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天の王朝

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出雲族と大和族の話(パート1)

出雲族と大和(日向)族の話

古代日本において、九州・宮崎に本拠地を置いた日向(後の大和)族と、山陰地方・島根に拠点を築いた出雲族があり、その二つの部族の間で抗争があったという説は拙著『不思議な世界の歩き方』の第14章「知られざる人類の歴史」でもご紹介しましたね。

簡単に説明すると、パミール高原にいた天(アマ)族は紀元前3世紀ごろ、「人類の進化を促し、真の繁栄に導く」ため、陸路と海路の二つのグループに分かれて、活火山が多く、「人類の進化と活性化に適した磁場を持つ地域」である日本列島を目指します。

最初に日本に到着したのは、ネパール、インドを経て中国の江南地方から博多湾沿岸に上陸した陸路グループでした。彼らはすでに九州にいた部族を併合しながら日向地方(現在の宮崎)まで南進・平定し、日向族として君臨します。

一方、インドから東南アジアの島々を経由して朝鮮半島に渡った海路グループは、壱岐島から出雲に上陸、出雲族となります。

日向族の族長にはイザナギ、イザナミが、出雲族の族長にはスサノオの父フツがいました。パミール高原を出発するときの約束では、日本で合流したら一致協力して日本を治め、「人類の進化と文化の隆盛を促す」はずだったのですが、先に強大な国家を九州地方に築いた日向族はそれを拒み、逆に出雲族が保持する皇位継承の証である「十種神宝(トクサノカンダカラ)」の引き渡しを求めます。

この要求に納得できなかった出雲族は、日向族に戦いを挑むことになりました。
(続く)

大和(日向)族がなぜ、出雲族と一致協力して国を築くことに反対したのか。その真の理由はわかりません。先に着いたものが日本を支配するのは当然だと思ったのか。そうだとしたら、すでに日本に暮らしていた人々こそ先住権がありますよね。それは出雲族にしても同じ話です。考えられるのは、それほど武力や技術力において大和族と出雲族が突出した存在だったということなのでしょう。

さて、その大和族と出雲族の抗争ですが、初期の戦闘における出雲族の勢いに押された大和族が和議を申し出て、イザナギとイザナミの娘アマテラスを出雲族フツの息子スサノオと結婚させます。この婚姻により二部族間の結びつきが強まり、協力して日本を治めるという目的が達せられたかに思われました。

ところが、大和族の一部のグループは出雲族との協力関係を快く思っていなかったようです。彼らは強力な呪術集団で、結界を張ったり呪術を施したりするなどして出雲族を排除するように画策。ほどなく大和族と出雲族が再び対立するようになります。

おそらく大和族は事前に戦争を予期して準備を整えていたのでしょう。出雲族は次第に劣勢となり、東へ東へと追いやられ、諏訪から東北へと敗走します。こうして大和族の神武は出雲族を追い出して、「初代天皇」として大和政権を樹立するわけです。同時に歴史を改ざんし、本来は(おそらく連合政権の)初代天皇であったニギハヤヒの役割を大和族に都合のいいように変えてしまうんですね。

その後も大和政権は出雲討伐の手を緩めませんでした。桓武の時代には坂上田村麻呂を東北に派遣して、蝦夷として出雲族を征討しました。

さて、いまご紹介した大和族と出雲族の抗争の歴史は、チャネラーの北川恵子さんの説ですね。私はその説をそのまま信じているわけではありませんが、妙に合点が行く部分もあり、一つの有力な説として興味深く記憶に留めておきました。

そしてこの話を聞いてからしばらくして、非常に似たような話を聞くことになります。それが拙著『竹内文書の謎を解く』の第3部にも登場する、古神道の神主であり第73世武内宿禰の称号をもつ「むっちゃん1217」さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/takeuchisukune/の説だったんですね。
(続く)

むっちゃん1217さん(以下むっちゃん)の説をご紹介する前に、彼が第73世武内宿禰になったいきさつを少し説明しておきましょう。

それは彼が19歳の時でした。どこからともなく謎の使者が現れて、武内宿禰を補佐する長老メンバーの一人であると告げたうえで、むっちゃんに「武内宿禰」になるように告げたのだそうです。最初、むっちゃんは何のことがさっぱりわからなかったのですが、だんだんと事態が飲み込めてきます。その使者によると、どうやら日本には古代から、武内宿禰の血統を継ぐ数家が、それぞれに門外不出の神典・秘儀を分散して継承し続けてきたというんですね。そして、それぞれの家が継承してきた神典・秘儀のすべてを継承するのが「武内宿禰」になるのだそうです。

しかも、むっちゃんが「武内宿禰」に選ばれたいきさつというのが凄いんです。1767年12月に亡くなった「武内宿禰」の予言により、決まったというんですね。どういうことかと言うと、そのとき亡くなった「武内宿禰」さんは、「100年後に王政復古を成し遂げたのち、99年後に蘇る」と「遺言」したのです。つまり、1767年に100年を足して1867年に明治維新があり、さらにそれから99年足して1966年12月に生まれたものが1767年に亡くなった武内宿禰の生まれ変わりであるというわけです。そう、その1966年12月17日に生まれたのが、「むっちゃん1217さん」だったんですね。正式には、一族の中から1966年12月17日に生まれたむっちゃんが長老や後南朝の参議によって選別され、「太占」によって宿禰の継承者に決しました。

驚いたのはむっちゃんでした。「なんじゃ、それは!」という感じだったでしょうか。そう思うのも無理はありませんね。むっちゃんも最初は、「私のような人間では人を救ったりすることはできない」と断りました。ところが長老グループは、「人は救わなくてもいい」と言います。「では何をするんですか」と聞き返すと、「祈って伝えるだけだ」と言います。さらにむっちゃんが「救わなくてもいいんですか」と畳み掛けると、長老グループは「結構です」と言う。むっちゃんはその時の変わったやり取りを今でもはっきりと覚えていると言います。

