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天の王朝

不思議な世界5

(その64)
超能力者列伝24(北川恵子)

中沢新一の体験が物語るチベット僧の瞑想さながらに、北川は瞑想によってテレパシー能力を高めていったようだ。頭の中で聞こえる声は、段々とはっきりとした、具体的な内容を伝え始めた。意味は難解だったが初期のころは詩のようなメッセージで、次には北川との対話の形式で「声」が話しかけてきた。

北川は複雑な思いだった。「いよいよ精神病患者のようになってきたなと思いながら、しかし、心のどこかでは全くの信頼を置きながら」、「声」と付き合わざるをえなかった。しかも「声」は、北川がやりたくないようなことをやるように、しつこく言ってくる。

そこで北川は一計を案じた。「声」との対話をやめ、「声」の薦めることの反対のことをしたのだ。そうすれば、きっとあきらめて、もっと聖人のような人のところへ行ってくれるに違いないと北川は思った。ところがどんなに「声」を無視しても、「声」は辛抱強く語りかけてくる。一ヵ月後、その熱意に、とうとう北川は根負けした。

観念して付き合うことにしてからは、「本当にびっくりするような事件ばかりありました」と北川は言う。まず、「声」は北川の前世を教えてくれた。そのきっかけは、ある人物が行った瞑想だったという。自分でやる瞑想に比べて、ずうっと深いところまで入っていった。問いに答えるやり方で、北川自身が紙に書いてゆくもので、そのときの答えは北川が想像もしなかったような驚くべき内容だった。

それによると、北川は12世紀にはシナイ半島に住んでいた。そのときの名前はセピアリス。男性だった。両親の名は、父はヨシア、母はアルナといい、兄弟は兄が二人いて、ヘライテスとヨリアルといった。家業は、舟を造る木型をかたどる仕事だった。セピアリス(北川)は家業を手伝っていたが、ある日、乾燥した砂地の丘のような場所にたった一本だけ立っている木の根元に座っていたときに、「神の啓示」を受けて、にわかに病人の世話を始めるようになったという。

セピアリスは、体中におできのようなものができた人達を集めて、治療のようなことをした。30~40センチぐらいの布に黒い薬を塗って、それを人々の患部に湿布薬のように貼ってあげていた。その薬は、4,5種類の薬草をすりつぶして何か独特の方法で発酵させたものだったという。彼は生涯独身で、死ぬまで苦労の連続だったにもかかわらず、幸福だったようだ、と北川は言う。

18世紀のイギリスにも住んでいた。生まれたのは1738年。ジョージ二世が王位にあったときだという。成人してから住んでいた場所はハムステッドという町で、糸の会社に勤めていたらしい。子供も5人いたようだが、不思議なことに自分が男だったか女だったかはわからないという。

名前も思い出せなかったが、魔法名を持っていてアルマ・マグナと呼ばれていた。先生の魔法名はヴァリアノス・トリ・アノス、属していた団体名はオルド・テンプリといった。先生は錬金術と占星学の大家で、北川も当時、相当に魔法の知識があったようだが、何かの理由で先生と喧嘩して団体を出たという。面白いことに、今生でもその先生に会うことになっているのだと北川は言う。
(続く)=文中敬称略

(その65)
超能力者列伝25(北川恵子)

瞑想と「声」によって、北川は自分の前世を思い出した。だが、これにはどういう意味があるのだろうか。北川は「声」にたずねた。なぜ、こういうことを自分に知らせるのか、と。すると「声」は答えた。「すべてが計画の通りに行われているので心配しないように」。

しかし、この答えに納得のいかない北川は、執拗に尋ね続けた。その結果、どうも北川に起こったような霊的な動きは、地球規模の潮流の一つであるということがわかったのだという。

北川は、「声」に教えてもらったことをすべて話すことはできないとしたうえで、次のような警告も発している。特に、霊能者と呼ばれる人の中で、暴利をむさぼっている人に対しての「霊界からのある意味での警告」だという。

それは、神および神霊の名を使って必要以上の物を取ってはいけないということだ、と北川は言う。「必要以上」とはどれくらいであるかは、おのおのの判断にゆだねられているらしいが、北川によると、霊能力は「ただでもらった贈り物」であり、他人のために役立てるためのものである、私利私欲を満足させるためのものではない、霊能力者や超能力者はその人自身が秀でているわけではなく、霊界、神界からの声の窓口、受信機にすぎないのだという。

「声」はまた、次のようにも言った。
あなた方が「神」と呼んでいる宇宙の壮大な意志から見れば、総ての人は宝石であり、各々が光り輝いている。一つ一つの宝石はいずれ劣らず美しい。総ての生きとし生けるものは、「神」の中で呼吸し育つ。総ての命あるものは、「神」の血肉である。自分の血肉に甲乙付けられようか。総て、生あるものは、平等に光を受ける。これは、書かれてある通りである。光を感じ、光を享受する事を忘れた時、宝石の光は失せる。額を光に向けて、生きよ。

やがて、「声」の向こう側にある存在も明らかになってくる。「声」は性質を変え、自己紹介をした。「私は、オリオンM42を中心とし、ペテルギウスを母体とする神霊である。私のコード・ネームはアーリオーン、コード・シンボルは薔薇と鷹を含むヘキサグラムである。私の霊的傾向は『炎』、コード・カラーは燃える赤である」

こうしたコード・ネームについて、秋山眞人が面白いことを言っている。コードを明らかにするのは、実はテレパシーでコンタクトをする場合の礼儀であるというのだ。逆に言うと、コードを明らかにしないのは、一種の「もぐりのコンタクト」となる。秋山にもテレパシー交信があるときは、必ず記号化されたコードが最初に送られてくるのだという。北川にも、これが起きたわけだ。
そして、メッセージは続いた。

