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天の王朝

天の王朝

不思議な世界7

(その95)
知られざる人類の歴史6

エドガー・ケイシーの別のリーディングには、次のような発言もある。
「1050万年前に人が初めて住み、数多くの隆起と変動があり、その間に20万年にわたる文明があった」「三つの大変動が数千年の間隔で起こり、その後、ついに破壊されてしまった。最後のものは紀元前約1万100年ごろであった」(マリー・エレン・カーター『エドガー・ケイシーの予言』より)

ケイシーが正しいとすると、最初の人類の文明は20万年間も続いたという。これはいかなる文明であったのか。ケイシー自身、詳しく語っていないのでわからない。三つの大変動が起きたというのだから、一度目の大変動で最初の文明が滅び、さらにもう一つ文明があり、二度目の変動で滅亡。次にアトランティスやムーといった文明が開花したのだろうか。プラトンの『国家』にも、ソクラテスが語った話として、ギリシャの哲学者ソロンがエジプトの神官から、人類は一つの洪水しか覚えていないが、それ以前にも多くあったこと、いろいろな原因により人間の破壊がたびたび起こっていたことなどを告げられたとしている。

ケイシーはムーだけでなく、レムリアについても語っている。ただしケイシーは、アトランティスのことは詳細に語っているが、レムリアやムーのことは詳述していない。これは単純に、ケイシーがリーディングした人たちがアトランティス時代に生きた人たちの生まれ変わりが多かったからだとされている。

レムリアとはどこにあり、どのような文明だったのか。ケイシーを研究しているマリー・エレン・カーターによると、レムリア大陸は太平洋にあり、ムーは今のカリフォルニア州南部とメキシコにかけてあったのではないかという。もちろん、ケイシーが所在地を明確にしていないため、これが正しいかよくわからない。

レムリアとムーの間の関係にも混乱があるように思える。ケイシーのリーディングの中にある少ない情報をかき集めると、レムリア大陸からゴビ砂漠に避難してきたレムリア人の統治者として「ムー」という名の預言者が出てくる。ムーは「法律を与えるもの」とも称されており、おそらく王のような存在で、その息子ムーゼーンが後に王位を継いでいる。彼らは紀元前1万年ごろ、モンゴルの広大な草原に、物質的にはかなり高度に進歩したタオイ文明を築いたという。

このレムリア人の末裔とみられる統治者ムーは、ムー大陸とどういう関係だったのだろうか。統治者であるムーの名をとってレムリア大陸のことをムー大陸と呼んだのだろうか。あるいはレムリアとムーは植民地のような関係にあったのか。それらの質問に答えるようなケイシーのリーディング記録は見つかっていない。
(続く)=文中敬称略

(その96)
知られざる人類の歴史7

人類が過去、何度も文明を築いては、その文明の悪用などにより滅亡していったということは、超能力者たちの意見の一致するところだ。北川恵子もまた、宇宙神霊アリオンから人類の歴史について聞いている。

興味深いのは、アリオンが過去の人類の滅亡は、単なる自然災害による物理的な滅亡ではなかったとしていることだ。アリオンは、地球が過去に二度の「ディメンション・ジャンプ」を経験したと言う。

『時の砂は、降り続け・・・
「そして、その者達」によって、同じ問いが繰り返される
しかし、この度は繰り返してはならない。
同じ過ちを・・・』
『「私の知っている範囲では、人類の基礎となる「基アミノ核酸」は金星と火星の両方から提供された。その時期は、現在の西暦からは話せない。
何故ならば、地球全体が大きなディメンション・ジャンプを経験したからだ』
『地球は既に二度の大きなディメンション・ジャンプを経験しているが、これ以上は無理だろう。ディメンション・ジャンプは起こしてはいけないものだ、ということだけ説明しておこう』
(アートライン・プロジェクト『アーリオーン・メッセージ』より)

このことから類推するに、過去において人類は二度過ちを犯し、地球全体が立ち行かなくなった。そのため、ディメンション・ジャンプという殿下の宝刀で危機を乗り越えた、ということらしい。北川らは、このディメンション・ジャンプは「時空を力技でねじ曲げることで行われる一種の荒療治」ではないか、とみている。

確かにこの説だと、なぜアトランティスやムーといった“大陸”が、ほとんど跡形もなく消えてしまったかが説明できるような気がする。大陸は海中に没したのではなく、ディメンション・ジャンプによって大陸自体が次元の狭間へと消失していったのではないだろうか。事実、私が取材したとき、北川はそのように考えているようだった。アトランティスやムーは、次元の異なる空間に瞬間移動したのかもしれない。

北川恵子はアリオンから、かなり詳しく人類の歴史について聞かされているようだが、ほとんど明らかにしていない。それでも日本人の歴史については『アーリオーン・メッセージ』(アートライン・プロジェクト著)に詳しいので、ここで紹介しよう。

古代日本で何があったのか。アリオンは古代日本にやってきた「アマ族」について、少しずつ語り始めた。
(続く)=文中敬称略

(その97)
知られざる人類の歴史8

アリオンによると、日本の古代史で主役を演じた部族があった。いまから2200年以上前にパミール高原で暮らしていた「アマ族」と呼ばれる部族で、優れた知恵と精神性を有するだけでなく、霊能力・超能力とも言うべき能力を生まれつき身につけていたという。パミール高原は、中央アジア南東部に位置する7000メートル級の山々に囲まれた、全体が標高3000メートル以上もある大高原地帯だ。アマ族の多くはモンゴル系の人種であった。

