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テーマ:歴史なんでも(777)
カテゴリ:歴史箱
卑弥呼に仕え、ただ一人部屋への出入りを許された男とは、それはヒコフツオシノマコト(彦太忍信命)であったと竹内氏は言います。 そしてこのヒコフツオシノマコトの異父弟(あるいは実弟)が崇神天皇です。 時代考証的にはぴったり合いますね。 中国側は、ヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメの区別がつかなかったので、崇神天皇のことを卑弥呼の男弟としてしまったわけです。
その崇神天皇が即位してからも実に28年間も第8代祭祀王として君臨した卑弥呼も西暦248年ころ亡くなってしまいます。 径百四歩の「大いなる墓」とは、箸墓古墳で間違いありません。 かつて箸墓古墳は三世紀後半か四世紀初めの古墳であるから卑弥呼の墓ではありえないとされていましたが、その後の年代測定で三世紀半ばごろの古墳であると認定されました。
ここでポイントとなるのは、卑弥呼が高齢で亡くなる前に、崇神天皇が宗教改革に着手したことです。 崇神天皇の時代、悪性の伝染病が流行り、人々がバタバタと倒れ始めたのです。 ヤマトトトヒモモソヒメの祭祀王としての呪力では、これを食い止めることができなかったことは、『日本書紀』にヤマトトトヒモモソヒメが大物主神との結婚に失敗した逸話として象徴的に書かれています。 大物主大神を怒らせてしまった卑弥呼は、ショックでドスンと座り込み、その際、箸で陰部をついて死んでしまいます。
これは非常に象徴的な話です。 というのも、ヤマトトトヒモモソヒメではニギハヤヒの王統を継いだ祭祀王ではなかったからですね。 そこでヤマトトトヒモモソヒメを祭祀王としたまま、ニギハヤヒの直系であるオオタタネコを祭祀王の代理にしたわけです。 同時に、影の祭祀王としてヒコフツオシノマコトを任命しました。 ヒコフツオシノマコトは、ニギハヤヒの直系であるだけではありません。 ナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメの直系でもあります。 徐福の血をひいているわけですね。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.06.18 18:41:55
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