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天の王朝

歴史箱

「竹内文書」の謎を解く

歴史の諸々のことについて書きます。
物見岩 高天原(筑波山)

●ラグビーの歴史
攻防

ラグビーの起源については、1823年英国のパブリックスクールであるラグビー校のフットボールの試合中に、当時16歳のエリス少年が興奮してボールを拾い上げて走り出してしまったことが始まりだといわれている。サッカーの試合中にボールを手に持って走り出したからだと覚えている人もいるかもしれないが、当時はサッカーというスポーツはなく、それぞれの学校で独自のルールをもったフットボールが行われていた。

そこでそのルールを統一しようということになり、アソシエーション(協会)が創設され、アソッカー、サッカーと略して呼ばれるようになったのだそうだ。だからサッカーは、正式にはアソシエーション式フットボールという。また、エリス少年の「勇気ある試み=トライ」の後、ボールを手で運んだほうが面白いのではないかということになり、ラグビー校式フットボール、つまりラグビーが誕生したのだ。

今では米国式(アメリカン)フットボールなど、世界中で多くのルールの異なるフットボールが行われているが、フットボールということなら、日本の蹴鞠(けまり)も日本式フットボールであるといえるかもしれない。


●アイヌの歴史1
おそらくアイヌの歴史を知らない人が多いと思うので(私も最近までよく知らなかった)、ニューイングランド(アメリカ)の血塗られた歴史を紹介したついでに、アイヌに対する血塗られた歴史についても触れておこう。

658年に阿部比羅夫による「蝦夷征伐」があったことが知られているが、古くからエゾやアイヌは「まつろわぬ民」として、繰り返し攻撃の対象とされてきた(エゾとアイヌの関係については、同一であるという説と異なるという説がある。いずれにせよ、東北地方にアイヌ語の地名が多く残っていることから、両者は密接な関係があったと思われる)。

『吾妻鏡』などによると、13世紀ぐらいまでは、北海道(夷島)は流刑地扱いされていたようだ。15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになる。和人豪族とその家来、商人らは北海道南部の松前や函館に「道南十二館」と呼ばれる12の砦を築く。

移住してきた和人は、先住民アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。しかし和人はアイヌを「愚直の者」などと呼び見下し、アイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。

1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。その後も和人は、アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。

つまり、「桃太郎」以来、「悪い鬼」を退治するために常套手段として使われている卑劣な詭計が、善良なゆえに「愚直」なアイヌに対しても繰り返し行われたのだ。

●アイヌの歴史2
豊臣秀吉から蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。姓を松前に改めて松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。

松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。

こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。

この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。

18世紀半ばになると、帝政ロシアが千島列島に進出。通商を求めて根室地方にやって来た。北方からの脅威を感じた幕府は、蝦夷地調査隊を派遣。その調査結果をもとに、幕府内では全国の「穢多(エタ)」7万人を移住させ、北海道を開拓すべきだとする計画が立案されたが、推進派の老中・田沼意次の失脚もあり、計画そのものが消滅した。

●アイヌの歴史3
18世紀後半、和人の圧制に対するアイヌ民族による最後の組織的蜂起が起きる。その背景には、国後島や根室地方など北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋による、先住民アイヌに対する暴虐・非道があった。飛騨屋の現場監督は、アイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌは打ち殺したりした。

1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。

事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。ところが松前軍は和人を殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。

これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。

当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。そのほか貴重なアイヌ見聞録としては、菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記2』の中の「えぞのてぶり」がある。

アイヌは1871年の戸籍法公布とともに「平民」に編入されるが、戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされた。翌72年にはアイヌの文化や風俗も取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

こうして生活基盤を奪われたアイヌの中には、生きる望みを失う者も出てくる。生活は困窮し、肺結核や和人が持ち込んだ梅毒が多くのアイヌの生活を蝕んでいった。

●アイヌの歴史4(最終回)
アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあった。法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようだ。この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの生業を営もうとするアイヌにはいっさい援助は出なかった。