彼らに何が起こったのか、アリオンはつまびらかにしていないようだが、アマ族の人たちは紀元前3~2世紀ごろ、「人類の進化を促し、真の繁栄に導くことを目的として」、東へと旅立った。そのうち二つのグループが目指したのは、ユーラシア大陸の東の果てにある日本だった。「活火山の多い日本列島こそ、人類の進化と活性化に適した特殊な磁場を持つ地域である」というのが、日本を選んだ理由であったらしい。

その二つのグループは、陸路と海路の二つに分かれて日本に向かった。最初に日本に到着したのは、ネパール、インドを経て、中国の江南地方から博多湾沿岸に上陸した陸路グループであった。彼らは九州の原日本人(縄文人)を併合しながら、九州の東海岸から日向地方へと南進し、強大な国家をつくり上げた。北川らは、彼らのことを便宜上、「日向族」と名づけている。

一方、インドから東南アジアの島々を経由して朝鮮半島に渡った海路グループは、陸路グループにやや遅れて壱岐島から出雲に上陸した。北川らは、彼らを「出雲族」と呼んでいる。

日向族の族長にはイザナギ、イザナミがおり、出雲族の族長にはスサノオの父フツがいた。二つのグループはパミール高原を出発するとき、「日本で落ち合った後、一致協力して日本を治め、人類の進化と文化の隆盛を促す」という約束をしていたらしい。ところが、先に到着し、すでに強大な国を築きつつあった日向族は出雲族との協力を拒み、逆に出雲族が保持する皇位継承の証である「十種神宝」の引き渡しを要求してきたという。

これに対し、出雲族の族長であったフツは、息子スサノオとスサノオの第5子であるトシ(後のニギハヤヒ)らを伴って、九州に陣取る日向族に戦いを挑むことにした。
(続く)=文中敬称略

(その98)
知られざる人類の歴史9

出雲族の進軍に恐れをなした日向族のイザナギとイザナミは、前言を撤回。娘のアマテラスと出雲族のスサノオを政略的に結婚させることで和議を図った。これが記紀に記されている「誓約(うけい)」の真相である。この婚姻により2部族間の結びつきが強まり、協力して日本を治めるという当初の約束が果たされたかに思えた。

ところが、この政略結婚を快く思っていなかったグループがいたと、アリオンは言う。そのグループは日向族の「アマテラスの義弟たち」で、古代の呪術を巧みに操る有能な呪師たちであったらしい。彼らは密かに、日本列島に大掛かりな呪縛を施す。出雲族の聖地とされる土地や日本の重要なエネルギースポットを次々と封印。日向族と出雲族の関係を修復できないような呪いをかけたらしい。

この呪縛により、日本はその後、歴史の節目節目に「二分された勢力による対立構造」が生じるようになってしまったと、北川らは分析する。たとえば、飛鳥時代の蘇我一族と物部一族の抗争、平安後期の源平合戦、南北朝時代の南朝と北朝の対立、明治維新当時の勤皇攘夷派と佐幕派の争いなどだ。

ほどなく日向族と出雲族の抗争が再燃すると、アマテラスの義弟たちの呪縛が功を奏したのか、日向族は次第に出雲族の勢力圏を侵食しはじめる。劣勢となった出雲族は山間部に追いやられ、国譲りの神話に語られているように、出雲族は諏訪など東方へと背走せざるをえなくなった。

さらにアリオンによると、日向族は出雲族の力を弱めるために、渡来系の力も利用したという。北川らの解釈では、とくに渡来系民族による支配を強めたのは桓武天皇で、この時代に東北に派遣され、多くの蝦夷を打ち滅ぼしたとされる坂上田村麻呂が実際に征討したのは、出雲系アマ族の子孫であったという。

このように日本では、渡来系民族とアマテラスの義弟たちの封印により、日本固有の民族的エネルギーを徐々に失っていったと、北川らはみている。「仏教の影響を受けた日本の民は、しだいに『カムナガラノミチ(神慮のままに人為を加えぬ日本固有の道)』である神道から外れていくことになった」という。

日向族はまた、自分たちに都合のいいように歴史を改竄した、と北川らは言う。日向族出身のイザナギとイザナミが日本の国土を生んだ神として神社で祀られているのも、ねじ曲げられた歴史の結果だという。北川らによると、日向族出身の神武が日本の最初の天皇のように日本書紀や古事記に記されているが、真の初代天皇はニギハヤヒであり、意図的に記紀から名前を削られているという。ちなみに日向族によって封印されたニギハヤヒは、大和の三輪山に葬られているそうだ。

この歴史の改竄について、アリオンは1996年初頭に次のように語った。
「最近、世の中が険しく厳しく、更に賑やかになっていると感じている人も
多いと思うが、これは今まで隠れていたものが表にはっきりと目に見える形に
なって出てきたというだけのことだから、そうそう心配は要らない。

今まで見えなかったのは何故か? こちらの方が重要なことだとも言える。
日本という国の成り立ち、歴史、その他色々なことがその時々の為政者によって、
隠され改竄されてきたが、もうこの国の魂はそれを許せなくなっている」
(続く)=文中敬称略

(その99)
知られざる人類の歴史10

アリオンや北川恵子らが描く古代日本の実相が真実であるのかどうかは、証明は難しい。ただ言えることは、古事記や日本書紀が描くような、今の天皇家を中心とした日本史は捻じ曲げられた歴史であるということではないだろうか。

アリオンの説明にも、まだ不明な点が多い。仮に北川らが主張するように、ニギハヤヒが真の初代天皇だとしても、所詮早くても紀元前2~3世紀ごろ日本にやって来た“渡来人”の末裔ではないか、などと思ってしまう。果たしてアマ族に日本を統治する正統性があったのかどうか、はっきりしない。

