2021/07/25(日)18:22
ヌナカワヒメからヌナカワミミへの流れ
ヌナカワヒメからヌナカワミミ(綏靖天皇)までの流れを説明しましょう。
古志(越)国の祭祀女王ヌナカワヒメが『古事記』で最初に登場するのは、大国主が越国のヌナカワヒメに求婚に行った際に出てきます。
明らかに、スセリビメとは別人物として登場するところが面白いところです。
大国主がスセリビメとは別にヌナカワヒメを娶ったと記す一方で、どうやらそう単純な話でもないことが、竹内氏が明かした『帝皇日嗣』によって明らかになるからです。
『帝紀』とも称される『帝皇日嗣』によると、スサノオによる越の八岐大蛇退治に隠された事実は、越国(新潟、富山、石川、福井)の八つの川(部族)を統治していた祭祀女王ヌナカワヒメから、スサノオに統治権が移ったことをさすのだそうです。
ここで考えられるシナリオは大きく言って二つあります。
一つは、スサノオが娶ったクシナダヒメがヌナカワヒメであった可能性。つまり、八岐大蛇の話は、越国の祭祀王とスサノオの間の政略結婚の物語であったという見方です。
もう一つは、クシナダヒメとヌナカワヒメが別人であった可能性。つまり、越国の統治権、あるいは神器は手に入れたけれども、ヌナカワヒメとは結婚しなかったという見方です。
そのどちらかはわかりませんが、越国の統治権はその後どこに行ったかをみてゆきましょう。
竹内氏によると、出雲から越国にかけての統治王となったスサノオの後継者は、末子のスセリビメであったといいます。
そのスセリビメとオオナムヂ(大国主)が結婚、そのすぐ後に出てくるのが、越国のヌナカワヒメへの大国主の「求婚の旅」なわけです。
ここでも大きく言って二つの可能性があるわけです。
一つは、スセリビメとの結婚は、実は越国の王女ヌナカワヒメと結婚することであったという可能性。つまりスセリビメが母親からヌナカワヒメという祭祀王の称号を引き継いでいたとする見方です。それを象徴的に描いた物語が大国主の妻問いの歌に残っているということになります。
もう一つは、大国主はスセリビメとは別に越国の祭祀女王ヌナカワヒメと結婚したという可能性。スセリビメは母親からヌナカワヒメという祭祀王の称号を引き継いでいなかったから、大国主はあえて越国に出向いて祭祀女王と政略結婚したという見方です。
これもそのどちらかはわかりませんが、ヌナカワヒメという祭祀女王の称号が王統の正統性を主張するうえで、極めて重要であったことがうかがえますね。
最初にそのことを教えてくれたのは竹内氏です。
竹内氏は「カムヤタテヒメ」の本名はスセリビメで、事代主の母親であると『帝皇日嗣』に書かれていることを教えてくれました。 同時に竹内氏は、タケミナカタが最初に生まれて、事代主がタケミナカタの弟だったとも言います。末子相続の出雲では事代主が大国主の次の王になる予定だったわけですね。
タケミナカタの母親は『先代旧事本紀』にはヌナカワヒメであると書かれていますから、すかさず私が「すると、ヌナカワヒメはスセリビメということになるけれど、それでいいのですか」と竹内氏に聞くと、「そういう筋の話なのです」という答えが返ってきました。
微妙な答え方ですよね。明確にそうだとは言わないのが極秘口伝継承者の奥ゆかしいところですね。
そういう筋とは、八岐大蛇の物語から続く、越国の王統の筋であると私は解釈しました。
だけど仮にスセリビメがヌナカワヒメと想定して、その後の血統を考えると、実にうまく説明できてしまうところが不思議です。
ヌナカワヒメが生んだタケミナカタが、なぜ「宗像」を連想させる名前になっているのか一つをとっても、スセリビメが宗像三女神の末子タギツヒメであったと考えれば納得させられてしまいます。
タギツヒメ=スセリビメ=カムヤタテヒメ=ヌナカワヒメ=セオリツヒメが成り立てば、スセリビメの子供にはタケミナカタ、タカテルヒメ、事代主の二男一女がいたことになります。
その三人の子供の誰かに「ヌナカワヒメ」の称号が渡っているはずです。
実際に「ヌナカワ」という祭祀の称号を継承した人が後々の時代に出てきます。
それが神武天皇とイスズヒメの間に生まれたカムヌナカワミミ、後に綏靖天皇と称される人物です。
すなわち神武天皇かイスズヒメにスセリビメの血が流れているのではないかという可能性が浮上するわけです。
ラベンダーの続く道。
延々と続く血脈が「世襲名」によって継承されているわけです。
次回は、隠されたスセリビメ(ヌナカワヒメ)の血脈について考察いたしましょう。
(続く)