むっちゃんはとうとう決心をします。「普通の人ではない世界に身を置くのもいいのではないか。祈って伝えるだけなら、私にもできるのではないか」と。むっちゃんは、「武内宿禰」を引き受けることにしました。
(続く)


正統竹内家当主である「武内宿禰」を引き受ける覚悟を決めたむっちゃんは、長老メンバーによる「霊嗣之儀式(ひつぎのぎしき)」を受け入れます。この秘儀によってむっちゃんは、自分の身に武内宿禰の魂、記憶のすべてを流入させました。すると、第一世の武内宿禰の霊を嗣(つ)ぐだけでなく、第一世から第72世までの歴代72人の宿禰の記憶のすべて、それこそ苦悩や高揚、恋愛感情までも継承することになったのだそうです。

何かすごい秘儀ですね。竹内文書を世に出した竹内巨麿も、鞍馬山の奥にある大悲山で神霊から秘儀を伝授されたといいますが、竹内文書にかかわる人は、神がかり的なので、びっくりです。実際のところむっちゃんは、武内宿禰になるまで神がいるとは思っていなかったのですが、それ以後、数々の神秘的体験により「神を実感」するようになったそうです。

この秘儀を経て、むっちゃんは「南朝越中宮家」及び「吉野朝廷」摂政宮祭祀王に就任します。そして、それから二十数年というもの今日に至るまで断続的に、大和族によって改ざんされる前の歴史である「正統竹内文書」と古神道・古武術の秘儀を口承で伝授され続けているのだそうです。

非常に興味深い秘密結社であり、秘儀の口伝方式ですね。それぞれの長老は自家に伝わる秘伝・秘儀のオーソリティーなのですが、全体像はわからない。ところが武内宿禰に選ばれた者だけが全体を知る。まるで重要なデータをバックアップする「フロッピーディスク(編注:今風に言えばUSB)みたいなものです」とむっちゃんは言います。

この話が本当だとすると、大正時代には一円札にも描かれた「武内宿禰」なる歴史上の人物は、一人ではなく世襲名であったことになりますね。道理で歴代天皇に仕え約300歳まで生きたという伝説が生まれるはずです。世襲だったら、何代もの天皇に仕えることができますものね。

それでは「正統竹内文書」口伝継承者である第73世武内宿禰さんが、出雲族と大和族の話をどう伝え聞いているか、次にご紹介しようと思います。
(続く)


巨麿さんが公開した竹内文書同様、宿禰さんが口承伝授された正統竹内文書も、神々が地球に降臨したところから始まります。神々は北極星、昴、オリオンの三ツ星からやってきたことになっていますが、宿禰さんは天孫降臨=宇宙人飛来説はとっていません。生命の元となる魂がそうした宇宙からやってきたと解釈しているそうです。

途中の歴史は端折って、何度かの天変地異を経て現代の地球文明が始まった時代に進みます。今から1万2000年ほど前、世界各地で大洪水が起きた後、最初の文明を築いたのは日本であったと宿禰さんは言います。「縄文文化」と呼ばれていますが、確かに実質的には世界最古の文明であった可能性が強いですね。

やがて最初の文明を築いた人たちは世界中に散って行き、文明を広めて行きます。
日本から大陸に渡った人たちは、理想の国を大陸に求めたのだそうです。大陸に渡った人たちの中には、のちに出雲族となるグループと、のちに大和族となるグループがいました。彼らは別々のルートでメソポタミアにたどり着き、合流。太陽を信仰するスメル族、すなわちシュメール人と呼ばれ、そこに古代文明を築きます。

シュメール人の最大都市はスサと呼ばれ、スサの王をスサノオと呼んだそうです。スサノオは政治・軍事をつかさどる王として君臨し、のちにこの政治・軍事グループは出雲族となります。一方、それとは別に祭司をつかさどる者たちをスメラミコトと呼んだそうです。スメラミコトの祭司グループはのちに大和族となります。

そのあと、突然シュメール人たちは姿を消すのですが、どうやら一部は中東まで行きユダヤとなったグループもいたみたいです。

なぜシュメール人たちは、メソポタミアの地を去ったのか。それは自然と共生するという彼らの古神道的な理念や信仰が、厳しい砂漠の風土に馴染まなかったのだと宿禰さんは言います。砂漠の地方では自然は人間に敵対するものでしかなく、理想とは程遠い地であった――。失望したシュメール人たちは、再び二手に分かれて日本に戻ることにしたのだそうです。
(続く)


あくまでも私の推測ですが、スメル族の2グループが日本へ戻る道のりは、紆余曲折の連続だったのではないかと思います。なぜなら、シュメール人が突然消えたのは、紀元前2000年ごろとされています。そして彼らがようやく日本にたどり着いたのは、どうやら紀元前4、5世紀ごろなんですよね。その間、1500~1600年間もシュメール人(スメル族)はあちこちを放浪していたことになります。まあ、中にはもっと早くに日本に戻ってきた人たちもいたのかもしれませんが、それについてはよくわかりません。

第73世武内宿禰さんの話に戻ります。スサノオのグループ(後の出雲族)は陸路日本へ向かい、北九州に上陸します。一方、スメラミコトたち(後の大和族)は、海路日本に向かい、九州の南にある高千穂に上陸(天下り=海下り)しました。そしてそれぞれのグループは、当時日本にいた「原日本人」たちをどんどん征服していくんですね。

やがて紀元前4世紀ごろ、この二つのスメル族のグループの間で戦いが勃発。一進一退の攻防が続きます。そのころの出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海を海路東進し、近畿地方に入ります。一時は出雲族スサノオと大和族アマテラスの間で政略的な結婚をするなどして和睦がありますが、大国主の息子の事代主が王の時代に再び戦争となり、大和族が出雲族を制圧します。