宇宙からやって来た神々が日本に降臨し、その後メソポタミアでシュメール文明を築き、再び日本に帰ってきたのではないかとする説(「もう一つの竹内文書」の口伝継承者・竹内睦泰説)もあるようだが、真相はわからない。

秋山眞人も日本民族のルーツを追跡したことがあるという。秋山はペルシャまで行き、イスラエルの失われた十二支族が日本人と関係があったのではないかとの結論に達した。秋山によると、ユダヤ人は、遠い昔に別な惑星から来た可能性が強いという。「それは12という数字があるからです。ユダヤ人というよりも、その民族を超越した魂の流れというか、何かの原形があるのではないでしょうか」と秋山は言う。

超能力者たちの間では、日本人のルーツをパミール高原やペルシャなど南西アジア方面に求める見方が強いようだ。

一方、正木和三は、日本には1万年以上も前からかなり高度な文明があったのではないかとの説を採っている。その根拠はユニークで、正木には1万4000年前に日本で過ごした前世の記憶があるからだという。正木は当時、大山祇神(おおやまつみのかみ、職名・大国主命)であったという。

ここで断っておくが、大山祇神の魂がそのまま転生して正木になったのではないようだ。正木によると、大山祇神の生命体は同時に何人もの肉体に宿ることができる。そのため正木は、正木の孫にも、遺伝子をコントロールする第一生命体として大山祇神の生命体が宿っているとの見解を持っている。

生命体が憑依すると、その生命体の記憶が「前世の記憶」としてよみがえることがあるらしい。確かにそれは、ビリー・ミリガンのケースで観察された現象でもある。肉体に宿る生命体の分だけ、前世の記憶も増える仕組みがあるのかもしれない。

さて大山祇は、三保の松原で天女と愛を交わし、娘の木花開耶姫が生まれたという。当時の日本はムー大陸と陸続きで高度な文明を持っていたのではないか、と正木は言う。海を航行する船だけでなく、空を飛ぶ船や瞑想するためのピラミッドが古代日本にもあったのではないか、とも言う。正木は、竹内文書的世界が存在したことを肯定する立場である。

正木が描く古代日本と、北川らが主張する古代の日本の実相は、明らかに異なるし、時間的にもずれがある。北川らは神話に登場するアマテラスやスサノオ、イザナギ、イザナミといった人物は紀元前2~3世紀にパミール高原からやって来た部族であるという。これに対し正木は、神話に登場する大山祇や木花開耶姫が存在したのは、日本に高度な文明があった1万4000年前であるという。

なぜ、こうも超能力者たちが見る歴史が違うのかは、よくわからない。でたらめな記紀神話が混乱の元凶なのかもしれないし、未来同様、過去も決まっておらず、不確かなものだからかもしれない。あるいは、北川らが主張する過去二度のディメンション・ジャンプが時空や次元に歪みを生じさせたからなのか、真相はわからないままだ。
(文中敬称略)

(その100)
予知の不思議1

過去すらわからないのだから、未来などわかるはずがない――と思いつつも、予知が当たる場合もあることは認めざるをえない。とくに数時間後などかなり近い未来に起きる出来事のほうが、より遠い未来に起きる出来事よりも、当たる場合が多いようだ。

『古代日本の航海術』などの著作で知られる東京海洋大学名誉教授の茂在寅男は、2004年10月23日夕方、東京・新宿で開かれた懇親会の席上、大地震の話題を取り上げた。出席者から地震など当分来ないと聞いた茂在はそのとき、つい、次のような言葉を口にした。

「私は大地震が間もなく起きると断言したい。東京に、と限定する訳ではなく、我々にも大きく影響ある地で、もう間もなく起きますよ」
新潟中越地震があったのは、その約1時間後であった。

ただの偶然の一致なのだろうか。
茂在は1972年6月15日にも、知り合いの教授と自動車の中で航空事故が一両日中に起きるという予感がすることについて話し合った。するとその夜、ヴェトナム上空でキャセイパシフィック航空機が空中分解、日本人17人を含む80人余の死亡を伝えるニュースが飛び込んできたという。

正木和三もいくつかの予知をしている。昭和天皇が1989年1月7日に死去することを、一ヶ月半ぐらい前から講演のたびごとに話していたという。1991年1月末の講演会では、参加者からの「湾岸戦争はいつ終わるのか」という質問に対し、「私は湾岸戦争には関係ありませんので、わかりません」と答えるつもりだった。ところが次の瞬間、口が勝手に喋りだしていた。「2月28日に終わります」

正木は翌日、「昨日は講演会で変なことを言ってしまった」と少し後悔したという。しかし、それから約一ヵ月経った2月28日の「予言の日」に、クウェートを多国籍軍が取り返した(停戦合意は3月3日)。

正木は人間による予知について、独特の理論をもっている。脳波がシータ波以下に下がると、時間は一般に肉体が感じる物理的な時間から、生命体世界の時間に変わり、一年間が300分の1秒に短縮される。その状態では、一ヶ月は3000分の1秒にも満たないので、一ヶ月、二ヶ月先などは、未来というよりは今現在とはほとんど同じことになり、知ろうと思えばいくらでも知ることが可能になるのだという。
(続く)=文中敬称略

(その101)
予知の不思議2

正木和三や茂在寅男のケースは、自分とは直接関係のない事故や出来事に対する“予知”であったが、自分の身の上に起こる危険を予知したケースは、これまでにも世界中で報告がある。宮城音弥の『超能力の世界』(岩波新書)には、いくつかの興味深い予知の例が紹介されている。