光よりの光、オリオンの最上の帯としての光より来たりて伝える。
我が名はアーリオーン、愛と光の天使・・・

以下、メッセージ内容を知りたい方は、『光の黙示録』(大陸書房)、『光よりの光、オリオンの神の座より来たりて伝える。』(南雲堂)、『アーリオーン・メッセージ』(徳間書店)などをお読みください。
(文中敬称略)

(その66)
超能力者列伝26(正木和三)

前世でアトランティスの神官であったという正木和三の周りで起こった超常現象にも触れておこう。正木和三と横尾忠則は「UFO友達」であり、時々会っては情報交換をしていた。そのときのエピソードとして、次のようなことがあった。

1986年9月15日、横尾は夢を見た。
1997年のある日、アメリカの巨大航空母艦が大洋で事故を起こし、2000人の人命が危機にさらされるが、そのときUFOが彼らを救助するというのだ。横尾によると、それは一般的な夢のようなビジョンを伴わず、強烈な印象(感応)だけの「夢とも啓示とも分からないようなもの」だったという。そのことを、夢の中で横尾の長女に話しかけると、長女は「しゃれてるわね」と言ったのだという。

これだけなら不思議な夢で済ますことができたかもしれない。しかし同じころ、正木和三も1997年にアメリカの航空母艦が事故を起こして沈みそうになりUFOが来て助けてくれるという情報を、「宇宙生命体」から聞いていたのだ。全く別々の場所で異なる人物が同じ情報をテレパシーによって得ていたことになる。正木と横尾はこのことについて話し合った。11年後にいよいよUFOと地球人の間のオープンなコンタクトが始まるのではないか、と。

21世紀になった現在、1997年にそのような事故があり、UFOが助けに来たなどという話はついぞ聞いたことがない。実際に起こらなかったのか、あるいは起こっても伏せられたのかは、私は関知していない。

ただ言えるのは、1986年当時、そのようなテレパシー交信が地球人に向けて発せられた可能性があるということだ。仮にそれが宇宙人側からの地球人へのメッセージであったとしたら、当時そのような未来が実際に起こりつつあったか、あるいはそのような方向性をもったメッセージを送信することによって地球人の覚醒を促したかの、どちらかであろう。

私は、その答えは後者だったのではないかと考えている。宇宙人側は1997年をよりオープンなコンタクトを開始する年として位置づけていたような気がする。当時、ノストラダムスの予言関連で1999年に何か起きるのではないかとの不安感が増し、世紀末に向け地球人の波動が悪い方向へと向かいかねなかった。その誤った波動を是正するために、宇宙人たちはより一段階進んだコンタクトに移行しようとしたのではないだろうか。

そのころのコンタクティたちの動きは、それを裏付けている。たとえば、北川恵子と交信していた宇宙神霊(ウツノカムヒ)アーリオーンは1996年11月、それまで難解だったメッセージの謎解きをする本『アーリオーン・メッセージ』を北川らに出版させ、来るべき地球大変動に備えて地球人(とくに日本人)に早く覚醒するよう促している。

そして、それまでの宇宙人との体験の記録を公表するように要請された秋山眞人は1997年4月、『私は宇宙人と出会った』を出版した。すでに述べたが、秋山によるとそれは、「1997年という年が、私たち人類にとって大きな節目」だからであり、公の場で宇宙人とコミュニケーションしている事実や内容を積極的に公表・開示する必要があるのだと宇宙人が言ったという。

1980年代後半には、日航機長と開洋丸乗組員にUFOを相次いで目撃させた。90年代後半には、それまで水面下で進められていた宇宙人とのコンタクトをよりオープンに、かつ具体的に明らかにするという試みがあった。あくまでも推測にすぎないが、すべてが宇宙人側の綿密な計画のもとに進められているように感じられる。それも直接的で早急な計画ではなく、ゆっくりと潜在意識に働きかけるような計画である。正木和三もまた、その計画の中で重要な役割を果たしたことは、まず間違いないであろう。
(続く)=文中敬称略

(その67)
超能力者列伝27(正木和三)

人の一生は、ほんのちょっとしたきっかけでガラっと変わるものだ。ときには天と地がひっくり返るほど激変することもある。正木和三の後半生は、まさにそうした人生であった。

正木は戦前、戦後を通じて、ずっと理工系畑を歩み続けた。専門はエレクトロニクスだが、大阪大学工学部で航空工学、通信工学、造船工学など幅広く学び、同大医学部では神経や筋肉の研究に携わるとともに低周波治療器を開発。1970年には同大工学部工作センター長(工学博士)に就任した。

科学万能主義の申し子のような研究・発明家で、神仏は全く信じず、この世における現象はすべて物理的に説明できると豪語していた。つまり、早稲田大学の大槻教授を思い浮かべるといいだろう。すべての現象を放電現象などの物理的現象で説明できると信じているような人物であったわけだ。

しかし、そのような「物理一辺倒」で頭は「石よりかたい」という正木を、根底から揺るがす現象が起きた。1972年3月7日、テレビで念力によりスプーンを曲げるという番組をやっていたのを見て苦々しく思い、「そんな馬鹿なことがあるものか」と電話で抗議、ついには自分で開発した「金属ひずみ計測器」を持ってテレビ局に乗り込んだ。

番組として公開された実験では、スプーンの首のところに10万分の1のひずみでも検出できる「ストレーンメーター(ひずみ計)」を貼り付け、スプーンに触れることなく念を込めるだけでひずみができるかどうかを測定した。「超能力者」が念を込めるが、一向に曲がらない。アナウンサーは「曲がりませんね」と説明するが、正木はその言葉とは反対に驚愕の事実を目の当たりにしていた。メーターには1万分の3だけ曲がったことが示されていたのだ。

次に、スプーンを空中に放り投げて曲がるかどうか測定した実験では、床に落下したときの衝撃とともに1000分の1のひずみが発生したことをメーターは示していた。その程度のひずみは目に見えないので、テレビを見ていた人は、実験は失敗したと思ったはずだと正木は言う。「しかしわたしにとっては、天地がひっくり返るほどの事件となったのです」

