ディッグズは陰謀に気づいた疑いが強く、ロバート・ケネディに真相をばらされる前に口を封じなければならないと、マローに持ちかける。マローは言われるがまま、メイヤーのことを反カストロ亡命キューバ人のリーダーに伝えたところ、メイヤーはほどなく殺されてしまうのだ。

こうした一連の流れを考えると、ロバート・ケネディ暗殺にも、CIAや亡命キューバ人がかかわっていた可能性が高まってくる。陰謀に関係したグループにとっては、ロバート・ケネディが大統領になることは何としても阻止したかったに違いない。

亡命キューバ人、マフィアなど、ロバート・ケネディに反感を持つ者は多かった。反カストロのキューバ人とつながりがあるヒメネスも、この陰謀に関与していたのだろうか。

漠然とした疑いをもちながらロレンツは、ヒメネスに電話をかけた翌週、マドリードへ飛んだ。

▼正体不明の毒
マドリードのカステリャーナ・インターナショナル・ホテルにチェックインしたロレンツは翌朝、ホテルのレストランで朝食をとった。部屋に戻る前にヒメネスに電話をかけた。電話に出たヒメネスに、部下を迎えによこしてほしいと頼んだとき突然、めまいに襲われた。

息ができない。体中の筋肉、骨、関節が痛み出した。自分の体に異変が起きていた。

ロレンツはやっとの思いで自分の部屋にたどり着くと、ベッドの上に腹ばいになって倒れこんだ。ロレンツは確信した。何者かが、食べ物かコーヒーに毒を入れたのだ。

ロレンツは気を失った。どのくらい時間が過ぎたのだろうか。気づくと「大丈夫ですか」と言いながら、誰かがロレンツの体を揺すっていた。イギリスなまりの英語を話す男性で、ロレンツに医者を呼ぼうかと尋ねた。

男はオーストラリアのビジネスマンで、フランクと名乗った。ロレンツの部屋の前を通りかかったところ、開いていたドアから女性が苦しむ声が聞こえたので、中をのぞいてみたのだという。

怪しそうな男ではなかった。ロレンツはそのフランクと名乗る男に、医者は呼ばなくてもいいから、その代わりマドリードからアメリカに向かう一番早い便に乗りたいと告げた。マドリードは、ロレンツにとって危険な場所であったのだ。一刻も早く脱出したかった。

さらにロレンツがニューヨークの母親の電話番号を告げると、フランクは電話をかけて、母親と連絡を取ってくれた。ロレンツは事情を説明した。CIAがロレンツとヒメネスを合わせまいとして仕組んだに違いなかった。

それから二日間、ロレンツは寝込んだ。体はだるく、痛みも続いていた。その間、フランクがロレンツの面倒をあれこれみてくれた。三日目、ロレンツはなんとか倒れずに歩けるようになった。もうここにはいられない。ロレンツはフランクに手伝ってもらい、空港までのタクシーを拾ってもらった。

ニューヨークのケネディ空港に着くと、母親が救急車を待機させていた。ニューヨーク・ドクターズ病院では、「正体不明の毒」による症状と診断された。ロレンツは一週間入院してからようやく、家に戻ることができた。ヒメネスに会えなかったので、ロバート・ケネディ暗殺の真相をわからないままだった。しかしロレンツは、明確なメッセージを受け取った。メッセージは「首を突っ込むな」であった。

▼恋多き女1
ロレンツは恋多き女であった。ロレンツがヒメネスの誘いに乗って、スペインに移住しようかと考えていたとき、エドというブルックリン育ちの保険セールスマンと付き合っていた。

エドは組織犯罪の連中とも付き合いがあった。遺産相続で競走馬を所有し、いつも大金を持っていた。結婚していたが、両親を亡くした同じ月に娘を脳腫瘍で失い、妻とは別居中だった。エドはロレンツの母親に、離婚が成立したらロレンツと結婚したいと申し出て、4・15カラットのダイヤの指輪をロレンツに贈った。

エドがカネを払っていろいろなことをやらせている人間の一人に、ルイスという男がいた。ルイスは、ロレンツが住んでいたビルの管理人であった。真面目で、優しく、ハンサムにみえた。ほかに便利屋兼仲介屋のような仕事をしていたが、管理人として働く代わりに、家賃をただにしてもらっていた。そして管理人として、ロレンツやモニカの面倒をよくみてくれた。