それによると、1881年1月、アメリカ陸軍のマックゴウワン大尉は、子供たちを劇に連れて行こうと思い、前日に切符を買った。ところが観劇の当日、頭の中で声が聞こえるようになった。その声は「劇場には行かぬがよい。子供たちは寄宿舎に帰らせるがよい」と言う。その声は段々と強くなり、マックゴウワンはとうとう観劇を取りやめた。その劇場が火事になり、305人の命が奪われたのは、まさに彼らが劇を観ようとしたその晩のことであった。

1912年3月23日、その男はニューヨーク行きの豪華客船タイタニック号の切符を予約した。当時、世界一といわれたタイタニック号の処女航海は4月10日だった。ところが出発の10日前ごろ、彼は夢を見た。それは、その船がひっくり返って、旅客や船員がその周りを泳いでいる夢だった。翌日も同じ夢を見た。不安を覚えたその男は、切符を払い戻してもらった。

タイタニック号は4月10日、英国サウザンプトンを出港。4月14日午後11時40分ごろ、北大西洋上で氷山に激突して、15日午前2時20分ごろ沈没、1500人以上の人が犠牲となった。

こうした事例は、いわば危機回避の予知であった。日本でも、危険を知らせてくれたり、普通では知りえないことを教えてくれたりする「虫の知らせ」という現象は昔から多く報告されており、枚挙に遑(いとま)がないほどだ。

私の中学時代の家庭科の先生にも、同じようなことが起こったという。普段はかなり厳しい先生で、無駄口などたたけない雰囲気があったが、一日だけ授業中に自分が体験した不思議な話を披露したことがある。その中のひとつに、やはり「虫の知らせ」があった。ある大きな列車事故があったが、その列車に乗ることになっていた先生は、乗る前に「乗るな」という声を聞いたので乗らなかったのだと話していた。

こうした声や夢は、おそらく未来を予知したものなのだろう。まさかと思う人も多いだろうが、実はこれと同じような現象は、日常的に私たちにも起きているともみることができる。たとえば、「うわさをすれば影がさす」という言葉があるが、「あれは影があるから、うわさをするのです」と秋山眞人は言う。皆がある人のうわさをしていると、当人がそこへひょっこり現われるという現象が「うわさをすれば影」であるが、その人のうわさをするのは、その人が自分たちに近づいてくるのを事前に察知するためであるといのだ。

おそらく、この現象に予知のメカニズムの謎を解く鍵があるのではないか。そのメカニズムとは、どのようなものなのだろうか。
(続く)=文中敬称略

(その102)
予知の不思議3

「うわさをすれば影」のメカニズムは、おそらく次のようなものだろう。人間の周りにはオーラと呼ばれるエネルギー、もしくは気や生命エネルギー圏のようなものが幾重にも取り巻いている。身体に近いところにあるオーラは強く、はっきりとしているが、身体から離れるにつれて、弱くかすかになる。

ところが、感度を高めると、遠くにいてもその人の発するオーラが感知できる。とくに無意識の領域では、かすかなオーラでも察知することが可能になる。このため、皆で会話しているときに、ふとその人のことを思う場合は、当人のオーラが近づいて来るのを無意識のうちに察知して、話題が当人の話に及ぶのではないだろうか。

たとえば私の知人は、エスカレーターを上ってくる友達の顔が、その人が物理的に見える前に浮かんだことがあったという。別にそのとき、その知人は友達と待ち合わせしていたわけではなかった。フッと友達の顔が頭に浮かんで、その何秒か後に実際にその友達が現われたので、ひどく驚いたと話していた。

猫や犬といったペットにも、こうした能力があるとみられている。家の中で飼われている猫や犬は、飼い主が家のそばまで来ると、鳴いたりそわそわしたりすることはよく知られている。これも猫や犬が飼い主のオーラが近づいてくるのを察知しているのではないかと考えられる。

私はこの現象が時間を越えて起こるのではないか、と考えている。つまり、ある事件・事故なり出来事が未来のある時点で起きたと仮定しよう。すると、その事件・事故なり出来事が発するエネルギー、もしくはオーラのようなものが過去と未来に向けて発せられる。しかも、その出来事が発生する時間に近いほど、その“オーラ”は強くなる。逆に、時間が未来や過去に向けて遠のくほど、その“オーラ”は弱くなる。

アメリカ陸軍のマックゴウワン大尉が子供たちと観劇に行くのを止めたのも、火事という出来事が発するオーラのようなものを事前に察知してしまった。だから、マックゴウワンに聞こえる「声」も火事が起きる時間が近づくにつれ、より強く聞こえるようになったのではないだろうか。

人間には胸騒ぎという感覚がある。これこそ、まさに未来に起きる事件や事故の“オーラ”を感じ取る能力の表れではないか、と思える。発想を変えれば、この“オーラ”を変えてしまえば、将来起こりうる悲惨な事件や事故を防ぐことができるのではないか、とも思えてくる。
(続く)

(その103)
予知の不思議4

胸騒ぎが未来の事件・事故の“オーラ”を感じ取る能力だとしたら、人間の想念でその嫌な“オーラ”を変えることはできないだろうか。だが胸騒ぎは、そう簡単に消えるものでもない。何かしらのテクニックが必要なようだ。

反対に、人々の不安や恐怖がマイナスの“オーラ”を作ってしまい、その影響で未来や過去において不安を現実化させてしまうような事件・事故が起きるということもありそうだ。秋山眞人は、人々の想念は現実化してしまうことがあると、よく言っていた。予言や予知が怖いのは、口に出した途端にそのような“オーラ”が発生してしまうことだろう。

人々の不安を煽るような予言をして、その意図的につくられた不安のエネルギーで予言を現実化させてしまうこともできるようだ。巷の“教祖”や、ブッシュのような政治家がよくやる手ではある。