人が思うだけで金属が曲がってしまう。それがたとえ1000分の1であろうと、1万分の1であろうと、物理的な力を加えることなく、思念によって物理的な変化が生じることはありえないことだった。正木は、これまで工学部で学習してきたことが根底から崩れ落ちていくのを感じた。
(続く)=文中敬称略

(その68)
超能力者列伝28(正木和三)

スプーン曲げによって、自分がそれまで信じていた物理の法則が通用しなくなったことに仰天した正木和三は、今度はこの現象を解明しようと躍起になった。最初は大槻教授と同様に静電気などで説明を試みようとしたが、どうも説明がつかない。1973年からは、工学部の学生を集めて、超能力実験を開始。不思議な能力がある大脇一真という近所の小学生にも実験に参加してもらった。

大脇一真はいろいろな不思議な現象を引き起こした。大脇の右手に画用紙とクレパスを持たせ、走りながらそれを上に投げ上げさせる。すると空中で、画用紙に文字と絵が出現するのだ。そこに書かれた文字や絵は力強く、10万分の1秒ぐらいの瞬間に出現する。それを何百人もの人が目撃した。

ある時は、正木が作った代数の問題を大脇一真に空に向かって投げさせ、「答えになれ」と叫ばせた。その瞬間、空中で二つの式の答えが発生した。長さ1・5メートルぐらいのボール箱を宇宙人になれと言って、マジックペンと一緒に投げさせたときは、不思議な形の人が描かれていた。赤と緑のクレパス二本と紙を空に向かって投げさせたときは、花は赤色で葉と茎は緑色で描かれたチューリップが出現した。

そのほかにも大脇一真は、トランジスタでつくった低周波発信器の周波数を、念力で変化させることにも成功した。メーターを取り付けピアノ線に向かって曲がれと叫ぶと、ピアノ線が2・5ミリ長くなった。通常ピアノ線をそれだけ伸ばすには、約2トンの力で引っ張らなければならない計算だという。

公開実験だけでもこれだけの現象が起きたが、正木と大脇一真が二人だけでやった実験では、もっとすごいものがあった。物体の瞬間移動である。ボールを空中に投げて消滅させ、思う場所へ移動させることもできた。ボールを坂道の高いほうへ念力で転がしたり、コップを壁に投げつけ、当たる直前に消滅させたりすることにも成功したという。

この実験の過程で、正木はある法則に気づく。実験はいつも100%成功するわけではなかった。しかし、成功するときには、ある条件が必要なようだった。たとえば、大脇一真がテレビカメラの前で何かをやろうとすると、「やってやろう」という欲望がわき、できなくなることがあったからだ。

正木は大脇一真に言った。「君がやろうと思っても、君の肉体が空中で絵も字も書けるはずがないのだよ。君がするのではなく、君の中にいる生命体(支配霊)がしてくれるのだから。君の中にいる生命体にやってくださいとお願いしなさい。そして撮影されていると思うと欲望が湧くから、目をつむってやりなさい」。大脇一真がその通りにやると、何回でも紙に絵や文字が現れ、それがテレビに放映された。

また、大脇一真の家から2キロ離れた正木の自動車の中に物体を飛ばす実験のときは、「移動した」と完了形で思っただけで、実際に車内にその物体が出現していたこともあったという。これらのことから「人が思う、それも欲望をもたず、完了形で思うと、そのとおりのことが事実として現われ」てくる、そういう宇宙の法則があるのではないか、と正木は言う。
(続く)=文中敬称略

(その69)
超能力者列伝29(正木和三)

ミイラ取りがミイラになるとはよく言うが、正木和三の場合は超能力の謎を解こうとするうちに、何と自分が超能力者になってしまったケースである。

その転換期は、1975年1月1日未明に突如、幽体離脱を体験するという形で訪れた。スキーをするために、家族と信州・熊の湯の旧国鉄山の家に宿泊中のことだ。元日の午前1時に目を覚まし、温泉に入って自室に戻ったときに、正木に初めて幽体離脱現象が起きた。

信州に肉体を置いたまま、正木の幽体は南へと飛翔した。どのくらい飛んだのだろうか。空から下を見ると、小さい丸い島があり、海岸に龍が2匹いるのが見えた。正木はそこに着地してみることにした。

大きな木がある海岸を岬のほうへ歩いていくと、二本松が見えた。そのすぐそばの海面からは、50メートルはあろうかという、大きな金色の龍が立ち昇っている。瞬間、光る片目で正木をにらんだ。正木はそのときのことをこう書いている。

「生きている龍を見るのははじめてです。私に絵が描けたらこれを写生するのだが、と思いました。それからさらに歩いていくと、ちいさな社があって、その付近の一木一草までいまでも目の底に焼きついています」(『驚異の超科学が実証された』)

この幽体離脱体験から数ヵ月後、知人と名古屋から新幹線に乗り東京方面へ向かっているとき、その話をした。するとその知人は、ちょうど車窓から見える景色を指して、それは蒲郡の竹島ではないかと言う。

正木はその言葉を信じて、東京からの帰りに蒲郡の竹島に寄ってみることにした。ところが竹島に渡っても、松の木がない。やはり場所が違うのかなと思いながら島の南端まで行くと、何とそこには幽体離脱したときに見たのと同じ二本松がある風景が現われた。松の根元には「龍神の松」の石碑と、白龍王を祀った小さな社も立っていた。

宮司に聞くと、何でも3000年ほど前、竹島に母親の白龍と二匹の子供の龍が住んでいた。あるとき、この近くの人の目が見えなくなり、お宮さんに願をかけたところ、母親の白龍が子供の龍の目を一つだけあげるとのお告げがあり、目が見えるようになったそうだ。

