天の王朝

2020/06/11(木)14:25

竹内文書と正統竹内文書(桃太郎伝説)

歴史散歩(2256)

孝元天皇が本格的に吉備攻略に向けて動き出す前、孝霊天皇の時代にも天皇の兄・オオキビノモロススミノミコト(大吉備諸進命)が軍事王として吉備と本格的に戦ったと竹内氏は言います。名前からしても諸共に吉備に進んでいくぞ、という意味が込められています。 続いて孝霊天皇の息子にも二人の吉備津日子が出てきます。オオキビツヒコノミコト(大吉備津日子命)とワカヒコタケキビツヒコノミコト(若日子建吉備津日子)です。 この三人が、昔話で知られる「桃太郎」のモデルだと竹内氏は言います。伯父と甥二人の計三人を総称して「桃太郎」というわけですね。また桃太郎の一人である若日子建吉備津日子の娘のイナビノオオイラツメは後に景行天皇の皇后となってオウスノミコトすなわちヤマトタケルノミコト(日本武尊)を生みます。つまり、日本武尊の御祖父さんが桃太郎だったという、衝撃的な関係がここで明らかにされたわけですね。 竹内氏によると、『桃太郎』に出てくる黍(きび)団子とは、吉備を攻略したらもらえる領地のことであったといいます。黍団子に釣られて桃太郎に付き従った家来は誰だったかというと、犬養氏(犬)、猿女氏(猿)、鳥取一族(雉)です。戦ったとされる吉備の王(鬼)は、「温羅(うら)」。温羅の牙城(鬼が島)は鬼のように強くて崩せなかったので、和睦を装って宴会を開き、酔っ払って温羅が気を抜いているときに、女装した猿女君(さるめのきみ)が踊りながら温羅に近づき、隠し持っていた刀でバッサリと切り殺したのだそうです。騙して温羅を切ったので、「裏切る」という言葉ができたのだと竹内氏は言います。 この「裏切り」によって、吉備はめでたく平定されたそうです。(続く)

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