では、実際に起こるかもしれない不幸な出来事を回避する方法はあるのだろうか。秋山は不安を感じたら、それを打ち消すことを口に出すといいのではないか、と言う。つまり、簡単に言うとポジティブ・シンキングの勧めである。

未来に対する不安や恐怖を感じても、「ああ、どうしよう、大変だ」「もう駄目だ」などとは口が裂けても言っていけない。どんなに窮地に追い込まれても、「でも大丈夫だ」と口に出す。そうすると、ポジティブな想念が「不安のエネルギー」に影響を与え、結果を変えることも可能なのだという。

秋山眞人や清田益章は次のようにも言う。運命は一本の細い道ではなく、幅の広い道路のようなものである。おおよその道筋は決まっているが、そこに行き着くまでには右に行ったり、左に行ったり、結構自由に歩くことができる。たとえば、目の前に岩があっても道幅が広いので、避けて通ったり、その上を乗り越えたり、岩をどけたり、好きなことが可能なわけだ。つまり、まっすぐ歩いていけば岩にぶつかるが、それを回避する方法はいくつもある。未来は決まっていないというわけだ。

おそらく、たいていの障害物、つまり事件や事故は、避けることができるのだろう。事件・事故が起きることは、決まっているわけではない。人間の想念を活用すれば、戦争や大惨事を回避できると思われる。

しかし、人間の想念だけでは変えられない、より高い次元で決められた未来というものはあるようだ。それは予知や予言というよりも、預言によってのみ、明らかにされるものなのかもしれない。

たとえばアリオンは、1995年1月16日の深夜、次のようなメッセージをインターネット上で発表した。
「三筋の亀裂は、一筋から分かれた二つの筋に重なる所で軋轢を生む」

ご存知のように、その数時間後の17日午前5時46分、阪神淡路大地震が発生した。震源域とされる明石海峡付近の海底では、三本の断層が確認されており、これが「三筋の亀裂」のことではないかとされている。

アリオンは、このメッセージは予言や予知ではなく、「預言」であると言う。「予言というものは、大いなるエネルギーであるところの存在からの話を、担い手であると定められた人が預ることだ。これは少し予言や予知とは異なる。予言や予知は、人間以外の存在の関わりなしでも成立するが、預言の場合は人間以外の存在の関わりなしには成立しない」

このような場合、よほどのことがないかぎり、人間の力では変えることは困難であるのかもしれない。仮にそうであっても、選択肢は無限にあるように思える。預言が警告である場合もあるだろう。少なくとも、私たちの未来は私たちが決めることができるということは、疑いのない事実のようだ。
(文中敬称略)

(その104)
超能力者列伝(堤祐司1)

秋山眞人や北川恵子の宇宙人についての話や、正木和三の物質化や予知の話は信じられないと言う懐疑派の中でも、振り子で水脈を探り当てることで知られるダウジングなら信じられると言う人は意外と多いのではないだろうか。ダウジングとは、ヨーロッパなどでは昔から日常的に行われている「技術」とも呼べるようなもので、振り子や曲がった針金を使って、地中に埋設されている水道管や水脈、水源などを探知するものだ。

日本でも少なくとも1980年代前半までは、東京・武蔵村山市などの水道局が地中の水道管の埋設具合を知るためにこの技術を使っていた。ところが、そのことがテレビで放映されると、一部の納税者から「市民の税金をオカルトに使うとは何事だ」との苦情が寄せられたため、表向きはダウジングはやっていないことになっているのだという。

そのダウジングを日本に普及させようとしているのが、日本ダウザー協会の堤祐司会長だ(ダウザーはダウジングをやる人のこと)。

堤は10歳のとき、当時住んでいた山口県宇部市で、向かいの家の屋根の上を飛ぶオレンジ色の楕円形UFOを目撃。またそのころ、自分がどんどん小人のように小さくなり、周囲のものが巨大化する体験もしているという。そうした体験に加えて精神世界関連の本を集めていた兄の影響もあり、ミステリーや精神世界に興味をもつようになった。

14歳のときに、本でダウジングという技術があるのを知り、水脈探しなどを体験するようになった。それ以来、ダウジングに魅せられ、1984年に日本ダウザー協会を設立。英米のダウジング団体とも交流を開始した。

堤によると、ダウジングに似たような技術は、約4000年前の中国、古代エジプト、インカのほか、オーストラリアの原住民アボリジニなどにより世界各地で使われてきた。旧約聖書ではモーゼが水脈探しのダウザーとして登場、真言宗の開祖・空海もダウザーのような活動をしていたという。

ダウジングは、水脈を探すためだけに使われるのではない。油田や鉱脈、あるいは「なくした物」「置き忘れた物」を探すこともできる。面白いのは精神を探るダウジングもあり、たとえば、「恋人が考えていること」といった人の考えも知ることができるのだと、堤は言う。

ダウジングに使う基本的な道具は4つある。ここではそれぞれについて詳しくは説明しないが、たとえば振り子を使った場合、縦に往復(直線)運動をしていたものが、回転運動を始めたら、「探しているものはこの方向にありますよ」(方向指示)とか「探しているものはここにありますよ」(発見)という反応であるのだという。

堤は「ダウジングはただの技術ですから、30分もあれば、誰でもできるようになりますよ」と言う。確かに、精度に差はあるにせよ、誰でもすぐにできるようになる。しかし、ダウジングの不思議なところは、どうして当たるのか、その理由がまだ完全に解明されていない点だ。
(続く)=文中敬称略

(その105)
超能力者列伝(堤祐司2)

ダウジングのメカニズムについては、わかっている部分とわかっていない部分がある。わかっていることは、ダウジングは自分の潜在意識が考えていることを知るテクニックであるということだ。