このことがきっかけとなって、正木の周りには不思議な現象が次々と起きるようになったという。まず、真珠や仏像、大黒様や恵比須様の木彫りの像が目の前に出現するようになった。こうなっては無神論者の正木も神仏を信じないわけにはいかなくなった。そしてとうとう「神の啓示」もあったと正木は言う。

正木によると、天空より声が響いてきて、こう言ったという。
「汝、神仏の存在を信じることができうれば、本日をかぎりとして、神仏に対する依存心を捨て、自己の力のみにおいて生きていくべし」
「神仏は人間の願いは、いっさい受け付けない」
「神仏に願いたいことあらば、願いを忘れて過去完了形で思えよ」

無神論者から有神論者になった正木に対し、最後には神の存在を信じる無神論者になれと声は言う。矛盾しているようだが、「ゼロ次元のゼロと九次元のゼロは、同じ『0』でも次元の違うことを、はじめて悟った」と正木は言う。
(続く)=文中敬称略

(その70)
超能力者列伝30(正木和三)

正木和三の不思議な体験のうち、仏像や真珠、大黒像が現出する現象がいちばん理解するのが難しい。一体、誰がどうやって、そのような現象を引き起こしたというのだろうか。正木の言うことをそのまま信じるならば、神や仏がやったことになる。

実はこれと同じ現象が横尾忠則にも起きている。横尾は何度も正木から大黒様が空中から出現する話を聞かされていた。それは正木に会った次の日のことであった。行きつけの寿司屋に2,3人の人たちと行き、座敷に上がろうとした瞬間のことだった。『私と直感と宇宙人』の中で、横尾はそのときの様子を次のように書いている。

「ピカッ」と小さな物体が横尾の足元の中空で光ったかと思うと、ポトッと音がして金色に輝く金属のようなものが畳の上に転がった。そばにいた女主人は思わず「キャッ」という声を上げたほど、それは突然で一瞬の出来事だった。横尾が拾い上げてよく見ると、それは神社で引くおみくじなどに入っている小さな大黒様であった。

横尾は早速その晩、正木に電話をして、その出来事を報告した。電話口の向こうで正木は言った。
「ああ、よくあります。全然不思議でも何でもありません。あなたの波動が顕現させたんでしょう」
「何のために現われたんですかね」と横尾が訊いた。
「あなたの寿命が長くなった印のために現した、とたった今神様が私におっしゃいました」と正木は答えた、という。

正木に話しかける神とはどのような存在なのか。私は正木に聞いたことがある。
「それは高次元の宇宙生命体のような存在ですか」
「そうともいえるでしょう。私の言う神とは、神社仏閣のものではなく、自分の中にしか存在しない神のことです。私は60歳ころまで、この世に神仏などいないと確信をもっていましたが、ありえない数々の超常現象によって、神の存在を認めざるをえなくなったのです」

自分の中にしか存在しない神――。正木はそれをただ「生命体」と呼ぶこともある。おそらく、過去から未来にかけてのすべての自分(自我)を統制するといわれる「ハイヤーセルフ(超自我)」のような存在であるのだろうか。あるいは秋山眞人にコンタクトした宇宙人が言っていた「科学的に突き止められた神」であるのかもしれない。

いずれにしても、正木の中に存在する神(生命体)がそうした像を造りだすのだという。そして、その神は、正木に宇宙の法則を教え、数々の奇跡を起こさせた。
(続く)=文中敬称略

(その71)
超能力者列伝31(正木和三)

正木和三の中に存在する神(宇宙生命体)が一貫して言っていることは、非常にシンプルで明快である。目先の欲望や執着を捨てて過去完了形で願えばこの世に不可能はない、ということだ。古神道の御鏡御拝之行法に通じるものがある。鏡を直視して自分の中にある神性を拝む。無私の自分が映るまで拝む。すると「我(ガ)」がなくなって、鏡(カガミ)が神(カミ)になるという象徴的な行法だ。

この考えは面白いことに、秋山眞人や北川恵子といった超能力者に共通する主張でもある。たとえば秋山は、スプーンを念力で曲げるとき、曲がってほしいと念じるよりも、スプーンがすでに曲がった状態を思い浮かべるとうまくいくと話している。テレビカメラの前で、あまりにも曲がってほしいと執着したり、自分が曲げてやろうと意識したりすると、全然曲がらないことが多いという(次に紹介する清田益章も同じような事を言っている)。

北川が受け取ったメッセージにも同様なものがある。それは人間が修行して神霊と話したいと願っても無理だという内容で、次のようなものだ。
「人間界の修行のみでは、神霊界への橋渡しを請願する事は不可能であり、むしろ、修行で培われる忍耐や、もろもろのものを忘れ去った時にこそ請願が通る事が多い」
つまり、願いは忘れたころ(執着がなくなったころ)に叶うことが多いという。

私にも思い当たる節がある。私は茨城県に住む画家の海後人五郎宅で、北川恵子とともに木と紙をくっつけるという実験をやったことがある。木は静電気が起きづらいので、プラスチックの下敷きと紙のように簡単にくっつくことはない。しかも、こすらずに紙と木を近づけた場合は、まずくっつかないはずだ。

ところが、海後が造った木彫りの「超能力開発装置」は紙を吸い付けるというので二人で試してみた。北川も私も最初は紙が吸い付かないが、ある瞬間に紙を吸い付けることに気が付いた。頭を空っぽにしたとき、あるいは欲がなくなった瞬間に、紙が木に吸い付くようにくっつくのだ。「くっつけ、くっつけ」と念じているうちは、木と紙はくっつかない。秋山が言うところの「緊張後のリラックス状態」になると潜在能力が最大になるという経験則とも合致するようだ。