しかしルイスは、ただの管理人ではなかった。ある日、ロレンツが外出先から帰ってくると、ルイスが現われ、管理人のオフィスで話がしたいと告げた。オフィスには二人の男がいた。いかにも捜査官という感じの男たちだった。

「友だちを紹介したいんだ」と、ルイスがその二人を紹介した。
「ただの管理人ではないとは思っていたわ。あなた、本当は何者なの?」と、ロレンツは訊いた。

二人の男は身分証を見せながら、FBI特別捜査官であると告げた。ルイス自身も、どうやらFBI捜査官のようであった。身分を隠して極秘捜査に当たっていたのだ。

ターゲットは、ロレンツの部屋の階上に住んでいる、かなり有名なギャングの娘か義理の娘だった。その娘には子供がいて、モニカと仲良しで、いつも一緒に廊下を走り回って遊んでいた。捜査官たちはロレンツに、その「ギャングの娘」と親しくなって、情報を取ってきて欲しいというのだ。

ロレンツは断った。
「冗談じゃないわ。たれこみ屋になれっていうの? そんなの御免よ!」

彼らは言った。
「マリタ、君のファイルは読ませてもらったよ」

ロレンツのファイル――。そこにはロレンツが、かつて情報機関の仕事をしていたことが書かれていた。

▼恋多き女2
FBIが、ロレンツの“スパイ”としての実績を買って、おとり捜査に組み入れようとしたのだ。ロレンツは激しく拒否した。
「私はただ、専門学校へ行って、いい母親になって、のんびり暮らしたいのよ。私のファイルを読んだのなら、私がすべてを失ったことを知っているでしょ。もうあのような人生には戻りたくないわ」

結局FBIは、ロレンツの助けを借りずに立件し、「ギャングの娘」を連行していった。彼女の部屋からは大量の偽札が見つかった。

偽札が発見されたと聞いて、ロレンツは少しドキッとした。というのもロレンツは、チャーリーに内緒でまだ偽札を持っていたからだ。それをくしゃくしゃにして使い古しにみせかけ、ギャングとつながりがあるクラブで使うことが、ロレンツの密かな楽しみになっていた。

FBIの勧誘は、この事件後も執拗に続いた。ロレンツをルイスのオフィスに呼び出しては、何とか仕事に引きずり込もうとした。そうこうするうちにロレンツは、ルイスと親しくなっていた。ルイスはほとんど過去について語らなかったが、長年FBIに勤めており、おとり捜査が専門であった。

高価なダイヤの指輪をくれたエドが約束した期限内に妻との離婚ができないことがわかると、ロレンツは次第にルイスに惹かれていった。母親が留守のときにロレンツはルイスを家に誘い、関係をもった。

ところが、エドとルイスに二股を掛けている時期に、ロレンツは妊娠してしまった。エドは自分が父親だと信じ込んでいたが、実際はルイスの子であった。

ロレンツはどうしても、その子を産みたかった。ルイスに話をすると、意外にも、とても喜んでくれた。ただ、おとり捜査などの関係で、家庭がもてるような状況ではなかった。

エドも大喜びであった。一刻も早くロレンツと結婚したがったが、離婚は依然として成立する見込みがなかった。

ロレンツのツワリが始まると、状況はますます複雑化した。ロレンツは、エドとルイスのほかに、別の警察官ともデートを重ねていたのだ。ヒメネスとも切れていなかった。

三股、四股のほとんどコメディの世界であった。
専門学校から家に帰ると、ロレンツは毎日のようにスペインのヒメネスに電話をかけ、連絡を取ろうとした。ルイスは生まれてくる赤ん坊のために、大工仕事で子供部屋をつくってくれた。エドはロレンツに栄養をつけるために、おいしい料理を運んできてくれた。階下のロビーでは、デートを重ねていた警察官がロレンツを待っていた。

エドはまた、生まれてくる息子のために馬を買ってくれ、個人専用機でロレンツと旅をしたこともあった。

こうした三股、四股には、いずれ決着をつけなくてはならなかった。

▼恋多き女3
ロレンツの複数の恋に決着を促したのは、FBIであった。彼らは「父親のいない子を産むのはよくない」と言って、子供の実の父親であるルイスと結婚したほうがいい、と勧めた。