その結果、大和族の王であった神武(サノ彦)が事代主の娘を娶り、大和朝廷が確立します。紀元50年のころだと言います。このとき大和族の武内宿禰は、出雲族の物部から八雲叢雲十種神宝の行法を奪ったので、いまでも正統竹内家にこの行法が伝わっているそうです。

敗れた出雲族は関東・東北地方に逃げ、のちに蝦夷(エゾ、エミシ)となります。最初から日本にいた人たち(縄文人、原日本人)は、サンカとなりました。
(続く)
 

ここで登場人物の関係がややこしくなってきたので、整理しながら話を進めましょう。

武内宿禰さんによりますと、出雲族と大和族の覇権争いでは、大和族が最初優勢でしたが、出雲族が反撃し、一回目の和議があります。その和議で、出雲族のスサノオと大和族のアマテラスが夫婦となりました。

スサノオには息子ニギハヤヒと娘スセリヒメができますが、娘は大国主と結婚します。大国主は出雲の王となります。ニギハヤヒは物部氏の先祖となる人物ですが、正式名称はアマテラス クニテラスヒコ アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコトというのだそうです。つまりアマテラスとニギハヤヒノミコトは同一人物であることになるんですね。

ここからは私の推測で、今度むっちゃんに会ったときに聞かなければならないのですが、アマテラスとは祭祀を行う巫女(女王)、あるいは祭祀王の称号だったのではないかと思うんですね。大和族の巫女(アマテラス)とスサノオの結婚により生まれた子供であるニギハヤヒに、祭祀王アマテラスの称号が与えられたわけです。

ここで北川恵子・アリオンの主張で、日本の初代天皇はニギハヤヒノミコトであったという説が思い出されますね。つまり第一回目の出雲族と大和族の和議で、スサノオとアマテラスの政略結婚の結果生まれたニギハヤヒノミコトが統一王朝の初代天皇になることが決まっていたかもしれないわけです。

問題はその次です。実は宿禰さんにもどこから来たかわからないというのですが、スサノオの娘スセリヒメと結婚した大国主です。出自不明だというんですね。とにかく、出雲族の王となった大国主とスセリヒメの間に事代主が生まれます。宿禰さんのよると、この事代主が王(おそらく出雲族の王)の時代に、再び出雲族と大和族の間で抗争が勃発します。

そして結果は大和族の圧勝に終わり、出雲族は敗走するわけですね。再び私の推測ですが、戦争に勝利した大和族の王である神武は統一王朝初代天皇のニギハヤヒに対してアマテラスの称号、あるいは「大物主」という初代天皇の称号を渡せと迫ったわけです。出雲族という後ろ盾を失ったニギハヤヒは、圧力に屈して、すべての王位を返上します。

この時、「大和族(後の大和朝廷)お得意の系図改ざんがあった」と、第73世武内宿禰さんは言います。
(続く)


「大和族お得意の系図改ざん」とは、何なのでしょうか。
武内宿禰さんは言います。「ニギハヤヒと大年(大歳神)とアメノホアカリは同一人物なんですね。ニギハヤヒはスサノオの息子で、大物主でもありました。大物主は世襲名です。ところが大和族お得意の系図改ざんにより、大物主をニギハヤヒ、大年、アメノホアカリの三つにわけてしまった。そして大年は出雲族の祖先、アメノホアカリは大和族の祖先ということにして、大和族の正統性をねつ造、さらにニギハヤヒに分けることで歴史を隠したのです。正統竹内文書は、その改ざんされる前の歴史を残しています」

武内宿禰さんは大和族のご出身なのですが、とても面白い「内部情報」を教えてくれますね。さらに武内さんはこのように言います。「私は日本史の講師なのでこんなことを書いたら×をもらいますが、古事記と日本書紀は大和族の一部であった中臣家の藤原不比等が右大臣だった時に、自分に都合のいいように書かせたものです。不比等は鎌足と天智天皇の子供です」

ここからはまた私の推測なのですが、大和族にとってはとにかく出雲族出身のニギハヤヒが初代天皇であることにするのはまずい、と思ったのでしょうね。それでは出雲族とは対等になってしまう。そこで大和族を天孫族・天津神と位置づけ、天から下った神のように装いました。海から下った(海路やって来た)ので、天下ったというわけですね。陸路来た出雲族を土着の神々、つまり国津神とします。

もともと大和族にはアマテラスという祭祀王(女王)の称号がありましたから、アマテラスを天孫族の祖先として神格化。さらには日本にやってきたときの大和族の王イザナギと妻イザナミを「アマテラス」の両親に仕立て上げます。

厄介なのは出雲族の王フツとその息子のスサノオの存在です。そこで大和族は、フツは存在しなかったことにします。さらにスサノオは、乱暴狼藉を働いた、あるいは高天原を奪おうとしたとして天から追放されたことにしてしまいます。まあ、当時は出雲族と戦争の最中で、スサノオはおそらく出雲族の武将だったでしょうから、大和族から見れば手におえないぐらい強かったのでしょう。だから大和族の作った神話では、ボロクソに言われるわけです。

神話でいうアマテラスとスサノオの誓約(うけい)とは、まさに出雲族と大和族の第一回目の和議のことを指しているんですね。この時はおそらく出雲族のほうが戦いで優勢だったのでしょう。アマテラスの称号(を持つ巫女か王女)が出雲族に渡ってしまいます。アマテラスの称号が大和族からなくなってしまった。これが大和族側の言う「アマテラスの岩戸隠れ」になるわけです。

誓約(和議)により、スサノオは大和族のアマテラス(巫女か王女)と結婚までしている以上、国津神扱いにもできないので、スサノオをイザナギとイザナミから生まれた息子、アマテラスを姉にしてしまうという、「お得意の系図改ざん」をしたわけです。
(続く)

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記紀に記された日本神話の本質が段々とわかってきたのではないでしょうか。大和族側から見た都合のいい物語のオンパレードなわけですね。それにしても私が感心するのは、大和族に属する武内宿禰さんの潔さです。大和族側の系図改ざんの事実を認めるだけでなく、宿禰自身が秘儀・行法を出雲族から奪ったこと、さらには原日本人の神祇や記録を実質的に奪った(「残している」)ことも認めているからです。