正木はこの無欲の能力を使うことにより、1977年10月に実施された関西シニアゴルフ選手権で優勝することができたのだという。その日、正木は第一打を打とうとしたとき、インスピレーションが浮かんだ。
「汝のゴルフ場は足許一メートル四方だけである」
それは神の啓示のようでもあった。正木はこの言葉により、ゴルフの真髄を悟ったという。飛ばそうとか、グリーンの旗のそばに寄せようとか欲に支配されると、必ず失敗する。目の前に川があろうと、池があろうと、バンカーがあろうと、ボールの飛ぶ空中とは何の関係もない存在である。足元にこそ、すべての答えがある。

正木はゴルフ場での「神の啓示」について次のように語っている。「目前の欲望を捨てて、自分のすべきことを黙々とやっておけば、大きな成果が自分のものとなることを(ゴルフを通じて)教えて」くれたのだ、と。
(続く)=文中敬称略

(その72)
超能力者列伝32(正木和三)

不思議な出来事が起こるはるか以前から、正木和三は発明家でもあった。正木は子供のころから電気が好きで、17歳のとき自己流のウソ発見器を発明、地元の警察署に持っていき、実験をしてみせたこともあった。大阪大学時代も、超音波コンクリート厚さ計、金属探傷器、飛行機用の熱線風速計など多くの測定器をつくった。

正木はそうした研究用の機材だけでなく、瞬間湯沸かし器や自動炊飯器、自動ドア、エレキギターを発明し、それらを無料で公開した。つまり特許料を一円も取らなかったのだ。この金儲けのためではない数々の発明のおかげで、寿命が延びたのだと、正木は言う。

その「寿命が延びた」という話を紹介する前に、正木がインスピレーションによって発明した人間測定器「フーチパターン」について説明する必要がある。それは1973年3月7日、大阪大学キャンパス内で正木が学生食堂を出て工作センターの自室へ戻る途中のことだった、と正木は言う。
「棒磁石を芯にした振り子をつくれ」という強烈なインスピレーションが不意に湧いたのだ。

思いもよらない突然のひらめきではあったが、正木にはお手の物であった。早速、ベークライトの棒の中心に3ミリぐらいの穴を開け、中にマグネット棒を差し込み、上端を銅線で吊り下げるようにした。わずか間ほどで「棒磁石を芯にした振り子」が出来上がった。

ところが、何に使うかわからない。正木は何気なく、振り子を右手に持ち、左手の甲の上に吊るしてみた。しばらくすると、振り子は左右一直線に揺れ出した。「これは不思議だと思って、近くにいた人に手を出してもらい同じことをすると、私とはまったく違う振れ方をするのです」と正木は言う。

これこそが、正木が編み出した人間測定器「フーチパターン」が誕生した瞬間であった。フーチとは神の占いという意味だという。

正木はこれを3ヶ月間、300人以上の人に実験し、確率的に、あるパターンの人はどんな人格の持ち主であるかということを知るようになった。正木はさらに三万人以上の人を測定した結果、人間性だけでなく、その人の適職、病気、交通事故の有無、恋人との相性や前世の関係までも分かるようになったとも言う。

ただし、この測定のときも、頭から雑念や先入観を取り除き、無念無想の無我の境地に入る必要があるようだ。正木によると、そのような状態になったとき、振り子の磁石の周辺から輝くような白色光または黄金色が発するようになり、胸にあるショックを感じ、磁石が動き出すという。

そして正木は、フーチパターンを分析することによって自分の死期をも知ってしまったのだという。
(続く)=文中敬称略

(その73)
超能力者列伝33(正木和三)
自分の死期を事前に知り、その予言通りに亡くなったケースは世界でも多くあるようだ。有名なところでは、エマニュエル・スウェデンボルグが自分の死ぬ日にちを予告した手紙を第三者に送り、実際にその日に「霊界へと旅立って」いる。スウェデンボルグによると、霊界との交信により容易に死期を知ることが可能なのだという。

16世紀、当時最高の占星術師といわれたノストラダムスも、多くの事件や人々の死期を予言、実際に的中させたとされている。以前紹介した竹内巨麿の4男高畠吉邦も知人の死を事前に知ることができたために、「誰々さんに会っておきなさい」と、知人が死ぬ前に面会しておくように妻に言うのが常であったという。人には天の法則によって決められた寿命があるのだろうか。

その日は1979年2月であった。これはフーチパターンによって知った「正木の寿命が尽きるとき」だった。「死因」は心臓発作。正木はそれを約6ヶ月前に知った。当時、正木は肝臓をわずらっており、医者から治療を勧められたが、それも断った。死期を知った正木は、ますます目先の欲望に拘らなくなった。

死期が迫っていても、別にそれをそのまま寿命だと受け止め、欲望をすべて捨て去ってしまった正木に、1979年の元旦の朝、生命体からのメッセージが届く。
「汝は永年にわたり、陰徳を積みたるがゆえに、汝の寿命を延ばし、汝に力を与える」
正木は最初、どのような陰徳を積んだのか分からなかった。その後、生命体から、瞬間湯沸かし器や自動炊飯器など数々の発明をしながら、自分は一円の収入も得ず、多くの人々に喜びを与えたことが陰徳であることを知らされたという。

正木にとって、発明によって特許権を行使し、カネを儲けるなど、ほとんど考えられないことであった。あるとき電機メーカーの関係者に、正木が約3000件にも上る自分の発明特許を無効処分にしなければ4000億~5000億円の特許料が入ったのではないかと言われて、正木はこう答えた。「そんなお金なんかいりません。生活できるだけのお金があればいいのです。それに私は瞬間に発明ができます。瞬間にできるものでお金はいただけませんよ」
正木の寿命は先に延びた。

秋山眞人も表現は違うが同じようなことを言う。「徳を積むとは、結果的に自分の得になることをすることなのです」。つまり、人のためになることをするという徳は、めぐりめぐって自分の得になる、情けは人のためならずという宇宙の法則が働くということのようだ。

