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「ドリトル先生」シリーズの魅力~文学のさまざまなジャンル (2005.8)
私の最も尊敬する人物であるドリトル先生と、その物語の魅力をあげればきりがありませんが、長いシリーズものとしてすばらしいのは、いろいろな物語のジャンルがいれかわりたちかわり現れて、読者を飽きさせないところでしょう。
それは作者ロフティングのチャレンジ精神の表れだと思いますが、子どもだった私は、おかげで文学のいろんなジャンルに一通り触れることができました。
1巻『ドリトル先生アフリカゆき』の語り出しは、おとぎ話風。細かな描写はあまりなく、さくさくと話が進む。
アフリカへの旅は、もちろん大英帝国の海洋ロマン。海賊との対決も楽しい。しかし、黒人の国ジョリキンキで、作者は帝国主義にクギをさすことを忘れず、王さまにこう語らせている。
「…ひとりの白人が、この国へやってきた。わしはその男に、たいへんしんせつにしてやった。しかるに、その男は土に穴をあけて金を掘り、象を殺して象牙をとり、こっそりとじぶんの船で逃げ失せた。――『ありがとう』ともいわないで。」
――『ドリトル先生アフリカゆき』井伏鱒二訳
2巻『航海記』の語り出しは、叙情的。「沼のほとりのパドルビー」の町の描写は、ディケンズの『大いなる遺産』を思い出させる英国ならではの古い町と湿地と港がすばらしい。
それから、少年トミーが海へ出る成長物語。合間には、「犬を裁判の証人にしたら」とか、「闘牛をやめさせよう」とか、続巻に多く出てくる、ドリトル先生の(=作者の)とっぴだが一理ある社会改良案のさきがけが見られる。
クモサル島では、先生が王様になって偉業が叙事詩になっているし、漂流島が海底におちつくあたりは、空想科学的。
3巻『郵便局』は、社会改良の試みが大々的に繰り広げられる。鳥の通信網、天気予報、遠隔地の動物たちの通信教育など、いかにも十九世紀的、大規模で楽天的な発想が楽しい。
とちゅうには動物たちが順番に語る物語が挿話的にあり、『動物園』での「サロン文学」の試みへとつながっていくようだ。
最後のノアの洪水を語るカメのドロンコは、聖書文学への第一歩。これは『秘密の湖』で本格的に語られる。
4巻『サーカス』でも、社会改良のチャレンジは、「引退した馬の会」結成や、「キツネ狩りに対抗するキツネ用救命袋」など、折にふれて続く。真ん中に挿入されるオットセイのソフィーの脱出・逃亡劇は、手に汗にぎる活劇で、ちょっとロードムービーにも似ている。
6巻『キャラバン』前半は、カナリアの伝記。そしてオペラの試み。もちろん「動物広告」「犬骨銀行」などの社会改革も忘れない。
5巻『動物園』前半は、先生の庭のクラブにつどう動物たちが語る体験談で、それぞれの話がバラエティにとんでいるほか、全体の雰囲気はアーサー・C・クラークの『白鹿亭綺譚』などの英国伝統的クラブ文学を思い起こさせる。
後半の火事さわぎは、遺言状をめぐるミステリー、探偵犬クリングが活躍する推理小説仕立てである。
7巻『月からの使い』前半は、サロン・クラブものの続き。
そのあと、学者の本領発揮で虫の研究に邁進する先生の姿が描かれる。科学と合理主義の19世紀英国を、先生も生きている。しかし、釣り合いをとるように語られるチーチーの昔話「むかしむかし、その昔、まだ月のなかったころに…」があり、旅行の行き先を決める遊びで鉛筆の先が月をさすに至って、読者は何やらきたるべき大事件への予兆を感じ取る。
そしてとうとう、先生は巨大ガに乗って月へ飛びたつ。密航するトミーの心意気。このへんから物語は急速に探検SFものへと変わってゆく。
8巻『月へゆく』前半は、前巻にひきつづき、ちょっと無気味でちょっとワクワクする、不思議な雰囲気を持った異境(月世界)での、探検記。
後半は、月の巨人を「議長」とする月世界の社会秩序が理想郷として語られている。私は、作者のことや時代背景については不勉強だが、どうもロフティングはある種のユートピア論者、または空想的社会主義者のケがあったように思える。議長オーソを中心に、植物たちがどこへどれだけ種をまくか公平かつ計画的に決められ、平和な共同社会を作っている月世界は、昔の社会主義者たちが夢に描いた理想の“ソヴィエト連邦”なのではないかと思える。
実際、作者はドリトル先生をこの理想郷に置いたまま、シリーズを終えようとしたそうだ。
9巻『月から帰る』は、読者からの熱烈アンコールにこたえる形で、ドリトル先生が再登場。ほほえましいパドルビーの一家のどたばたや先生の復調が語られる。
注目なのは、月のネコ。どんな生物でも出入りするドリトル家に、今まで決して迎えられることのなかったネコが、エイリアンとしてやって来る。このネコの神秘的で異質な魅力は、全巻を通して他には見あたらない、“女性的魅力”ではないかと思う。
10巻『秘密の湖』は、シリーズの総決算で、これまでの巻の登場人物やエピソードをなぞりつつ、ついに時をさかのぼる聖書の世界へと突入する。
南條竹則『ドリトル先生の英国』に指摘されているように、この巻の最後の方は、かなり尻切れトンボで混乱している。作者は力尽きたようだが、聖書から現在へ一気にひっぱってくる迫力はすごい。はしゃぎながらパドルビーへの帰路につくドリトル一家の姿が、一枚の絵のように、映画のラストシーンのように、永遠化されているようだ。
11巻『緑のカナリア』前半は、6巻『キャラバン』と同じ伝記。後半は、ローボロー伯爵の救出と原稿の奪還という活劇。伝記に出てくる産業革命時の労働争議、そして後半のローボロー伯爵の社会改革の原稿などは、作者の社会主義的考え方を示しているようだ。
未完で作者は没したが、夫人と妹によって、やはりパドルビーへの帰路につくエンディングが補われ、心憎い。
12巻『楽しい家』、遺稿集。動物や虫の体験談や、推理ものなど。
…なんだか、長く書いてしまいました。1巻に、石井桃子が全巻の梗概をしるしているのに対抗したわけでもないのですが、つい私的紹介文句を入れたくなるほど、とにかく大好きな、ドリトル先生シリーズです。
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