拙著『竹内文書の謎を解く』でも金井南龍さんの意見としてご紹介しましたが、5世紀末ごろ神代文字で書かれた神代の歴史である「竹内文書」を漢字かな交じり文に直したうえで写筆したとされる、武内宿禰の孫・平群真鳥(武内宿禰さんによると、第8世武内宿禰)さんの「へぐり(平群)」は、飛騨地方の方言「へぐる」であり、「裏切る」「だます」という意味があるのだといいます。また、武内宿禰の「すくね」も「くすねる」を連想させますよね。

あくまでも私の推測ですが、もし武内宿禰さんが口伝で継承している「正統竹内文書」や巨麿が公開した「竹内文書」が大和族によって改ざんされる前の原日本人の記録をある程度正確に残しているのだとしたら、それは大和族の良心(あるいは良心の呵責)がなせる業であったのではないでしょうか。大和族が改ざんした歴史があまりにもひどかったので、「あれ(記紀など)は、本当の記録をくすねたり、だまし取ったりして都合よく改ざんした嘘っぱちなんだよね」ということを後世の人たちに暗示するために、わざと自分たちの名に「だます」「くすねる」を連想させる文字をいれたのではないかと思ってしまうわけです。

さて、さらに日本の神話を読み解いてゆきましょう。
アマテラスの称号を統一王朝に取られた大和族の一部は、何とか祭祀王の称号を取り返そうとします。このままではスサノオの息子で初代天皇のニギハヤヒの天下ですよね。そこで念使いの集団を使ってニギハヤヒの周りに結界を張り巡らせるなど妨害工作を開始すると同時に、「出自不明の大国主」を抱き込もうとします。大国主はスサノオの娘と結婚して出雲族の王となった人物でしたね。記紀では、高天原を追放され出雲国に降り立ったスサノオの子孫、あるいは実の息子ということになっています。

でも大国主さんは、どうやらスサノオの子孫でも実の息子でもないみたいなんですね。私が考える結論を先にお伝えすると、越の国などにいた原日本人の子孫か、あるいは古代ヘブライ人など大陸から来た人物ではないでしょうか。

大国主の話を書くと長くなりそうなので、大国主が何者なのかの考察は、次回にいたしたいと思います。
(続く)

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またまた話が複雑になってきたので、これまでの話を整理しますね。
シュメール(あるいはパミール高原のアマ族)の末裔とみられる出雲族と大和族が、それぞれ陸路と海路を使って紀元前4、5世紀ごろ「日本に戻って」きて、原日本人を制圧してゆきます。やがて出雲族と大和族の間で覇権争いが始まり、一進一退の攻防の末、和議があります。その和議で、出雲族の王スサノオに大和族の巫女であったアマテラスが嫁ぐこと、その子が統一王朝の初代天皇になることなどが決まります。それとは別に出雲族の王、大和族の王がそれぞれいたという図式ですね。

スサノオの息子が統一王朝の初代天皇になるわけですから、出雲の王がいなくなってしまいます。そこでスサノオは、娘のスセリヒメと結婚した大国主に出雲王の称号を与えることにしたのではないでしょうか。大国主はスサノオの子孫ではなく、実は娘婿だったんですね。

さて、問題の大国主さんです。武内宿禰さんから、大国主は「出自不明」であると初めて告げられた時は、私も意味がよくわかりませんでした。大国主は出雲族の人間だと思っていたからです。でも、どうやらそうではないみたいです。

ではどこの人間だったのでしょうか。

ヒントは大国主の神話である「因幡の白ウサギ」に出てくる和邇(ワニ)にあるように思うんですね。
ワニは外国、大陸のものですから、日本にいないのになぜワニが出てくるのでしょうか。
一説にはワニはワニザメのことだとしてサメであると主張する人もいるようですが、10世紀に書かれた『和名抄』には、『古事記』と同じ和邇の表記を用い「和邇は」「四足があり」、「鰐のこと」であると明記したうえで、大鹿が川を渡るとき之を中断すると記してあるそうです。そう、まさしく、あのアフリカなどに生息する鰐のことなんですね。『和名抄』には別途「鮫」の記載がありますから、ワニと鮫は明確に分けられていたんです。神話の内容からしても、サメの背中を渡るのでは、物語がイメージできません。やはりワニの背中をウサギが渡るのであれば、納得できるわけです。

因幡の白ウサギの話は外国で起きた話となります。とすると、大国主は外国人なのでしょうか。その可能性は高いと思うんですよね。というのも、それは彼の呼称にあります。そもそも大国主とは大国を治める帝王という意味ですね。それは島国や出雲国というより大陸の国を連想させます。また、大国主の別称は「葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを)」でもあるんですね。醜男なのか色男なのかはっきりしませんが、かなり個性的な人物だったに違いありません。

ここも私の推測ですが、個性的な出で立ちですぐに思い浮かぶのが、天孫降臨の神話に出てくる猿田彦です。「鼻長七咫、背長七尺」と書かれていますから、かなり鼻が長くて、大男だったとみられます。しかも目が八咫鏡のように輝いていたと言います。この猿田彦もいかにも外国人っぽいですよね。大国主と同郷でしょうか。この猿田彦が大和族たちの「天孫降臨(統一王朝の乗っ取り)」を助ける、あるいは手引きする役目を果たすんですね。もしかしたら記紀では、大国主を「国譲りの大国主」と「手引きをした猿田彦」にわけた可能性もあります。

そしてこの猿田彦の故郷が伊勢国の五十鈴川の川上であると知って、「ああ、なるほど」と合点がいくのです。
(続く)