ただ、大正期に入ると、明るい兆しも見えるようになる。和人による不当な弾圧・差別に抗議するアイヌの魂の叫びが、本の出版などを通じて取り上げられるようになったからだ。これに伴い、アイヌの文化や言語を守ろうとする動きも出てきた。

こうした動きは戦争で中断されるが、太平洋戦争で天皇制帝国主義が崩壊すると、再びアイヌ解放運動の機運が高まる。世界五大叙事詩のひとつであるともされるアイヌのユーカラも筆録(「金成まつユーカラ集」など)され、人類の貴重な文化遺産はかろうじて「撲滅」を免れた。

さて、時代を少し遡る。
アイヌがクナシリ・メナシの戦いで最後の抵抗を示していたころ、同じような先住民に対する迫害が18世紀のオーストラリアでも始まる。1788年、1044人(大半は流刑囚)の乗ったイギリス船団がオーストラリアに到着、先住民であるアボリジニの土地への侵略と徹底した迫害を白人たちが開始したのだ。

ちょうど和人がアイヌに対してやったように、白人入植者たちはアボリジニを「野蛮人」(本当は白人こそ野蛮人であった)と見下し、抵抗するものは虐殺しながら、入植地を増やしていく。白人が持ち込んだ天然痘のような病気や梅毒によってもアボリジニの人口は激減した。

インディアン、アボリジニ、アイヌといった誇り高き民族がこのころ、地球上で相次いで迫害、虐殺されていたわけだ。

現在、北方領土問題で日本政府は「北方四島はわれわれ日本人の祖先が開拓したわが国固有の領土」などと称しているが、アイヌの歴史を知っているなら、北方領土がアイヌのものであり、つい二〇〇数十年ほど前に和人が侵略、強奪した島であることを認めざるをえないだろう。真実の歴史を直視する能力があるなら、北方四島はアイヌにこそ返されるべきである。

アイヌの虐げられた歴史については、ホームページ「アイヌと日本人」http://www.tcn-catv.ne.jp/~ikenobunko/sub2.htmが詳しい。今回の「アイヌの歴史」に関しては、花崎皋平の『島々は花綵』やブリタニカ大百科事典などを参考にした。

●徐福伝説の謎
11月20日東京・銀座で開かれた日本徐福会(早乙女貢会長)主催の文化講演会「徐福論――なぜいま“徐福”なのか」(講師:逵(つじ)志保・愛知県立大学文学部非常勤講師)にちなんで、徐福伝説について書きます。

徐福とは今から約2200年前、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の妙薬を求めて日本に来たのではないかとされる人物だ。実在したことはほぼ間違いないとみられるが、本当に日本に来たのかは判明しておらず、その部分が伝説として残っている。

徐福については、司馬遷『史記』秦始皇本紀第六に出てくる(訳は逵志保氏)。
始皇帝28年(B.C.219年)
 斉の国の方士徐福(徐市)は始皇帝の命を受け、東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛洲)に、童男童女数千人とともに不死の薬を求めて船出した。ところが薬を入手することなく帰ってきた徐福は始皇帝に進言、再び良家の男女子三〇〇〇人と五穀の種や百工(技術者)を用意させた。徐福は渡海し、平原広沢を得て王となり帰らなかった。

ここで妙なのは、始皇帝の命に反して徐福は二度と帰ることがなかったのに、どうして渡海先で王になったことがわかるのかということだ。可能性としては三つぐらいある。司馬遷がただ風説を歴史として書いた、徐福の船団の一部が徐福が渡海先で王となったのを見届けて中国に帰って報告した、そして、後に徐福が王となった国に渡った中国人が帰ってきてそのように伝えた、の三つだ。

歴史を書くからには、情報の出所を書くのが鉄則である。歴史家ではないが、哲学者のプラトンのアトランティス伝説でさえ、エジプトの神官から聞いた話として紹介している。そもそも王となったと書くからには、どこの国で王となったかをはっきりと書いてほしかったが、司馬遷が正確に歴史を記述してくれなかったため、多くの謎と伝説を残してしまった。