しかし、潜在意識が主役であるということはわかっているのだが、どのように使っているかについては諸説がある。これが、わかっていない部分だ。

一つは、人々の潜在意識は心の奥深くでつながっており、個人を超えた集合意識から情報をつかみ、表層意識へと吸い上げるという考え。もう一つは、物質には特有の波動があり、それを潜在意識がキャッチして、探し物がどこにあるかわかるという見方。いずれにせよ、その潜在意識が捉えた情報を基に筋肉が反応して、振り子を動かすというわけだ。

具体例を挙げると、ダウザーは「ここに水がありますか」と振り子に聞きながら水脈を探す。するとダウザーの潜在意識は、集合意識にアクセスするか、あるいは水の波動を感じ取るかして、情報を脳に伝える。脳はその情報を基に、指先の筋肉に指令を出し、振り子が動き出す。振り子はまさに、脳が発令した、目に見えないような筋肉のわずかな動きを増幅する装置の役目を果たすのだという。

堤祐司は自分が超能力者扱いされることを嫌う。ダウジングは「潜在能力を開発する技術」だと考えているからだ。それでも堤は、ダウジングに「超能力的な部分」があることは認めている。水脈探しや水道管探しは、水の波動を潜在意識が感知すると考えることで説明できる。しかし、恋人が何を考えているかわかったり、トランプのカードを当てたり、純粋に地図上で探し物を探し出したりすることは、物質が発する波動説では説明できない。

それを堤が本当に実感できるようになったのは、テレビ局の依頼でマップ・ダウジングをやるようになってからだと、堤は言う。マップ・ダウジングとは、現場に行くことなく、地図上で探し物を見つけ出すテクニックだ。地球の裏側からでも探し出すことができるという。堤は、マップ・ダウジングという技術があることは知っていたが、それまで真剣に試したことはなかった。

それは1990年ごろ、TBSの『たけしの頭の良くなるテレビ』の中で、初めてマップ・ダウジングに挑戦したときだ。東京23区内の地中に隠された「宝物」を探し当てる実験だが、堤はマップ上で三カ所に絞り込み、そのときはディレクターの「誘導」もあり、新宿に狙いを定めて現場まで出向き、新宿区内に埋めてあった宝物を、ほとんど数メートルの誤差の範囲で見事探し当てることができた。

誘導は、堤が「こっちかな」などとまだ迷っていると、ディレクターが「その場所へ行ってみましょう」と後押しをしてくれるのだという。完全な誘導ではないが、ディレクターは「正解」を知っているので、暗に堤を正解へと導くことも可能なわけだ。

しかし、仮にいくらかの誘導はあったにせよ、堤にとっては驚きであった。東京23区内という無限ともいえる広大な領域の中から、少なくとも三カ所を選び出し、そのうちの一ヶ所に、実際に埋められた宝物があったからだ。ダウジングには、なにか超能力的なものを引き出す力があるのではないか、と確信するようになったという。
(続く)=文中敬称略

(その106)
超能力者列伝(堤祐司3)

一回目のマップ・ダウジングの成功で味をしめたからか、1990年4月にも、『たけしの頭の良くなるテレビ』のディレクターから「落語家の林家ペーさんがある場所に隠れているのですが、(ダウジングで)探してみませんか?」との電話がかかってきた。今回は、日本のどこに隠れているかわからない林家ペーを、マップ・ダウジングで探し出してみろ、というわけだ。東京都23区内どころの話ではない。探さなければならない面積は、一気に数十倍に増えた。

朝10時前に東京・赤坂のテレビ局に着いた堤祐司をディレクターが出迎えると、そこからビデオカメラが回りはじめた。ディレクターは説明する。「今日の朝7時30分に、東京から電車に乗って、今、ペーさんはあるところに隠れています」

堤に与えられたのは、その情報と林家ペーの写真とピンクの靴だけ。ただ、半日で電車に乗って行くことができる場所は、ある程度限られてくる。堤はテレビ局のスタジオ内で、東京から半径500キロの日本地図を広げ、ダウジングを始めた。

地図にプラスチック製の定規を当て、それを移動させながら、右手で振り子を持ち、反応を見る。イエスの反応があると、そこで定規を止め、直線を引くのだ。これを地図の四方八方から、20回ほど繰り返す。すると、そのうち10数本が、静岡地方で交わり、あと5本は新潟で交わった。

堤は最初、より多くの線が交わった静岡地方にペーが隠れているのではないかと思った。しかし、これが大間違いであったことが後でわかる。堤は東京から電車に乗ったという情報から、スタジオに入ったときから直感で西の方角だというように思い込んでしまったという。それが微妙に、振り子を持つ指に影響した。

「つまり、ダウジングで得た情報は鵜呑みにしてはいけないのです」と堤は言う。さまざまな条件がダウザーの心に影響を与える。優秀なダウザーは思い込みなど誤った情報(ノイズ)と正しい情報をすべてより分け、振り子にすべてを任せるのだという。

堤は思い込みをしたまま、ディレクターに静岡県の地図を持ってきてもらった。堤は再び、定規と振り子を手に持ち、ダウジングを再開した。ところが今度は、直線が3本以上集まる交点が出てこない。でたらめな直線ばかりが地図上に増え続ける。最後には、振り子は楕円形を描いたり、直線運動をしたりを始めた。堤は経験から、振り子がそのような反応を示すのは「警告」の意味があるということを知っていた。

「しまった! 間違っていたぞ」
堤はようやく、自分の思い込みに気がついた。
(続く)=文中敬称略

(その107)
超能力者列伝(堤祐司4)

堤はディレクターから新しい東京500キロ圏の地図をもう一度もらって、改めてマップ・ダウジングをした。すると今度は、22本の線のうち15本がある一点で交差していた。