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猿田彦の故郷が伊勢の五十鈴川であることがなぜ、猿田彦の素性と結びつくかと言うと、伊勢には五十鈴彦さんという方がいて、聖地伊勢の港を管理していたという話を聞いたことがあるからです。誰から聞いたかと言うと、第73世武内宿禰さんなんですね。そして何と、この五十鈴彦さんこそ、あのキリストだと言うんです。又の名を伊勢津彦と言います。

宿禰さんによりますと、キリストは日本に二度来ています。そして出雲族ととても仲が良かったというんですね。同時にキリストの弟も日本に来て、最後は日本で亡くなっていると言います。一方、巨麿さんが公開した竹内文書を知っている人ならお分かりだと思いますが、青森・戸来村にはキリストの墓があります。戸来(へらい)すなわちヘブライだと言うんですね。戸来村の沢口家には、二つの高貴な人の墓があると言い伝えられてきましたが、巨麿さんはその一つがキリストの墓で、もう一つが弟のイスキリの墓であると断言したとされています。ゴルゴダの丘で磔刑に処されたのは、弟のイスキリで、その形見ともいえる耳と頭髪が十来墓に、キリストは十来塚に埋められたといいます。

宿禰さんが継承した正統竹内文書はちょっと違います。キリストの弟であるイスキリ(石切彦)は石工や測量に長けた技術集団の長で、日本全国を測量。最後は青森の戸来村で亡くなったというんですね。また石切彦は、ニギハヤヒの子孫とされる物部一族とも仲がよかったそうです。大阪にある石切神社のご祭神にもなっています。ではゴルゴダの丘で死んだのは誰かというと、キリストのもう一人の弟であるというんですね。この辺が正統竹内文書と竹内文書の違いですが、キリストが来ている点では一致していますね。

正統竹内文書が正しいとすると、キリストや弟の石切彦が日本に来ているのですから、ずいぶん前からユダヤ人(編注:あくまでも古代ヘブライ人のことで、現在のイスラエルのユダヤ人ではない)も日本に来ていたはずです。しかも五十鈴彦が聖地伊勢の港を管理していたわけですから、その名前を冠した伊勢・五十鈴川に古代ヘブライ人がいてもおかしくないわけです。風貌が奇異だった猿田彦は、ユダヤ人だったかもしれないわけですね。

ちなみに宿禰さんによりますと、イスラエルとはイセラエルのことで、古代ヘブライ語で「栄光なる伊勢」という意味だそうです。
(続く)

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さあ、これで国譲り神話に登場する人物たちがほぼ出そろったのではないでしょうか。私は一時(と言ってもずいぶん前のことですが)、大陸から渡ってきた大和族が原日本人である出雲族を倒して大和政権を作ったとばかり思っていたのですが、どうやらそうではないことがわかってきました。「縄文文明」を築いた「原日本人」、それからゴラン高原かシュメールから渡って(戻って?)きて原日本人を制圧していった出雲族と大和族、それにユダヤ人(古代ヘブライ人)がどうやらいたようです。

武内宿禰さんによると、そのユダヤ人たちは出雲族の物部一族と仲が良かったというんですね。ということは出自不明の大国主さんはもしかしたら、ユダヤ人であったかもしれないと思えてきます。ナイルワニのいるエジプトあたりからやって来た可能性はありますね。

ユダヤ人の来日は、紀元前からしばしばあったと宿禰さんは言います。ただし彼らは「目立ってはいけなかった」ので記録はないそうです。記録に残っているユダヤ人は、紀元300年ごろやってきた秦氏で、彼らは「日本(スメル族)の分家の分家」のようなものだったとか。「彼らには祭祀をする人がおらず、彼らが神聖視したアークにしても、日本に来れば神輿に取り込まれてしまった」と言います。

さて、天孫降臨の神話に話を戻します。「大和族お得意の系図改ざん」により、ニギハヤヒを三分割したことはお話しましたね。つまり初代天皇ニギハヤヒの名称の一部であるアメノホアカリを大和族に組み入れ、初代天皇の血筋が大和族に流れるように系図をでっち上げたわけです。

おそらくニギハヤヒから統一王の称号を奪おうと画策した時点の大和族の王はニニギであったのではないかと思います。だからこそ神話では、兄(アメノホアカリ=ニギハヤヒ)、もしくは父(アメノオシホミミ)を差し置いて、天孫降臨(ニギハヤヒからの称号奪還)をするわけです。

ニニギはその際、出雲族と仲の良かったユダヤ人のグル―プを懐柔したのではないでしょうか。それがニニギの天孫降臨の前に立ちはだかった五十鈴川出身の猿田彦として描かれたのだと思います。そうでなければ、なぜ猿田彦が出てくるのか説明がうまくつかないですよね。

この天孫降臨の前に、出雲族の王であった大国主が政治的圧力と武力で大和族に屈した話は国譲りの神話に記されていますね。出雲族も最初はかなり抵抗し、何度も大和族を撃退、もしくは懐柔策に抵抗したように見受けられます。ですがやがて、大国主の息子である事代主は懐柔され、もう一人の息子で最後まで抵抗した武闘派の建御名方神も諏訪で大和族に鎮圧されます。
(続く)

13
長年(約400~500年間)続いた出雲族と大和族の覇権争いもようやく一応決着をみました。大和族の圧勝でしたね。紀元50年ごろのことではないかと武内宿禰さんは言います。

そこで大和族は(あくまでも私の推測ですが)、残った出雲族と出雲族の盟友でもあったユダヤとの間で和議に持ち込むんですね。その時の大和族の王は神武、出雲族は事代主だったとみられます。初代天皇のニギハヤヒ、および多分いたであろうニギハヤヒの子供、それに大国主はどうなったのかはわかりません。ニギハヤヒや大国主も和議に参加していたかもしれないし、あるいは最後まで神武の正統性に異を唱えたナガスネ彦同様、殺されてしまったかもしれません。