お気づきのように司馬遷の記述には、日本へ行ったなどとは一言も書いていない。ではなぜ、日本に行ったという伝説が生まれたのか。昨日の講演では、その点についてよくまとめていたので紹介する。

逵さんによると、「後日談」として徐福が日本へ渡来したことが出てくるのだという。しかし、それは徐福が渡海してからなんと1000年以上も経った958年、釈義楚『義楚六帖』21に出てくる記述で、徐福が日本へ行ったと日本の僧から聞いたのだという。その真偽はよくわからないが、少なくとも一〇世紀には日本で徐福来日伝説が出来上がっていたことになる。

さらに1376年の絶海中津「應制武三山」では、絶海が明の太祖に面会を許されたとき次のような句を交わしたのだという(訳は逵志保氏)。
絶海
熊野の峰前 徐福の祠
満山の薬草 雨余に肥ゆ
只今海上 波濤穏やかに
万里の好風 須らく早く帰るべし

大明太祖高皇帝
熊野の峰高し 血食の祠
松根の琥珀 也た肥ゆべし
当年 徐福 僊薬を求め
直に如今に至るまで 更に帰らず

つまり一四世紀には、日中両国において徐福が熊野に渡ったという伝説が共通の認識としてあったことになる。

逵さんによると、日本の徐福渡来伝承地は熊野を含め、全国に二〇数箇所あるという。このうち熊野の波田須の楠の下には徐福神社があり、そこからは秦の始皇帝の時代の古銭が多数(現存は一枚)見つかったという(発掘状況が不明瞭なため物証にはならないらしい)。

面白いのは、徐福のことを天皇家の祖先である神武だと信じている中国の人が多いということだ。当時の中国の軍事・科学技術力をもってすれば、弥生時代に日本で王になるのも難しくはなかっただろう。ただし表向きには中国の人も「徐福は弥生時代に日本に渡り、日本各地に中国文化をもたらした」としか言わない。

確かに、神武東征の神話では、神武は大和地方のニギハヤヒの軍に一度敗れ、今度は東側から攻めようと熊野から大和に向かったとされており、徐福伝説とダブル部分がある。もっとも、神武は実在したかどうかもわからない人物で、徐福も日本に渡来したかどうかわからない人物だ。伝説と伝説を結びつけても、歴史は生まれないと言われれば、それまでの話かもしれない。

●八切史観

八切止夫の『天の日本古代史研究』(作品社)に描かれた日本の歴史は、非常に面白い。多分に感覚的に書かれているので、八切説を証明するのは難しいが、おそらく八切の主張するように、われわれのご先祖様は、黒潮に乗って東南アジア方面からやって来た「天の王朝」の人々だったのだろう。彼らは八幡(ヤバン)と呼ばれた。象徴する言霊は「八」だ。

やがて大陸からやって来た崇神と共存共栄を図り、おそらく白山、飛騨、近江、大和にかけて崇神王朝を形成するが、ヤマトタケルノミコトが中国系の武内宿禰に暗殺されたのを契機に、衰退する。

武内宿禰は彼らの歴史を奪い、日本を植民地にすることに成功した。追われた天の王朝の人々は神奈川を中心に蘇我王朝、加賀を根拠地とする白山王朝の二つに分かれて、失地回復を狙った。古代海人族の富士王朝もあり、日本はいくつもの民族が別々に独立して存在していたようだ。

やがて吉備、中国地方を支配していた中国勢力が、兵庫県をコロニーにしていた韓国勢力とのちに桓武を出す河内王朝と連合軍を組み、中国からの大量の鉄製武器を用いて天の王朝の人々を滅ぼし(桃太郎の鬼退治)、彼らを奴隷とした。

これが学校では教えない真実に近い歴史ではないかと思う。



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