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『星をのんだかじや』>――幸運を呑みこむと・・・ (2009.12)
J.R.R.トールキンが大作『指輪物語』を書き上げたあと、いわゆる妖精(ファンタジー)の世界と、人間(現実)の世界とのかかわりを説明しようとして自然にできあがった物語が、『星をのんだかじや』です。
原題は日本語にすると「ウートン大村の鍛冶屋」ですが、邦題の「星をのんだ」という表現は、私に、ふと日本の民話「鳥のみじいさん」(『とりのみじさ』)を思い出させます。ストーリーは全然違うのですが、のみこむ「星」と「鳥」に少し共通点があるような気がします。
「星」は冬の祭に食べるケーキの中に仕込まれた「当たり」の小物のうち特別な一つで、実は妖精の国の物でした。「鳥」はじいさんが畑で見つけたよい声の小鳥で、「あやちゅうちゅう、こやちゅうちゅう、にしきさらさら、びびらぴん」などとさえずるのです。普通の鳥とは思えません。つまり、星も鳥も、タダモノではない魔法関係のものというわけです。
それが、偶然主人公のもとにやって来ます。主人公は無欲な善人ですが、結して特別な存在ではなく、幸運から「星」や「鳥」を呑むことになる・・・、そう、文字通り体内に呑みこんでしまうのです。主人公がただラッキーアイテムをゲットして身につけるのではなく、その幸運と一体化してしまうところがすごい。
しかし、とけてしまったのでもなく、「星」をのんだ鍛冶屋の息子は、あとで、小鳥の歌を聞きながら、
「…妖精の国じゃ、鳥ばかりじゃなくて人だって歌うんだ。」
そして男の子は歌い始めました。
(中略)…その瞬間、あの星が口からぽろりとおちました。(中略)…星はふるえ、まるでいまにも飛びさろうとでもいうように、手のひらの上で起きあがりました。 ――トールキン『星をのんだかじや』猪熊葉子訳
このくだりで、星は、鳥にたとえられています。星は結局飛び去ってしまいはせずに、鍛冶屋の息子の額にはりついて、見る目のある人にはそれが見えるのでした。それ以来、彼は美しい声で歌うようになります。
一方、鳥をのみこんだじいさんの方は、おなかをさすっているとおへそから鳥のしっぽが出てきます。鳥はおなかの中でも元気で、じいさんに、殿様の行列を待ち構えて歌ってみせるようにと知恵をつけてくれます。
一体化したけれど体の外に見えていて、美しい歌をもたらし、主人公の名声を高める星と鳥。鍛冶屋もじいさんも、おごることなく無欲な善人のままなのが良いですね。我々はもし幸運を手にしたらどのようにそれを使おうかなどと、考えたりしますが、勢いこんで何か始めるよりも、そのまま自然体がいちばんということでしょうか。
じいさんはこの世の富(殿様からのご褒美)を得ますが、鍛冶屋の場合、星は妖精の国へのパスポートにもなり、彼は何度も妖精の国へ出かけてすばらしい体験をすることになります。
どちらの話にも、主人公の対極にあたる人物が出てきますが、鳥のみじいさんでは、日本民話の典型、隣のじいさんが登場。真似をしてまがいものの鳥を無理矢理呑み、案の定、失敗してしまいます。
『星をのんだかじや』では、俗物の料理人ノークスが最後まで何度も登場します。妖精など子供だましと思っている彼は、しかし、鍛冶屋(とその祖父)以外に妖精王が正体を明かしてみせた唯一の人物なのです。もっともノークスはそれを夢だと思い、最後まで妖精を信じようとしません。それでもノークスは妖精王のおかげで百歳まで生きたのですから、これまた幸運な人物といえるでしょう。
幸運に恵まれた人をただ真似る人は、失敗するが、神がかった幸運とは無関係でも自分の生き方を貫く人・・・そんな人は、自分では気づかぬうちに祝福されている。訳者はノークスを作者の「ユーモラスな皮肉」と表していますが、皮肉というより、寛大さの表れだと私は思います。
『星をのんだかじや』には『指輪物語』との共通点や、その他いろいろ注目すべきところがあると思いますが、今回は「とりのみじいさん」の話題のみで。
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