和議の結果、と言っても、ほとんど大和族が一方的に決めた結果だと思いますが、神武が出雲族の姫であるタタライスズヒメと結婚し、初代大和王朝の天皇となることが決まったのだと武内宿禰さんは言います。ここにも五十鈴の名前が出てきます。やはり大国主はユダヤであった可能性が強いと思うんですよね。それに宿禰さんによると、タタライスズヒメの妹は石切姫だと言います。これってイエスである五十鈴彦とその弟の石切彦と同じ名前ですから、ますます怪しい。宿禰さんにはこのこと(大国主=ユダヤ説)について話していなかったので、今度会ったときに聞いてみたいと思っています。

さて私が、二回目にして最後となる和議が大和、出雲、ユダヤの三者間で行われたのではないかと推測したのには、理由があります。私のブログにもよく登場する国際気能法研究所の秋山眞人さんと古代史について話していたとき、秋山さんがふと「(奈良にある)三輪山は、大和、出雲、ユダヤが融合した場所なんですよね」と漏らしたことを覚えていたからです。その時は私も「ふ~ん、そうなのかな」くらいにしか思わなかったので、深く追及しなかったのですが、武内宿禰さんから聞いた古代日本の出雲族と大和族の話と、秋山さんの三輪山=大和、出雲、ユダヤ融合説を合わせると、後になってから妙に合点してしまったわけです。つまり三輪山は三者の和議の場であったから、三和(みわ)=三輪となったのではないか、と。

なるほど、だから三輪山にニギハヤヒ(大物主)が葬られたとされるはずですね。形としてはご祭神として三輪山に祀られるわけですが、三輪山の和議によって、初代天皇だったという歴史的事実が三輪山の地中深くに埋められ、封印されてしまったからです。
(続く)

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こうして考えると、すべての日本神話の裏が見えてくるのではないでしょうか。記紀神話で神武が奈良の地に到着したときに、なぜ先に「天孫降臨族」のニギハヤヒがおり、天孫の印を持っていたかもよくわかりますよね。おそらく神武が最もほしかったのは、ニギハヤヒの「天孫の印」(統一王朝の印)だったのでしょうね。

神武の勝利後、大和族は巧みに、和議に同意しなかった出雲族を東へ、さらには北へと追いやっていきます。同時に大和族の陰陽師(念使い)のような人たちは、東西に延びる結界のようなものを張り巡らしていったように思うんですね。その一つが、ヤマトタケルが白鳥になって飛んで行ったという大阪の大鳥神社や羽曳野の白鳥の辺りから二上山の南麓にある竹内峠を越えて、三輪山、伊勢へと続く、東西線でしょうか。一部は竹内街道(たけのうちかいどう)とも名付けられていますね。あるいは水谷慶一さんが「太陽の道」と名付けた北緯34度32分の東西ラインでもあります。これにより、三輪山にニギハヤヒが、伊勢にユダヤが封じられたように思います。

そしてもう一つが、東京海洋大学名誉教授茂在寅男さんが見つけた出雲国譲りラインです。これは線と言うより帯のようなラインで、大国主を祭った出雲大社、事代主を祭った美保神社(島根県松江市)、建御名方を祭った諏訪大社がほぼ一直線上に並んでいるんですね。ご存知のようにこの三人は、大和族に降伏したとみられる出雲族の王や王子たちでしたね。そしてこの出雲国譲りラインは茨城県の鹿島神宮や香取神宮へと続きます。香取神宮で祭られているのはフツヌシ、鹿島神宮に祭られているのはタケミカヅチです。いずれも出雲族に国を譲れと迫った、大和族とみられる交渉人、あるいは武人たちですね。

月刊誌ムーにも以前書きましたが、これは大和族が出雲族の残党を東北から北へと封じ込めるための結界のようなラインだったと思うんですね。出雲族の王や王子たちを出雲、美保、諏訪にそれぞれ封じ込め、さらには防衛ラインとしてそのラインの東端に大和族の重鎮を配して見張らせたのではないでしょうか。

実際、このラインの面白いところは、出雲大社のご祭神である大国主と鹿島神宮のご祭神であるタケミカヅチがそれぞれ西と東にそっぽを向いていることでしょうか。つまり大国主は西を向き、タケミカヅチは東を向いているんですね。ふつうご祭神は北か南を向いているものですが、非常に珍しい例がちょうど出雲国譲りラインの東西端の神社で、しかもお互いそっぽを向く形でご祭神が配置されているのは偶然ではないでしょう。

このそっぽを向いたご祭神の存在は、大国主の国譲り神話の背後に隠された歴史を知らなければ、決して理解できないんですね。
(続く)

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東西のラインを引いたのが大和族だとすると、では東経137度11分の羽根ラインなど南北のラインを引いたのは誰かという問題が浮上しますね。この質問を武内宿禰さんにしたところ、だれが最初に引いたかはわからないが、ラインを整備した技術集団の長はイエスの弟の石切彦であったと言います。武内さんによりますと、石切彦は測量に長けており、中東から日本にやって来て、日本全国を測量したそうです。石切と名付けられたぐらいですから、メンヒルやドルメンなど巨石建造物の製作にも携わっていたのでしょう。少なくとも石工であった可能性は高いですね。

さて石工と言えば、すぐにフリーメイソンが思い浮かびます。と言うのもフリーメイソンの起源が14世紀のイギリスでウィンザー宮殿を建造した際に徴用された石工職人たちが、自分たちの権利、技術、知識が他の職人に渡らないよう暗号を使用して石工組合を作ったことが通説になっているからです。今衛星放送でやっている『大聖堂』を見ると、何となく納得してしまいますね(笑)。石工たちは、すごい技術集団です。また古くはピラミッド建造時の石工組合だったとの説もあります。

そうだとすると、ユダヤ人の石切彦は測量や石工の技術を代々受け継ぐ秘密結社の一員だったかもしれませんね。フリーメイソンのシンボルマークhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3を見ると、上向き三角形(コンパス)と下向き三角形(直角定規)を結合させています。これはダビデの星を形成しますから、まさにユダヤなのかなとも思ってしまいます。