正木はほかにも、作曲も演奏も学んだことがないのに、作曲しピアノを弾いたり、習ったこともないドイツ語を完璧に理解したりするなど、数々の不思議な体験をしているのだが、話がまた長くなるので、ここではそれに触れない(アトランティス語で会話した話は「アトランティスの記憶」シリーズをお読みください)。

ただ最後に、正木が生命体を通じて得た次のようなメッセージを紹介しよう。

水をかぶったり、お経をあげたりするのは、自分のための修行であって、自己満足にすぎない。本当の修行とは、欲望を捨て自分以外の人々に喜びを与えることである。すると、人々に喜びを与えたエネルギーが、高次元の生命体となって自分の肉体の中に入ってくるのだ。
(文中敬称略)

(その74)
超能力者列伝34(清田益章)

正木和三が物理学至上主義を捨てるきっかけになった念力によるスプーン曲げは1970年代前半、ユリ・ゲラーの来日とともに社会現象にまでなった。このブームの最中に登場した「驚異の超能力少年」の一人が、秋山眞人の親しい友人でもある清田益章だ。

残念ながら、筆者は清田を直接取材したことはない。ただ、映画監督の長谷川和彦からは「あいつは本物の超能力者だ」とは聞いている。長谷川の目の前で、楽々と念力でスプーンを曲げて見せたのだという。

清田の超能力はかなり強烈だ。もちろん、清田クラスの超能力者は世界中に大勢いるのだろうが、表舞台にはあまり出てこない。清田はテレビにも積極的に出演、日米英の大学など多くの研究機関に呼ばれて超能力実験に参加したという意味で、ユリ・ゲラーらとともに、世界でも有数の「公然たる超能力者」であるといえる。

清田が超能力少年としてデビューしたのは1974年、小学校6年生のときだった。自宅で、ユリ・ゲラーがスプーンを曲げたり折ったりしていた番組を家族と一緒に観て、驚いた。といっても、スプーンが曲がることに驚いたのではなく、「あれくらいのことをするだけでテレビに出られて、しかもそれを観ている人たちが驚いて大騒ぎをしていることに驚いた」のだ、と清田は言う。

小さいときから針金を念で曲げたり物を移動させたりしていたという清田にとっては、スプーンが曲がることはごく当たり前のことだった。スプーンが曲がるのは「不思議なことだよ」と言う父親に対し、「これくらいのことだったらボクにもできるよ」と清田は言うと、フォークを持ってきて曲げてみせた。

それからというもの、近所の人たちが集まってきて騒ぐようになった。やがて、新聞記者が取材に訪れ報道されると、テレビ番組でも取り上げられるようになり、一躍「スター」となった。超能力少年清田の誕生だ。清田の絶頂期は何年も続いた。

しかし清田には、落とし穴が待っていた。70年代には、あれほど清田を「超能力少年」としてもてはやしたメディアが、あるテレビ局が「清田はインチキだった」という内容の番組を1985年に全国放送したことをきっかけにして、露骨に清田バッシングを始めたのだ。その番組の中で清田は、確かに腕力を使いながらスプーンを曲げていた。しかし、腕力を使わずに念力で曲げたスプーンはいくつもあったのだ。

テレビ局の意図は明らかだった。清田がインチキであるほうが、見飽きたスプーン曲げよりも、センセーショナルになるからだ。

清田は失意のどん底に突き落とされた。
(続く)=文中敬称略

(その75)
超能力者列伝35(清田益章)

絶頂から奈落の底へ――。マスコミによって時代の寵児となった清田益章は、そのマスコミによってペテン師の烙印を押された。おそらく、裏切られたと痛切に思ったのではないだろうか。長谷川和彦によると、インチキ扱いされた清田益章は一時、自殺を考えるほどに落ち込んでいたという。秋山眞人もそんな清田を見て「胸が痛んだ」と振り返る。

しかし、清田はたくましかった。彼の能力を知る多くの人からの励ましを受けながら、清田自身も立ち直って、講演活動やタレント活動を再び積極的に始めたのだ。もちろん、スプーンも曲げ続けた。そこには「エスパー」と名乗れる清田がいた。

清田がスプーンを曲げる方法は変わっている。清田によると、すべての物質は生き物であり、心がある。だから、スプーンを曲げるときも、生き物であるスプーンに語りかける。「お前、少しやわらかくなってくれないか。ここでお前が曲がってくれたら、俺の力の証明にもなるし、お前もずいぶん有名なスプーンになれるんだから、曲がる気があったら曲がってくれ」「スプーンちゃん、お願い、曲がって」などと言う。

スプーンを物としか思えないうちは、どんな風に曲がるのだろうなど余計なことを考えてしまうが、これが生き物だと思えば、曲がり方などはすべてスプーンに任せればいいという。つまり、清田はスプーンが勝手に曲がってくれるのを信じて待つだけなのだ。仮に曲がらなかったら、それはスプーンのせいにすれば、自分の力のせいにしなくてすむと清田は考える。逆に、自分とスプーンの間に心が通じ合えば、スプーンは必ず曲がってくれるという。

清田はほかにも、スプーン曲げの「極意」をいくつかもっている。一つは頭の中に白い玉を思い浮かべる方法。白い玉のイメージが鮮明に見えてきたら、「この白い玉は自分の中の心の力の集まったものだ。この白い玉がすべてをやってくれるのだ」と自分に言い聞かす。

そして、その玉を頭の中からゆっくりと下ろしてゆき、のどの真ん中まで下ろしたところで一度止め、玉を二つに分裂させ、それぞれを両腕に流し込んでいく。さらに手の先まで少しずつ玉を下ろし、最後にはその玉がジワーッとスプーンを包み込み、中に入っていくというイメージを浮かべる。曲げたいという意識を白い玉に置き換えて、何度も繰り返すとスプーンはやがて曲がるという。

「曲がれ」と言葉に出しながら、既に曲がっている状態をリアルにイメージして曲げる方法もある。清田によると、「曲がれ」という言葉だけでは、どの方向にどのくらいの角度で曲がるかの情報が欠けている。その不足した情報を補うために、具体的に曲がったイメージを与えると、スムーズにスプーンが曲がるのだという。

