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HANNAのファンタジー気分

HANNAのファンタジー気分

舟崎克彦「ぽっぺん先生」他

舟崎克彦「ぽっぺん先生」シリーズほか

『トンカチと花将軍』舟崎克彦・舟崎靖子
これもすてきな休日――『ぽっぺん先生の日曜日』
真夏の白昼夢?『ぽっぺん先生と帰らずの沼』

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『トンカチと花将軍』舟崎克彦・舟崎靖子 (2005.8)

 まず登場人物の名まえが、この物語のおもしろさを8割がた決めていると私は思います。
 主人公の少年の名前は“トンカチ”。石頭な人を馬鹿にする言葉でもあるので、どうもさえない感じ。
 彼の愛犬がまたすごい名で、“サヨナラ”。水たまりジャボチンスキー(この名まえも忘れられない)の姓名判断によると、すべてのものと別れゆく運命にある名まえだとか。なるほど。

 物語の展開は、『不思議の国のアリス』を思わせるファンタジーの王道です。
 草野球をする友だちをしりめに、「ホームランのへい」を越えて花を捜しにゆくと、サヨナラが白くて丸いもの(花の妖精ウイラー)を追いかけて走り出し、トンカチは、白ウサギを追うアリスさながらに、白い愛犬を追って別世界へ入りこみます。

 もとはへいの向こうは古い屋敷跡の廃墟でした。“屋敷跡”は作者(の一人。この物語は夫婦合作です)舟崎克彦の好きな原風景で、『ぽっぺん先生の日曜日』にも出てきます。
 しかしトンカチが迷いこむ所は森のようで、そこをぬけるとぱっと一面の花畑が広がっている。いわゆる心の深層にある“秘密の花園”なのでしょうね。くしゃみを止める花を求めて、“将軍”が、あらゆる花を集めてしまったのです。

 世界から花を盗んだともいえるこの“花将軍”はしかし、勲章がわりに花を胸に飾り、自分のくしゃみと戦う、人の好い人物です。彼と、仲間の動物たちのドタバタな日常は、ふつう冒険物語に出てくるような、団結した(または、団結しようと努力する)仲間たちとは、正反対です。
 彼らはどうも、もやもやぐずぐずしたトンカチの心のいろいろな思いの顕現のようで、一人一人勝手気ままに自分のやろうと思うことをやり、助け合うでもないしケンカをするでもない。仲がよいらしいけれど、別に友情というほどのこともない。いつも何かを捜して大騒ぎしている。

 そんな連中のもとでトンカチはあきれたり振り回されたりするけれど、彼の心がサヨナラを探し出して取り返そうという決意に固まるや、勝手気ままな仲間たちは突然、一致団結、トンカチに加勢してくれるのでした。
 そして、暗いぶきみな“モシモシの森”のワシミミズクからサヨナラを奪還して、一気に現実界に帰ってくると、身の回りに花ももどっている。結末はこれまた典型的で、ちょっとひねり足りない気もしますが、“花”はたぶん、愛とか希望とかの象徴で、それがトンカチの心の旅によって、深層心界から表へ現れ出てきたのでしょう…などと、…よけいな解釈かもしれません。
 
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これもすてきな休日――『ぽっぺん先生の日曜日』 (2006.4)

 『バムとケロのにちようび』という絵本について前に書きましたが、今日は舟崎克彦の『ぽっぺん先生の日曜日』です。
 ぽっぺん先生のシリーズはたくさん出ていますが、ファンタジーとはいっても、独特の味のあるかなりユニークな世界です。理屈っぽいナンセンス、なかば擬人化された動物や虫などのメルヘンな登場人物、するどい人間批判、…と特徴をあげていくと、『不思議の国のアリス』を思い出します。『トンカチと花将軍』や初期の「ぽっぺん先生」の舟崎吉彦は、和製ルイス・キャロルじゃないかと私は思うのです。