私の推測ですが、石切彦たちのような技術集団は、古くから日本には南北のラインがあることを知っていたように思うんですよね。もし武内さんの言うように、ユダヤが実は日本から大陸を目指した「アマ族」の「分家の分家」のような人たちなら、古代日本の技術を大陸に持って行き、技術の秘中の秘の部分はそのまま持ち帰って日本に戻ってきたという可能性もあります。

大和族たちもおそらく、そうした高度な技術を代々伝える秘密結社のようなグループがいることを知っていたのだと思います。それは大和族が出雲族を封じていった場所からも推し量ることができるんですね。
(続く)

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これはいつもの「インスピレーション」で得た情報なのですが、原日本人(縄文人?)とみられるグループが縦のラインを作り、大和族は横のラインを作ったというんですね。大和族は原日本人のグループが縦のラインを作ったということを知っていたので、それぞれのラインを打ち消すように横のラインを作ったと「インスピレーション」は告げます。縦の四本の線(南中線)に対して、同じ幅で四本の東西線を引いたといいます。

では四本の南中線は何でしょう。私の推測ですが、一つは伊勢白山の鳥ライン、二つ目は東経137度11分の羽根ライン、それから以前ご紹介した尖山ピラミッドと山岡町のピラミッド石を結ぶピラミッドライン、最後は下田富士ピラミッドと新潟・三条市を結ぶもう一つのピラミッドラインではないでしょうか。するとインスピレーションは次のように告げます。第三番目と第四番目のライン、つまり下田富士のピラミッドラインと尖山のピラミッドラインのちょうど真ん中にある場所にくさびを打ったのだ、と。

私はすぐに地図でその場所を確認します。すると、なるほど出雲族の建御名方を封じたとみられる諏訪はちょうど二つのピラミッドラインの真ん中にあるんですね。そのとき私は、そのくさびにどのような働きがあったかに気付きます。大和族が作った東西ラインは原日本人の作った南北の光通信網を監視、もしくは遮断する目的を持っていたのではないか、と。

大和族にとっては、原日本人のグループに自由に情報を交換されては困ったんでしょうね。今、中東各地で起きている反政府運動の波を見てもわかりますね。彼らはフェイスブックなどネットを通じて連絡を取り合い、集団で大きく動きます。これこそ、権力側が最も嫌がる反政府運動なんですね。そのため情報を徹底的に管理する必要があった。原日本人と出雲族の残党が結託したら、それこそ脅威ですからね。そのための東西ラインを作り、情報の遮断を試みたような気がします。

超古代において、原日本人は山を使って光通信網を南北方向に張り巡らせました。一方、大和族は、神社や島を使って東西方向にそれを打ち消すラインを作ったのではないかとインスピレーションは告げます。具体的には大和族は隠岐の島を使って出雲―鹿島の国譲りラインを作り、淡路島と神島を結ぶ三輪山のラインを引いたのではないでしょうか。もっとも北限の東西ラインには、どうやら佐渡を利用したようです。

原日本人が作ったとみられる南北のラインは、光通信のラインであると同時に重要な輸送ルートでもあったのですね。その輸送ルートは、大和族の作った東西のラインにより寸断されます。さらに、かつての原日本人の聖地には神社が配置され、そこに鳥居を置くことにより、鳥や羽根を封じ込めました。つまり天空浮船族を飛べなくさせたとも解釈できるんですね。インスピレーションは、鳥居の「居」の意味を漢字字典で調べろと暗に告げます。
(続く)

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今日はちょっと話が脱線しますが、昨日書いた「原日本人(縄文人?)」という表現について修正しておきます。私はこれまで、縄文人=原日本人ではないかとみて議論を展開してきましたが、厳密に言うとそうではないという「声」がどこからともなく聞こえてきます。

確かに縄文人は原日本人と言えるのですが、どうやら原日本人がすべて縄文人かというとそうではないと「声」は告げているようです。どういうことか、と聞き返すと、大体次のような答えが返ってきました。

今から1万2000年前、ちょうど大洪水があった後の時期と重なると思うのですが、日本列島には多数の縄文人と少数の「別の人種」がいたようです。別の人種の人たちは縄文人よりも体が大きくて、鼻が大きくて高いなど顔立ちもまったく違っていました。そして、縄文人とはあまり混じり合わずに山の上の方で暮らしていたとの感触を受けます。

「そのような骨格の人骨は、発見されていないではないか」との疑問に対しては、「骨がいったい地中でどれだけの間残っていると思っているの?」との「返答」がありました。まあ、少数の別の人種の骨が見つかることは、かなり可能性が低いと言えそうですね。唯一のヒントは、ニギハヤヒのために最後まで戦ったとされるナガスネ彦にあるかもしれません。

さて、平地に住む縄文人にとって、「別の人種」の人たちは、白い扇を持って天を飛ぶ「山の天狗」のような存在だったでしょうか。実際彼らは、空を飛ぶ技術を持った「技術集団」でもあったのだと声は告げているようです。便宜上、彼らを「天狗族」とでも名付けておきましょう。

天狗族は山を使って連絡を取り合う技術も持っていました。「声」は、それが羽根ラインの原型であると言います。ご存知のように、羽根ラインは奥能登の大室山、富山市の呉羽山、それに岐阜県の位山を結んだラインでもありましたね。

やがて天狗族の一部が理想を求めて、あるいは冒険心から大陸へと渡ります。中には日本列島に残った人たちもいたようです。大陸に出て行ったグループが、アマ族、つまり武内宿禰さんがいうところのシュメール人となった人たちだと思うんですね。そのアマ族の人たちは二つのグループに分かれて、何世紀もの放浪の果てに紀元前4,5世紀ごろ日本に戻ってきたのではないかという説はご紹介したとおりです。ただし、大陸に渡ったアマ族のうち、今から5000年前の紀元前3000年ごろに日本に戻ってきたグループもいたのではないでしょうか。