具体的に曲がったスプーンをイメージするという方法は、過去完了形で欲を持たずに願うとかなうという正木和三の主張に通じるものがある。おそらく、正木が言っているように、直接自分が曲げるのだと思うと力み(欲)が出るため、白い玉やスプーンといった「他者」に自分の願望を置き換えるという作業をする必要があるのだろう。やはりここにも、「自分がやる」という自我や欲求が消えたときに願望が成就するという宇宙の法則が働いているように思えてならない。
(続く)=文中敬称略

(その76)
超能力者列伝36(清田益章)

清田が得意とする超能力は、なにもスプーン曲げだけではない。念写も事実上、清田の独壇場である。

念写とは、写真乾板を露光することなく物や文字をその上に写し出す現象。日本の超能力研究の草分け的存在である福来友吉博士が、1929年にロンドンで開かれた国際心霊主義者会議で発表し、名声を博したことでも知られる超能力現象だ。

清田の念写については、『超能力野郎――清田益章の本当本』の中で福田豊・日本写真家協会理事と清田の父親が詳しく書いている。それによると、念写を頻繁にやるようになったきっかけは、大脇一真がやったような白紙の紙とボールペンを放り投げて字を出現させるという超能力だった。

清田がまだ12歳のとき。電気通信大学の実験で念写を初めてやった翌日、味をしめた清田は父親に「念写をするからポラロイドカメラを買って」と頼んだ。しかし、父親の返事は「もう少し待て」。そこで清田は父親の目の前で、ボールペンを持ってきてそれを封筒に封入、天井まで投げ上げた。落ちてきた封筒を見てみると、封筒の外側に「お父さん、ポラロイドカメラ、かえ」と書かれていた。

こうなってはカメラを買わないわけにはいかない、と父親は考え、清田にポラロイドカメラを与えた。清田は水を得た魚のように喜々として念写を始めた。清田が「アメリカ写れ」と言ってシャッターを押すと、自由の女神が映っている。しかもビルの上に立っており、それを上空から写した構図になっていた。

念写をするようになってから約1週間後、福田豊が仏文学者で詩人の平野威馬雄夫妻と東京・北千住にある清田の実家を訪ねたときには、次のようなことが起きた。学校から帰ってきた清田は目ざとく、福田が持ってきた、自分のものと同じポラロイドカメラが卓上にあるのを見つけた。清田はそれを手にすると、数歩後ろに下がり間合いを取ると、平野夫妻に向けてシャッターを切った。撮り終えた清田は大きく深呼吸をした。

皆が固唾を飲んで見守る中、30秒後に取り出したフィルムには、何と常磐線北松戸駅の風景が写っていた。それだけではない。そこには平野夫妻がベンチに並んで腰掛けて電車を待っている姿が「極めて明瞭に」写っていたのだ。ホームに落ちていた小さな紙くずまでも写っている。平野夫妻が北松戸駅にいたのは約2時間前であった。しかも、2時間前にこのような構図の平野夫妻を撮るためには、ベンチに平行して走る二本のレールのうち遠いほうのレールの上約3メートル付近に「カメラを空中浮揚でもさせないかぎり不可能」であった、と福田は書いている。

清田はこのとき、「父親の未来の姿」と言って念写してみせてもいる。そこにはツルツルに禿げた父親の姿が映っていたという。
(続く)=文中敬称略

(その77)
超能力者列伝37(清田益章)

清田益章はテレポーテーションもできるという。テレポーテーションとは、瞬間的に別の場所へ移動する現象だ。

小学生のときは、気が付くと数十メートルから数百メートル移動していることがあり、清田もかなり戸惑ったらしい。しかし、何度か繰り返されていくうちに清田もコツをつかみ、中学生になったころにはある程度、意識的に好きな場所へテレポートすることができるようになったという。

清田の父親の日記によると、清田がまだ12歳だった1974年11月14日には、次のようなこともあった。

午後四時四五分ごろ、今まですぐそばにいた清田の姿が見えなくなった。20分後の午後五時五分ごろ、清田から自宅に電話があり「新宿駅に着いた。つのだ先生(編注:漫画家のつのだじろう)の電話番号を教えてくれ」という。

後で清田に聞くと、テレポートをしようと自宅そばでウロウロしていたが、午後五時五分ごろテレポートに成功して、まず北千住の駅前に出た。それからすぐに新宿駅へとテレポート。そこで自宅に電話して、つのだプロの電話番号を聞き、つのだプロに電話した。そのとき夢中だったため10円玉を入れ忘れたが、自宅とつのだプロの両方に電話がつながったという。

それから、つのだプロまでの道順がよくわからなかったので、小刻みに短距離テレポートをする「チョンチョンテレポート」を使うことにより、足が勝手につのだプロの方向へ向かい、無事午後五時二〇分頃到着することができたのだという。

北千住の自宅からつのだプロまで、電車を使うと一時間半はかかる。ところが、清田は確実に家にいた午後四時四五分から、わずか35分後には、つのだプロに着いていた。「確かにテレポートしたとしか言いようがない」と父親は書いている。

同年11月23日には、テレポートで火星に行ってきたと清田は言う。自宅隣の駐車場にいたときだ。「赤い星を見て、火星へ行きたいなと思ったら、見知らぬところに立っていた。火星の土は赤いと聞いたが、赤茶色だった。草みたいなものがポツンポツンと生えていた。火星では空気が無いはずだと思って気がつくと、顔の前にガラスが付いている宇宙服のようなものを着ていた。2,3分ぐらいだった。帰ろうかなと思ったらまた、駐車場に立っていた」

