|
トールキンの善悪二元論 (2005.9)
「指輪物語」には格言にしたいような名文句がたくさんあります(ってマニアの欲目です)が、その中の一つに、
どんなものもその始まりから悪いということはないのだから。サウロンとて例外ではなかった。
――『旅の仲間』瀬田貞二訳
というのがあります(誰のセリフかすぐ分かった人、あなたは立派なマニア!)。
この言葉は、力の指輪がどんな賢者をも誘惑し堕落させる可能性を示唆して使われています。考えてみると、かなり厳しい、というか、悲観的な言葉ですよね。
旧約聖書では、そもそも最もすぐれた天使であった明けの星(ルシファー)が慢心して堕落し、サタンとなるわけですから、なるほど、生まれながらの悪玉というのはいなかったということでしょう。
トールキンの創造世界においても、最初で最大の悪玉メルコールは、最も力あるマイア(天使に相当する)だったし、サウロンはその配下でした。
そういう優れた者たちが悪に堕し、「指輪物語」では賢人会議の長たるサルマンが悪に堕し、かと思うと最も素朴なキャラクターであるあの献身的なサムさえ、指輪を手にしたとたん、
かれの心には気ちがいじみた幻想が湧き起こってきました。すなわち、今紀最大の英雄サムワイズ…号令一下、ゴルゴロスの谷間は花を樹木に埋もれた庭と化し… ――『王の帰還』瀬田貞二訳
などと、おのれの意のままに権力をふるいたい欲望を覚えるのです。
悪は、どんな者の心にも棲んでいる。それって、コワイですね。それじゃあ、「完全な善」っていうのはあり得ないことになっちゃいます。
そして反対に、悪にはまった者は、「完全な悪」になってしまったり、わずかな「善」が残っていたとしても、ほとんど救われないのです。
メルコールやサウロン、サルマンは完全な悪玉と化して、改心しません(サウロンは改心したふりをしてみんなをだましたりする)。
ゴクリは、同情の余地があるような気もしますが、救われません(指輪とともに滅びたことを、彼の「救い」とするなら別ですが)。蛇の舌グリマの惨めな最期もしかり。デネソールも絶望のうちに死にました。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。(親鸞「歎異抄」)
などというニッポンの精神風土からすると、救われない悪人たちのなんと多いことでしょう。
それゆえ、唯一セオデン王の善への回復は、われわれ日本人読者をほっとさせます。改心して華々しく散った、これぞ武士道!? ではないにしろ、トールキンが、自分たち(英国人)の祖先をほうふつさせるローハンの王にこのような救いを与えたことに、私たちはやや安堵するのです。
***関連***『霧のラッド』の日記
|
|
|