アマ族の人たちが紀元前4、5世紀に日本に戻ってきたときには、ごく少数の天狗族と多数の縄文人がいたわけですね。アマ族である出雲族と大和族の人たちは縄文人を次々と制圧してゆくのですが、天狗族の人たちは山に隠れて固唾を飲んでその情勢を見守っていたように思うんですね。もちらんアマ族とは同類、同種の人たちですから、彼らが山に暮らしていることを出雲族も大和族も知っていた節があります。私の感触では、ユダヤも天狗族もほぼ同じ立場であり、出雲族や大和族の人たちよりも技術集団の色彩が濃かったのではないかと思っています。
(続く)

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私にはまだ疑問がありました。仮に天狗族という少数の技術集団が古代日本に縄文人とは一線を画して山の中で暮らしていたとしたら、多数の縄文人たちが暮らす場所に地名を残すことはできなかったと思うんですよね。たとえば、羽根という地名です。この地名を後世に残すとしたら、里で暮らしている人々に溶け込まなければできませんね。

すると、インスピレーションはこのように告げます。「だから(縄文人たちは)女性を(山の上に住む天狗族に)ささげたでしょう。ただし(ヤマタノオロチのように)食べたりはしなかったけどね」

おやまあ、このインスピレーションさんがおっしゃることが本当なら、縄文人たちは山にいる天狗族に女性をプレゼントしたことになります。それにより縄文人と天狗族の間に「交流」が生まれ、お互いに行き来できるようになった。そうなれば、天狗族たちの拠点(基地)を示す「羽根」のような地名を残すことも可能だったのでしょう。「声」はそのように言っているようです。

すると、スサノオに退治されたというヤマタノオロチは天狗族だったのでしょうか。それに対して内なる声はこう告げているように感じます。天狗族とは異なり、彼らを真似して人里から離れて棲み、人間に実験をするグループもいたのだ、とか。これは爬虫類系宇宙人のことを言っているのでしょうか。ちょっと謎ですね。そうした「ヤマタノオロチ」のようなグループと天狗族は区別する必要があるようです。

さて、話を元に戻しましょう。鳥居の「居」という字を漢字字典で調べよとのお達しでしたね(笑)。白川静の『常用字解』によると、祖先を祀るとき、祖先の霊の代わりになって祀られる「かたしろ」と、「腰掛」が合体した漢字だそうです。そこから喪に服するときのように、儀礼のときにうずくまる姿勢を指すのだといいます。確かに鳥族や羽根族(天狗族)をうずくまらせた(服従させた)場所を鳥居と呼んだとも解釈できますね。

もちろん、こうした大和族による東西に延びる帯のような「結界」は一朝一夕にできたわけではありません。その後何世紀にもわたる、出雲族の残党をはじめとする不満分子狩り、つまり「蝦夷討伐」の中で作られた結界のような気がします。そしてご存知のように8世紀後半から9世紀初めにかけて桓武が東北に派遣した坂上田村麻呂により、結界は完成をみるわけです。その話は以前、「出雲国譲りラインの謎」として月刊誌「ムー」に書いたとおりです。

その「ムー」ですが、今日(3月9日)発売の四月号に私が書いた「伊豆半島ピラミッド・ラインの謎」が掲載されておりますので、ご興味のある方はお読みください。
(続く)

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大和王朝はこのようにして紀元50年ごろ、神武によって基礎が築かれたのですが、その後も何世紀にもわたって政権内部でいろいろな権力闘争があったようです。そうした話は別の機会にするとして、大和族によるほぼ一方的な「和議」の後、出雲族とユダヤ、天狗族、それに縄文人がそれぞれどうなっていったかを推測してゆきましょう。

まず出雲族ですが、おそらく一部は懐柔され大和政権に組み込まれていったのでしょう。物部氏がその一例でしょうか。元々は出雲族の兵器の製造・管理を主に管掌していたとみられ、その兵器製造の技術力を買われて大和族に重用されたのではないかと思います。後に大和政権の中で、有力軍事氏族へと成長、その軍事的な活躍により政治的地位を固めてゆきました。

一方、最後まで抵抗したナガスネ彦や建御名方のような出雲族の人たちは、徹底的に叩かれました。一部は敗走して、諏訪から関東圏へ逃げ延びましたが、大和政権の支配地域の拡大に伴い東北へと逃れてゆきます。追討の手は緩められることなく、最後は坂上田村麻呂によって壊滅的な打撃をこうむります。

一方、親出雲族派だったユダヤはどうなったのでしょうか。大和政権にとって、ユダヤの持つ測量や石切りの技術は魅力的だったに違いありませんね。重用された人もいたのでしょう。ヒントとなるのは、和議となった紀元50年ごろとほぼ同じ時代を生きていたのであろう五十鈴彦(イエス・キリスト)と石切彦(イエスの弟)のその後でしょうか。

武内宿禰さんによると、五十鈴彦は聖地伊勢の港の管理人で伊勢の磯部家を支配していたといいます。五十鈴彦の紋章は三角形が二つ重なったダビデの星であり、それぞれの三角形は物体と精神を象徴していたそうです。伊勢神宮にダビデの星があるのは、そのためだと宿禰さんは言います。つまり和議の前後、伊勢はユダヤの地だったわけですね。

宿禰さんが伝承した口伝(正統竹内文書)では、石切彦は最後、青森・戸来村で亡くなっています。子供もたくさんいたらしく、その子孫が沢口家となりました。五十鈴彦もやはり、青森を経て、さらには北海道、もしかしたら北アメリカへと渡っていると伝わっているそうです。竹内文書を最初に読んだとき、なぜキリストの墓が青森にあるのかよくわからなかったのですが、出雲族(蝦夷)の敗走先を知ると、合点が行きますね。やはり多くのユダヤも出雲族とともに、北へと逃げたのではないでしょうか。
(続く)



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