新潟県南部の越後湯沢である。「実は最初のダウジングでも、4本の直線はここに集まっていたのです」と堤は言う。「そう考えると、自分の未熟さが恥ずかしくなる」

堤はさらに詳しく調べるため、新潟の地図を受け取って再びダウジングをすると、やはり20本中14本の線が越後湯沢で交差した。ペーの居所を確信した堤は「新潟県の越後湯沢ですね」と告げると、ディレクターは身を乗り出し「じゃ、すぐに行ってみましょう」と言って、立ち上がった。

テレビ局のスタッフと越後湯沢に降り立った堤は、まず駅の改札口で、東西どちらにペーがいるのか、振り子を振った。答えは西だった。「西の方の温泉にいます」と堤は告げた。

それを聞いたスタッフは、その温泉街の観光地図を持ってきた。不正確な地図ではあったが、堤はその観光地図を4つに区切り、それぞれの区域で「この地域にペーさんはいますか?」とダウジングを繰り返した。すると、駅から一番離れた地域で反応があった。

堤とスタッフはその地域まで歩いていき、現場で再びダウジングをした。その地域のホテルの前に立ち、「ここにペーさんはいますか」と、一軒一軒調べる。すると、温泉街のいちばん奥に並んだ3軒並んだホテルの前で反応があった。「あの3軒のなかにいると思います」と堤は言った。

実は同行したスタッフも、どのホテルにペーがいるのか知らされていなかったという。スタッフの一人が「で、このうちのどれですか?」と聞く。堤は慎重に何回か、3軒のホテルの前でダウジングを行った結果、一番左側のホテルを示した。

「行ってみましょう」と、堤はスタッフを促して、そのホテルに入った。フロントでペーが泊まっているかたずねたところ、「はい、お泊りです」という。その瞬間、スタッフの間からも思わず歓声が上がったという。

堤はなんと、東京から200キロ離れた場所に隠れていた人間を探し出すことに成功したわけだ。人間の潜在能力は、このような難題を解くことすら可能にしてしまう。堤は言う。「思い込みなどによって発生するノイズの処理さえ誤らなければ、かなりの確率でダウジングは成功するのです」
(文中敬称略)

(その108)
神の意思――カムナガラの道

私が未熟者のせいだと思うが、いくらポジティブ・シンキングで行こうといっても、人間の我慢には限度があるし、抑えられない感情もある。目の前で繰り広げられる惨劇や悲劇に対して、ニコニコと笑っているようなことはできないし、学ぶために必要があったのだなどと被害者や被災者の家族に対して告げることもできない。

あまりにも世界中で戦争などの悲惨のことや理不尽なことが続くと、神を呪いたくもなる。なぜこのような、不幸で悲しい出来事を試練として与えるのか。私たちにはそのような試練が本当に必要なのだろうか、と。

なぜ神は、数々の試練や悪を作り出したのだろうか。

それが真実かどうかはわからないが、ニール・ドナルド・ウォルシュが書いた『神との対話』がいちばん明確に答えているかもしれない。彼が自問自答しただけなのか本当に神と対話したのか、知る由もない。ただ、その対話によると、神は光を知るために闇を作った、闇がなければ、光というものが何であるか体験できないからだという。

その「神」が語った最も興味深いエピソードのひとつは、「小さな魂と太陽のたとえ話」であろう。そのなかで「神」は、「小さな魂」との間で交わした会話について、次のように語った。

「どんな神の一部になるか、好きなものを選んでいいよ」とわたし(編注:神のこと)は小さな魂に言った。「あなたは絶対的な神性で、自らを経験する。神性のどんな部分を、自分として経験したいかな?」
「自分で選んでいいんですか?」小さな魂はたずねた。わたしは答えた。「そう。自分のなかで、自分として、自分を通して、神性のどんな部分を体験するか、選んでいいよ」
「わかりました」と小さな魂は言った。「それじゃ、わたしは赦しを選びます。神のなかで、完璧な赦しという部分を体験したいんです」
さて、想像がつくだろうが、これは少々やっかいな問題を生んだ。誰も赦すべき相手がいなかったのだ。創造されたものはすべて完璧であり、愛だったから。
「赦す相手がいないんですか?」小さな魂はまさかという調子でたずねた。
「誰もいない」とわたしはくり返した。「まわりを見まわしてごらん。あなたよりも完璧でない魂、すばらしくない魂が見えるかな?」
そこで、小さな魂はくるりと見まわして、自分が天のすべての魂にとりかこまれているのに気づいて驚いた。魂たちは、王国のはるか彼方から集まってきていた。小さな魂がとてつもない神との対話をすると聞いてやって来たのだ。
「わたしより完璧でない魂は見つかりません!」小さな魂は叫んだ。「それじゃ、誰を赦したらいいんでしょうか?」
そのときひとつの魂が群衆のなかから進み出た。「わたしを赦せばいい」と、その友好的な魂は言った。
「何を赦すんですか?」小さな魂はたずねた。
「あなたのつぎの物質的な人生に出かけていって、何かをするから、それをあなたが赦せばいい」友好的な魂は答えた。
「だが、何を? これほど完璧な光であるあなたに、わたしが赦したいと思うようなことができますか?」小さな魂は知りたがった。
「だいじょうぶ」友好的な魂は微笑んだ。「きっと、何か考えつくから」
「しかし、どうしてそんなことをしてくれるんですか?」小さな魂は、これほど完璧な存在が「悪い」ことをするために、わざわざ振動をスローダウンさせようとするのはなぜなのか、はかりかねた。
「簡単だよ」友好的な魂は説明した。「あなたを愛しているからするんだ。あなたは赦しとして、自己を体験したい、そうなんだろう? それにあなただって、同じことをしてくれたじゃないか」
「わたしが?」小さな魂はたずねた。
「そうだとも。覚えていないかい? あなたもわたしも、みんなその一部だ。わたしたちはそのなかの上昇で下降、左で右だった。ここでありあそこ、いまであり過去だった。大で小、善で悪だった。わたしたちはみな、その一部だったんだよ。そんなふうにして、それぞれが神の最も偉大な部分を体験しようとみんなで決めているんだ。わたしたちにはわかっているからね・・・・・・。
あなたでもないものが存在しなければ、あなたもまた存在しない。
『寒』がなければ、『暖』もありえない。『悲しみ』がなければ、『幸福』もない。『悪』と呼ばれるものがなければ、『善』と呼ばれる体験もありえない。あなたがあることを選ぶためには、それと反対の何かあるいは誰かが、宇宙のどこかに現われないといけない」
友好的な魂はそれから、そういうひとたちは神のとくべつの天使であり、そういう状態は神の贈り物なのだ、と説明した。
「かわりに頼みたいことは、ただひとつだ」と友好的な魂は言った。
「何でもします! 何でも!」小さな魂は叫んだ。神の神聖な側面のすべてを経験できるのだと思って、彼はわくわくしていた。やっと『計画』が理解できたのだ。
「わたしがあなたを襲い、暴力をふるうとき、想像しうる最悪のことをするとき――その瞬間に――ほんとうのわたしを思い出してほしい」
「忘れませんとも!」小さな魂は約束した。「いまと同じように、完璧なあなたを見ます。ほんとうのあなたを、いつも思い出します」
(ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話3』より)