しかし、それには裏があった。FBIはおとり捜査ができる人間を二人必要としていたのだ。ルイスとロレンツ。ルイスには特別捜査官としての実績が、ロレンツには経験と基礎知識があった。二人が組めば、完璧なチームが組めると思っていたようだ。

そのためには、“些細な問題”もあった。ルイスも別居していたが結婚しており、法的な離婚が成立していなかったのだ。FBIの連中は、メキシコに行けば簡単に離婚ができ、ロレンツとルイスは結婚できると言い張った。

ロレンツは決めかねていた。そして返事をしないまま、1969年12月13日、陣痛が始まった。死産となるかもしれないと思われるほど難産であったが、男の子が生まれ、マークと名づけられた。

ロレンツがマークを抱いてアパートの部屋に戻る途中、FBIのエージェントたちが再び、ルイスとの結婚を打診してきた。ルイスと一緒に、通りの向かいにある豪華高層ビルの管理人の妻にならないかというのだ。今度のおとり捜査には、管理人の夫婦が必要だった。管理人の部屋にはベッドルームが3つか4つもあり、ロレンツの母親も希望するなら同居が可能だという。

悪い話ではなかった。とんとん拍子で結婚が決まった。ロレンツとルイスはメキシコに飛んで結婚。ニューヨークに戻ると、その豪華高層ビルに引っ越した。

ロレンツは、仕事とお金、美しい住まいを手に入れた。ルイスにも友情を感じていた。二人は仕事の一貫として結婚したが、ちゃんと誓いの言葉を交わした夫婦でもあった。

▼監視、スパイ活動
ロレンツとルイスの仕事は、この豪華ビルで暮す、ある特別な人々を密かに監視することだった。その特別な人々とは、主にソ連の代表団であった。FBIは国連で居住地区に関する協定を結んでおり、ソ連だけでなく、ブルガリア、チェコ、アルバニアなど共産圏から来た人々はこの高層ビルに集められていた。

ロレンツとルイスの部屋からは、ソ連代表団らの部屋へ出入りする人々がよく観察できた。写真を撮ることも可能だった。各部屋には盗聴器が巧妙に仕掛けられていた。地下にはモニター室があり、二人のエージェントが常駐して24時間態勢で記録を取っていた。長期監視用ヴァンも待機していた。

ロレンツはFBIからスパイ活動に必要なテクニックを伝授された。同時に刑事司法大学で、ニューヨーク補助警官隊のためのトレーニングを受けた。

ロレンツの仕事の一つには、ゴミの回収作業が含まれていた。建物の地下にはゴミ圧縮機があり、住人はダストシュートから直接、圧縮機にゴミを投げ落とした。ロレンツは毎晩遅くなってから地下に下り、ゴミを仕分けしては、重要とみられる手紙や書類をオフィスに持ち帰った。

あるとき、二人の警察官が黒人過激派のメンバーに殺される事件があった。どうも背後にはソビエト共産圏が糸を引いているようであった。ロレンツがゴミをくまなく調べたところ、このビルに住むアルバニア人たちがある大学教授に宛てて書いた手紙が見つかった。どうやらアルバニア人たちは、破壊的反戦グループへの資金援助として、その大学教授に1万ドルを提供していたようであった。

住人の一人には、黒人過激派のリーダーとみられる男もいた。ロレンツはその男が留守の間に、他の捜査官と一緒に部屋に侵入し、殺傷能力を高めた武器や特殊な薬きょうを見つけた。その薬きょうをFBIの研究所で検査したところ、二人の警官を殺した弾丸と一致することが判明した。

男は逮捕され、狙撃者の名前を自白した。それから一年後、実行犯らはカリフォルニアで逮捕された。

アルバニア人たちは逮捕されなかった。彼らは資金を提供していただけだったからだ。彼らは盗聴されていることも気づいていないようだったので、そのまま泳がせて監視を続けたほうがFBIにとっても都合がよかった。

▼パトロール
ロレンツはやがて日課に追われるようになった。モニカを学校まで送り、FBIの連絡員と情報交換し、KGBの高官らを監視した。

ニューヨーク市警23分署から仕事が回ってくることもあった。防犯課の覆面パトロールのような仕事で、警察無線がついた改造タクシーにほかの二人の刑事と乗り込み、一人がタクシー運転手に、ロレンツともう一人の刑事は客に扮して市内をパトロールした。