 それにしてもユニークなのは、児童向け長編ファンタジーなのに主人公がさえない独身中年男、しかも大学の助教授というこの設定です。小学生で初めてこの本を読んだとき、「助教授」というのは何なのかわかりませんでした。
 そんな浮世離れしたぽっぺん先生が、どの巻でもかなり浮世離れした冒険に巻きこまれるのですが、第1巻である『日曜日』では、子供のとき読んだなぞなぞ絵本の中に入りこんでしまいます。

 その春の日曜の朝、先生は自室の本の整理にとりかかっていました。そのわけは、

  あけがた、いやな夢をみてしまいました。書斎の本だなが、本の重みでいっせいにくずれおち、先生はその下じきになって、アンモン貝の化石のように、ぺったんこになってしまったのです。
  …〔本棚には〕父親がつかっていた皮張りのいかめしい洋書類や、先生自身の集めた専門書はもちろん、先生が子どものころ読んだマンガや図鑑、「おいしい鍋料理」といった母親の本までもがいっしょくたになっていて… ――『ぽっぺん先生の日曜日』

 いわば、先生(三十八歳)のこれまでの人生そのものといった感じの本たちです。それがギイギイきしんだあげく、くずれおちて自分を押しつぶしてしまう夢、というのは、何とも象徴的ではありませんか。

 先生は整理すべき古い本の中から、窓辺の鳥(ユング心理学では“鳥”は魂や精神の象徴)の影がたまたまその上でとまった絵本(「なぞなぞのほん」)をふと取り上げ、表紙をめくります。そして、絵本の中(=忘れ去っていた子ども時代の象徴)へトリップしてしまうのです。

 そこは、だれもが心の奥底に気づかず持っていて、時としてデジャヴ感覚を呼び起こすような原風景。たとえば、背より高いアワダチソウの原野。廃墟の庭園。からっぽの動物園。中味のない服たちの住むこれまたからっぽの町。井戸の底の暗闇。巨大なカボチャ畑。そしてミルク色の霧の流れる牧場。
 たとえば動物園に連れて行かれた幼い子どもの目に映り記憶に残るのは、ゾウやライオンそのものではなくて、ずらりと続く檻や植えこみ、売店などの景色ではないでしょうか。子どもにとっては、町で動き回る見知らぬ大人たちは顔がなく、その服装ばかりが印象的のではないでしょうか。
 そんなふうに考えると、一見、わけのわからない奇妙な景色ばかりでてくる「なぞなぞのほん」も、ぽっぺん先生が、子どもの目に戻って見つめなおした世界のありさまなのかもしれません。そして、そこには荒唐無稽な登場人物たちが、背景の景色のからっぽなもどかしさを埋めるように、いきいきと原色で現れてきます。
 たとえばへんくつな年寄りの桃色ペリカン。かくれんぼに興じるタヌキやダチョウ。すきとおった貝殻の中にタオルや石けんをしまい、虹色の足跡をひくカタツムリ。中国服を着てゆりかごをゆするイノシシ。めまぐるしく背中の星の数を変えるテントウムシ…
 そういった場面と登場人物が、「なぞなぞのほん」のページに従って、まるで演劇の場面が変わる時のように、あざやかに現れては消えていきます。だらだらと冒険旅行がつづくような昨今ありがちなファンタジーと違って、その場面転換の小気味よさ、すばらしさ。

 そして、最後のページまで来た先生は、昔、子どもだった自分が破いてしまったそのページの破れめである霧の中をさまよいます。今までのページの登場人物たちに追われたり、破いた部分に描かれていたピッコロ吹きの天使のような少年に導かれたりしながら、夢の出口へ向かうのです。
 そして、絵本=幼年時代の思い出から帰還した先生は、おかあさんの料理するけんちん汁の匂いをかぐのです。ああ戻ってきた、と安堵するようなこの終わり方、ふと私はセンダックの有名な絵本『かいじゅうたちのいるところ』を思い出します。この本でもかいじゅうたちのいるところへ行ってまた帰ってきた主人公マックスは、最後におかあさんの作ったほかほかの食事に迎えられるのです。

