2006/01/25(水)08:19
カストロが愛した女スパイ178
▼エピローグ10
「ちょっとだけでも会うことはできない? それとも国際的な事件がお望み? 私は明日銃殺にされても構わないわ。ただ、彼が元気で生きているか知りたいのよ」とロレンツは言った。
「もちろん! 彼は元気で生きているよ」
「わかったわ。私の望みは彼に会いたいだけ。彼に会いたいわ、フィデル。それは母親の権利よ」
「お前にはほかに二人の子供がいるだろう。この子は必要ないはずだ」
カストロは腹立たしげにドアの方に歩いていった。ロレンツは出て行こうとするカストロの腰にすがりついた。
「フィデル、お願い。教えてくれるだけでいいの」
ロレンツは泣き出していた。
「マリタ、あの子を国外に連れ出させるわけにはいかないんだ」
「フィデル、アメリカに連れて帰るつもりはさらさらないわ。会うだけでいいの。せめて一目その子に会わせて。そうしたら帰るわ」
カストロは答えずに、バルコニーに出て葉巻をふかした。ロレンツもカストロの後からバルコニーに出た。「私は女よ。母親でもあるわ。あなたの命を救ったこともある。取引をしたいだけ。息子に会わせて。そうしたら二度と迷惑はかけないわ。私たちのことがアメリカのマスコミに書かれてしまったことは謝るわ。アメリカのマスコミはいつもこうなのよ」
カストロはずっと黙ったまま、考え込んでいるようだった。カストロとロレンツはしばらく、CIAのことや、ロレンツの娘のことについて言葉を交わした。やがてカストロはロレンツの腰に腕を回し、ロレンツはカストロの肩に頭をあずけた。だんだん心が打ち解けて来るようであった。
カストロが口を開いた。「マリタ、階下にいた老人が息子のことを話してくれるよ」
「私たちの息子よ」
「彼は元気だよ。だが私の息子だ」
「わかったわ。一目会いたいだけなの。それ以上は求めないし、今後連絡を取ることもしないわ。だから彼に会わせて」
カストロはロレンツの肩に手をかけ、ロレンツを抱きしめて言った。
「一度だけ、彼に会わせよう。彼はいい子だ。彼は医者だ。お前も誇りに思うだろう」
「医者ですって?」と、ロレンツは思わぬ言葉を聞いて、涙があふれてきた。「何の医者なの?」
「小児科の医者さ」
「私がなりたいといつも思っていた職業よ」
「彼はいい子だ。階下にいた老人が育ての親だ。ちょっと待ってくれ」
カストロはそう言うと、ドアを開け放したまま部屋から出て行き、隣の部屋に向かって「アンドレ!」と叫んだ。
「アンドレですって?」
ああ、それが息子の名前なのだ、とロレンツは思った。
(続く)