ある晩、警察無線がレイプ事件の発生を告げた。無線によると、被疑者はヒスパニック系の男性で、被害者は二人いた。たまたまそばにいたロレンツと相棒の刑事はパトカーに乗り込み、現場の公園に直行した。かろうじて車が通れる狭い道を走って、容疑者を探したところ、ロレンツの視界に容疑者らしき男が入ってきた。

ロレンツは本能的に車のドアを開けて飛び出し、拳銃を構え男を捕まえようとした。当然、男は逃げる。再びパトカーで追う。興奮したロレンツと相棒は、もう目の前を逃げる容疑者のことしか目に入らなかった。

容疑者が階段を駆け下りて池に向かっているのが見えた。頭に血が上っているロレンツたちも後を追って、パトカーで階段を走り下りた。まさに映画のカーチェイスのような猪突猛進ぶりである。「あの野郎を逃がしてなるものか!」と、運転をしている相棒が叫んだ次の瞬間、車は池に突っ込んで動かなくなってしまった。

二人は車から飛び出し、二手に分かれて男を追いかけ、とうとう96丁目辺りで男を捕まえた。ロレンツらは男に手錠をかけ、歩いて署に連行した。お手柄だった。

問題は池に飛び込んだ車であった。車はめちゃめちゃに壊れていた。まさか階段を車で走るようなバカなまねをしたのではないかと、問いただされたが、そんなことはしていないと白を切った。もちろんロレンツらは大目玉を食った。本当なら停職処分ものだったが、男を逮捕していたので処分は免れた。

火事現場にかけつけ、燃え盛るビルに入って、最上階で泣き叫んでいる女性と子供たちを階下まで誘導したこともあった。ところが一緒に中に入ったはずの相棒の姿が見えない。ロレンツが再びビルの中に飛び込み、五階まで上ると、そこには意識を失いかけていた相棒がいた。ロレンツは相棒を引きずって、腹ばいになりながら階段を下った。幸運なことに、ロレンツが煙のせいで気を失ったときに消防隊が到着、二人は救出されて命を落とさずにすんだのだった。

▼苦情処理
ルイスとロレンツは、あくまでも子供たちを優先にして警察やFBIの仕事をこなそうとした。そのほうが、ごく普通の子供のいる共働き夫婦に見えたからだ。ロレンツの母親は近所で暮らしていたので、マークやモニカの面倒をよくみてくれた。

モニカは午後3時に学校から帰ってくるので、ロレンツはその時間には必ず家にいるようにした。夜は母親に子供を頼み、警察の仕事をすることが多かった。警察での仕事には、ロレンツとルイスが管理するビルからの苦情を処理する仕事もあった。FBIがソ連関係者の家に留守中に侵入したりすると、居住者から警察に住居進入の被害届けが出される。そのときの電話の応対に出るのが、ロレンツの任務であった。

ロレンツはわざと、ちょっと鼻にかかった南部なまりで電話を受けた。そして辛抱強く苦情を聞き、同情しながら、すぐに優秀な刑事を二人派遣すると告げるのであった。

FBIに言い含められた刑事二人が直ちに、住居侵入の現場に向かう。指紋の検出など形式的な捜査を済ませると、同情を示しながら、事件解決に全力を尽くすことを約束した。もちろん、事件が解決したことなど一度もなかった。ソ連関係者は、まさか警察とFBIがぐるになって住居侵入をしているとは、考え付かなかったにちがいないと、ロレンツは述べている。

このようにしてロレンツとルイスは数年にわたって、ビルの入居者とその友人や関係者をスパイし続けた。時代は1970年代になっていた。

1972年には、ウォーターゲート事件が新聞を賑わしていた。ある日、ロレンツの母親が事件の記事を読んでいるとき、ロレンツがエドゥアルドとして知っていたハワード・ハントの写真が目に飛び込んできた。ハントの写真と並んで、あのフランク・スタージスも連行されていく写真が掲載されていた。

長らく関係を絶っていた二人が、なぜウォーターゲート事件で脚光を浴びているのか。ロレンツの頭の中では、再び不吉な過去がよみがえってくるのだった。
(続く)



© Rakuten Group, Inc.