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『影の谷物語』――ダンセイニ流ドン・キホーテ (2009.3)
花々は、若者の行く手はるか、道の両側にまばゆいばかりに咲きみだれ、天国にかかる虹がこわれて、その破片がスペインに落ちてきたかのようだった。彼はその花々、この年一番に花を開いたアネモネを眺めながら、歩いていった。そして、それからずっと後年、彼の唇からスペインの古い旋律が流れる時、いつでも彼は、春の魅惑の真只中にあったこの春の日のスペインのことを想い出すのだった。 ――ロード・ダンセイニ『影の谷物語』原葵訳
私がスペインに行ってみたいと思ったのは、このくだりを読んだ時でした(いまだに行ったことないんですが)。それまではスペインというと、強い日差しに乾燥した赤茶色の大地、石造りの建築物、そんなイメージだったのが、一変してみずみずしく豊かな楽園のように思えたのです。
作者は、古き良きスペインへの憧れをたっぷりとこの物語に注ぎこんでいます。『ドン・キホーテ』さながらに当時の大仰で冗長な儀礼や風俗習慣を揶揄しながらも、そのゆったりとした充実をほめたたえ、同様に、大時代的な主人公ロドリゲスを少々滑稽に描きながらも、温かい目で見守っているのが感じられます。
若くてまっさらなロドリゲスは、名剣とマンドリンだけを持って旅に出ます。「剣は戦に、マンドリンは月夜のバルコニーに」というのが亡父の教えだったので、彼はいちずに戦を求め、勲をたてて城を持ち、美しい姫君と結婚することを夢見ています。
途中で、従者モラーノが登場すると、主従二人組が名コンビぶりを発揮して面白く、小気味よい。憲察隊から逃れるのにお互い衣裳をとりかえて変装したり、ロドリゲスが決闘をして負けそうになるとモラーノがすかさずフライパンで相手を殴り倒したり。私は『ドン・キホーテ』をきちんと読んだことがないのですが、おそらくドン・キホーテ&サンチョ・パンサよりも、ロドリゲス&モラーノの方が絶妙のコンビネーションを発揮していると思います。
やがて二人は遍歴の途中で、処刑されそうになっている男を憲察隊から救います。どのように助け出すかに気を取られていると、この事件こそが“起承転結”の“転”なのだということを見落としてしまいます。助けられた男は、不思議な人物で、「今まで一度も頭を下げたことがない人間のようなぎこちなさで」礼を言ったり、不意に姿をくらましたりするのです。
のちに、彼が実は「影の谷」の森の王であったことが分かります。
ここでやっと本のタイトルにある「影の谷 Shadow Valley」が出てきます。広大で魔法の雰囲気に満ちた森の、神出鬼没の王と、弓を携え緑に装う臣民たちは、まるでシャーウッドの森のロビン・フッド一党のように、自由ですばらしい暮らしをしています。
ロドリゲスは美しい姫に出会ったあと彼らに招かれますがやがて森を去り、相変わらずいちずに戦を求めてピレネーを越えてゆきます。
彼が戦で得たもの失ったもの。絶望のあとでどんでん返し的に訪れるハッピーエンド。後半はファンタジーやメルヘンの王道を踏襲しつつ、トントンと話が進みます。前半、作者の語り口に慣れにくかったり、SF調の長い挿話があったりして、なかなか親しみが持てなかったのがウソのようです。いつの間にか、まじめで感性豊かで、けれど過ぎたことにはこたわらないサッパリしたおおらかな性格のロドリゲスが、だんだんステキに見えてくるから不思議。
老ドン・キホーテが夢見た騎士道的人生とは、きっとこんなだったのだろうと思えるような、完成された騎士道物語です。
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