実は、清田は二年後の1976年7月にも火星にテレポートしたと主張している。ただし、この件に関して清田はあまり語りたがらないようだ。

ドキュメンタリーを中心にテレビ番組の制作などを手がけている森達也が超能力者の日常とその心情に迫った著作『職業欄はエスパー』によると、アメリカの火星無人探査機バイキング1号が火星表面のクリュセ平原の北西760キロの低地に着陸、火星表面の写真を地球に電送してきた。ところが、その電送してきた影像の中に、清田が火星を訪問したことを証明する“動かぬ証拠”が写っていたというのだ。
(続く)=文中敬称略

(その78)
超能力者列伝38(清田益章)

火星に着陸したバイキング1号から送られてきた影像には、二つの変わった写真が含まれていた。一枚には、火星の地表で「石が動かされたような跡」が写っていた。もう一枚は、火星の岩に「2」「B」「G」と読むことができる文字が写っていた。

森達也は清田に聞いた。「火星に行ったことあるんだよね?」
清田は答えない。森が再度聞く。「行ったことがあるんだろう?」
清田はため息をついた後、ふてくされたような口調で答えた。「・・・あるよ」

森の「誘導尋問」に、清田はしぶしぶと「真相」を明らかにしていく。火星にテレポートした清田は、バイキングの地表探査機のカメラの前で手を振ったり、地表の石がどれくらい重いのか知りたくて引きずったり、石を蹴飛ばしたりしたという。

森は、「2」「B」とも判読できる文字について「あれは誰の仕業なの?」と聞いた。
「・・・聞いてるだろ? 俺だよ。砂に指で書いたんだよ」と清田。
「意味は?」
「単純だよ。中2だったんだよ。二年のボーイで2Bだよ。KIYOTAって書けば良かったよな。でもさすがにそれは躊躇(とまど)ったんだよな」

では「G」とも読める文字はなんだったのか。清田は森に言う。「・・・2Bの後に、日本の頭文字も書こうとしたような気もするんだよな」「それをGって書いちまったという気もするんだけど、でも俺、当時英語はけっこう得意だったから、いくらなんでもそんな間違いしねえだろうとも思うんだよな」

森が聞く。「だって自分の体験だろ?」
清田は言う。「最初から最後まで意識がはっきりしていたわけじゃないよ。おまけに20年前だからな。夢という可能性もあると自分では思っているよ。ただ、2Bを砂に書いたことははっきり覚えてるぜ。そして探査機が撮った火星の表面に同じ文字があったということは事実なんだろうな。偶然かもしれないよな。僕にはそれ以上はわからないよ」

あくまでも主観的な体験であって、客観的事実ではないかもしれないと清田は弁明する。確かに矛盾はある。文字らしきものが写ったバイキングの写真を見ると、「2」や「B」が書かれているのは、岩の表面であって、清田が主張するような砂の上ではない。もっとも、スプーンを飴のように曲げる清田にとっては、岩も砂も同じようなものであったのかもしれない。岩のようにみえる物体も、実は砂のように軟らかかった可能性もある。

空気がないといわれる火星で、どのように息をしていたのかも気になるところだ。清田は当時、ある雑誌の取材に対して「火星では、僕の周囲に透明なプラスチックのドームがあって守ってくれたんだよ」と述べている。一度目に火星にテレポートしたときも「宇宙服」のようなものを着ていたというから、何かフォースフィールドのようなものが形成されていたのだろうか。
(続く)=文中敬称略

(その79)
超能力者列伝39(清田益章)

この火星に行ったという清田の「主観的な体験」には、おそらく3つの解釈ができるであろう。一つ目は、ただの夢であったという解釈だ。清田が弁明したように「2」や「B」と判読できる文字は、自然のいたずらか、ただの偶然の一致であったかもしれない。二つ目の解釈は、清田は実際にテレポートして火星に行き、探査機の前で様々な悪戯をしたというものだ。肉体で火星に着いた清田の周りにはフォースフィールドが形成され、温度などから守られていたうえ、普通に呼吸することもできたことになる。

最後の可能性として、肉体ではなくエネルギー体のような体で行ったことも考えられる。西丸震哉の「魂の帰宅実験」を思い出してほしい。西丸は肉体をインドに置いたまま、日本の自宅に戻り、ドアをノックしたり、洗濯機に足をぶつけたりしたことは既に述べた。つまり肉体がなくとも「魂」だけで、行った先の物体に影響を与えることができるわけだ。痛みなどの感覚もあるし、まるで肉体のままテレポートしたのと同じような体験が可能であった。清田も「最初から最後まで意識がはっきりしていたわけじゃない」と述べていることからも、幽体や「魂」で火星に飛んで、そこで「砂」に文字を書いたり、石を動かしたりしたのかもしれない。

清田の父親の日記を読むと、1976年7月24日に次のように書いてある。
(略)・・・火星バイキング1号の予想を二年前にしていた。益章がバイキング1号に向かって念を入れるたびに手答えがあり、
「明日のニュースを見てくれ」
と言っていた。

日本経済新聞などに「火星の岩に“文字”!?」という活字が躍ったのは、7月26日の朝刊、つまり25日のニュースであった。

清田はほかに、どのようなテレポーテーションを体験したのだろうか。
1975年7月20日には、清田は海洋博に行きたくて、テレポートで沖縄にも行ったという。ただ、行った場所は海洋博会場ではなく、町外れか村のようなところで、屋根には「ライオンが二頭乗っかっていて目玉が大きいんだ」と父親に説明している。ところが、清田は帰ろうと思ったけれど、テレポートができない。助けを求めて歩き回ったが、お巡りさんも見つからない。30分ぐらいして、もう一度テレポートを試したら、自分の部屋に戻っていたという。

清田がテレポートして出てくるところを目撃した人も多い。友人や家族ら目撃者によると、フーッという黒い影からいきなりパッと体になるのだそうだ。もちろん、それを目撃した通行人は呆然とした顔をして、平然として歩き去る清田のことをずっと見つめているのだという。
(続く)=文中敬称略


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