 …こんなふうに、あたたかな日ざしの日曜の朝は、なつかしい本でも開いてみると、忘れていた幼い心がよみがえって、なだれおちそうな現実をあたふたと過ごす日常に、ほっとあたたかい心をよみがえらせてくれるかもしれませんね。
 それにしても、ここんとこ雨ばかり続いて、ちっとものどかな春って気持ちになれませんねえ・・・
***関連***
 
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ぽっぺん先生と帰らずの沼



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真夏の白昼夢?『ぽっぺん先生と帰らずの沼』 (2006.7)
 私の敬愛する人物である、ウド大学生物学助教授のぽっぺん先生は、夏休み直前の人けない大学食堂の前庭で、定食(本日のランチ)を食べていました。じりじりと暑いセミしぐれ、ぎらぎらした日光、くっきりと暗い木陰。ニッポンの夏の、にじむような光と熱の中、1時8分で先生の腕時計が、突然止まります。

  先生はしょっちゅう授業や会議の時間におくれるので、いつも時計を八分だけ、すすませておく習慣になっていたのです。…考えごとをしながら歩くうちに道をまちがえて駅にかけつけるまでの時間。それらの思いがけぬ事故のためにかかる余分な時間が、ぽっぺん先生にとって、八分なのでした。 ――舟崎克彦『ぽっぺん先生と帰らずの沼』

 その人にとっての「余分な」時間とは、言い換えれば、授業や会議といった現実世界のためにではなく、その人自身の内界にかかわるためにとっておかれた特別な時間。それは、その人にとっての大切なファンタジー(非現実)の時間なのかもしれません。

 以前ご紹介した『ぽっぺん先生の日曜日』でもそうでしたが、先生(そしてほとんどの人間)は常に現実の予定に追われています。『日曜日』では、絵本の中にトリップした先生は、昼ご飯(けんちん汁)までに戻りたい、とか、明日の友人との約束までに戻りたい、とあせりますし、今回の『帰らずの沼』では、夏休みを控えて原稿の締切に追われているのです。
 そんな時に限って、現実の中にぽっかりと、ファンタジーが入りこんでくるようです。

 目の前をよぎる、世にも珍しい桃色のウスバカゲロウを追いかけて、先生はランチ(現実)を放り出し、ファンタジーの源泉たる「帰らずの沼」へとあとも見ずに夢中で行ってしまいます。
 そもそも先生が書こうとして書けない原稿は、この沼周辺の生物の生存競争について、というテーマでした。
 やがて追いかけていたはずのカゲロウそのものに変身したぽっぺん先生は、生存競争を身をもって体験しつつ、魚に食べられて魚に変身し、次にカワセミに、イタチにと、変身を続けます。そのたびに、変身した生き物らしく暮らそうと努力したり、または人間に戻ろうとあがいたりしながら、とうとう毒に当たったイタチとして沼のほとりで死ぬと、今度は土に還った死骸から生えたキノコになり、さらにアリに食べられ、そうしてやっともとの体に戻ります。すると止まっていた時計が動き始め、先生は何事もなかったかのように、ランチを食べ終えて現実生活に戻るのでした。

 何通りもの人生を生きて死んで、もとの自分に戻るまで、めまぐるしくも果てしなく思えた変身譚は、わずか8分間のできごとでした。けれど、驚きや悩み、悲嘆や愛の喜び、苦しみや死や誕生など、いろいろな感動のぎっしりつまったこの体験は、とうてい8分間にはおさめきれないものがあります。現実の時計では計り得ない、ファンタジー的な時空。だから、先生の腕時計は止まっていたのですね。 

 先生が自分自身(=現実)に立ち返ったところで物語は終わっていますが、たぶん先生はその後、悩みの種だった生存競争の原稿をすらすらと書き上げたことでしょう。

 この本は、小学生のころの私が熱烈に好きだった物語で、最初の数ページはまるごと暗記するほど読んでいました。ちょうど今頃の暑くてぼーっとなりそうな季節にぴったりのファンタジーです。
 たしかむかし、岸辺シローが先生の声役でアニメ化されましたが、残念ながらアニメとしては不出来だったように思います(原作に忠実すぎてセリフが長くわかりにくかった)。

 
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