先にも述べたように、この会話が神との対話のなかで出てきたものなのか、ウォルシュの自問自答なのか、禅問答のようなものなのか、私にはわからない。ウォルシュによると、すべての魂は経験するために上昇と下降、「善」と「悪」の役割をそれぞれ演じているのだという。

この話を信じれば、アドルフ・ヒトラーやジョージ・W・ブッシュすら「友好的な魂」として赦さなければならないことになり、私には内心忸怩たるものがある。ヒトラーやブッシュといった存在も、私たちが経験したいと思ったから、魂の進化に必要だと思ったから、存在するというのか。では、殺された人たちには何と説明すればいいのか。そうした存在すら赦さなければならないことは、私たちが越えなければならない魂の「進化の壁」なのだろうか。

赦さないまでも、必要ないと思うことによっても「進化の壁」を越えることができないだろうか。元々、自分が選んだのだとしたなら、もう十分経験しましたと宣言することにより、目の前の障害が消えることもあるはずだ。

そのように気づくまでは、障害も必要であり続けるのだろう。だが、もはやそのような時代は終わったのだということに、私たちは気づくべきだ。少なくともヒトラーやネオコン、戦争や大災害といった障害はもはや、この惑星には必要ないのだということを言葉や態度で明確に示す必要がある。そうすれば、宇宙人から「悲しみの惑星」と呼ばれる地球にも、より素晴らしい宇宙が向こうからやって来るような気がする。
(了)

不思議な世界番外1
四次元の影像

「不思議な世界」のなかでは私自身の体験はあまり触れなかったので、私が体験した不思議な現象をいくつか紹介しよう。といっても、私はいわゆる霊能力者でも超能力でもないので、それほど突飛な体験はしていない。

思い出すのは、小学生のころ。私の通っていた学校は変わっていて、舞踊という授業があった。なんのことはない、音楽に合わせて踊ればいいだけだが、私は何しろ体を動かすのが大好きだったので、体育の時間と同様にいつも楽しみにしていた。

あるとき、舞踊の時間の最後5分を使って、ゲームをやることになった。すぐ近くの人とじゃんけんをして、負けた人は勝った人の後ろに付くという単純なゲームだ。勝てば勝つほど、後ろにできる列は蛇のように長くなる。

いざ、じゃんけんというときになって、その現象が起きた。何気なく、相手が何を出すのかなとボーッとしていると、目の右上の部分、もしくは相手の左上方辺りに影像が現われるのだ。その影像は相手がじゃんけんで何を出すかを教えているのではないかと直感的にわかった。じゃんけんをする。すると、その影像どおりの結果となった。

これは面白いぞ、と二回目の相手にも試してみた。やはり影像が浮かぶ。結果は私の勝ちだ。しかし、ここで落とし穴があった。有頂天になった私は、次も見てやろう、勝ってやろう、と欲が出すぎたようだった。影像が浮かばない。

時間がなかったので、いい加減にじゃんけんをしたら、たまたま引き分けだった。もう一度、初心に帰ってボーっとしてみた。今度は影像が浮かぶ。それ以降は、引き分けもない快進撃だ。相手が何を出すのかわかってしまうので、私の後ろに続く列はドンドン長くなる。列の長いもの同士でやった最後の決勝戦も一回で勝ち、ゲームの勝者になった。

このことを親しい友人に話したが、誰も信じてくれなかった。私には確信があったが、その後じゃんけんゲームはやらなかったので、次第に私も友達も、そのことは話題にしなくなった。私自身もそれ以来、そのような影像を見たことはない。

最近、江原啓之の霊視がテレビなどで話題になっているが、なるほどと思うのは、江原が霊視するときに相手の上のほうに守護霊などの影像が見えると話していることだ。秋山眞人も上の方に、そうした霊のようなものを見ることがあると言う。私が見た影像も相手の左上方に見えた。物理的に上方に現われるのかどうか定かではないが、人間の脳の近くに影像が現われるというものは普遍なのかな、とも思えてくる。
(続く)


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