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HANNAのファンタジー気分

HANNAのファンタジー気分

荻原規子「勾玉」シリーズ他

荻原規子「勾玉」シリーズ他

春の旅立ち――『空色勾玉』
思春期少女の内なる葛藤――『白鳥異伝』
女性の欠如――『薄紅天女』
荻原規子の新作――『風神秘抄』
笛吹きと舞姫、歴史を動かす――『風神秘抄』
異界としての現実世界――『風神秘抄』

空色勾玉
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春の旅立ち――『空色勾玉』
 外界にひかれて、心の準備もなくポンと家を出る、春の旅立ち。ああ、この物語の主人公もそうだったな、と思い出しました。私の大好きな純日本ファンタジー、荻原規子『空色勾玉』です。
 彼女のデビュー作で、私に、(トールキン等々と違って)自分に近い年代のファンタジー作家として衝撃を与えてくれた作品。舞台は神話時代の日本。

 何かで読んだのですが、たとえばギリシャ神話には、神々の時代の次に“英雄の時代”があって、それは神の血を引く人間の英雄が神々とともに活躍する時代であり、次の“人間の時代(=歴史時代)”への橋渡しをしているとのこと。なるほど、ヘラクレスとかアキレスとか、女性ならトロイのヘレンとか、半神半人のスーパーヒーロー/ヒロインたちが活躍する物語は、面白いし、とても有名ですね。
 それに対して、日本には、神話と歴史をつなぐ“英雄時代”の物語があまり充実していないというのです。オオクニヌシやヤマトタケルなどが日本の英雄時代を担っているとは思いますが、たぶん、私たちの子ども時代には、戦前の教育の反動や高度経済成長の中で、そういう日本人の心のルーツみたいな物語は、注目されてこなかったのでしょう。

 で、日本の英雄時代復活!と思わせるこの『空色勾玉』なんですが、話を春の旅立ちに戻しますと、主人公の少女狭也(さや)は、春から夏への祭「かがい」の宵に出会った神の御子「月代王(つきしろのおおきみ)」に惹かれ、何の心構えもなく、輝(かぐ)の宮の采女(うねめ)になるため、まほろばの都へ旅立つことになります。
 もともと彼女は拾われ子で、自分のルーツを知りませんでした。しかし、15歳の祭の日に、楽人として村を訪れた人々から、自分が輝の宮に反抗する闇(くら)の一族の巫女姫であると教えられ、ショックを受けます。思春期の少女は、自意識過剰のあまり、周囲との強烈な違和感を感じてしまうというのを河合隼雄の本で読みましたが、狭也の場合、大人への仲間入りをする祭の日に、ほんとうの違和感・疎外感を味わってしまうのです。
 そのことが反動となって、天つ神の御子「月代王」についていくのですが、文字通り人間離れした存在である月代王に憧れこそすれ、どうして簡単に故郷を捨ててついていったのか、彼女はあとで分からなくなります。

  (なぜ、これほど慕わしいと思いこんでしまったのかしら。わざわざむかえにきてくれた一族の手をふりはらってまで、あのかたについてきてしまって)  ――荻原規子『空色勾玉』

 けれど、この旅立ちこそがすべての始まりだったのです。自分の出自を知り、これから進むべき道を知るために、運命が用意していたとしか思えない、突然の旅立ち。それは、狭也が大人になるために、避けては通れないものだったようです。

 子ども時代の狭也は、沼地の鬼と、神殿の巫女という2つの悪夢につきまとわれます。のちにそれは彼女の過去と未来を暗示した夢だったとわかるのですが、15の年まで彼女はその夢をずっと無視してきました。子どもにとって、過去や未来より大事なのは「今」なのですから。
 しかし、祭の日に彼女を迎えにきた闇の一族こそ、夢に出てきた「沼地の鬼」――彼女の過去(ルーツ)を明かすものでした。
 また、まほろばの輝の宮の最奥の神殿で、彼女は運命の相手となる稚羽矢が巫女の衣裳で座っているのに出会います。「神殿の巫女」の夢は、彼女の未来を示していたのです。

 こうして、狭也が自分の過去を知り、未来と向かい合うことで、物語はどんどん進んでゆきます。まほろばから、闇の一族の砦へ、さらに戦乱の中を再びまほろばへ。旅は続き、彼女は黄泉の国へも旅します。そしてついには闇の女神の巫女として、天つ神に女神の言葉を伝えるという、大業をやってのけるのです。

 このお話の下敷きには古事記や続日本紀にある神話があって、つまり、まほろばの都は奈良盆地のようであり、月代王はツクヨミノミコト、その双子の姉照日王はアマテラスです。「できそこないの弟」と言われ、のちに狭也の運命の人となる稚羽矢はスサノオで、後半には、こういったキャラクターの持つ神話的象徴性がストーリー展開とぴったりマッチして大スペクタクルを繰り広げ、何とも心地よい大団円を迎えます。
 そんな神話的スケールの大きさも、発端は、人生の春を迎えた一人の少女の、思いがけない旅立ちから始まるのです。

  『フロドよ、自分の家の玄関を出て行くということは、危険な仕事なんだよ。・・・この小道は外でもない、闇の森を通るその道なのだ。・・・離れ山だろうと、ほかのもっと遠い、もっと怖い所だろうと、お前を連れて行ってしまうその道なのだ。それが、お前にはわかっているかね?』  ――トールキン「指輪物語」『旅の仲間』より、ビルボの言葉。瀬田禎二訳

 
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白鳥異伝
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思春期少女の内なる葛藤――『白鳥異伝』 (2005.11)

 思春期少女のファンタジー、つづきです。
 以前紹介しましたように、アリソン・アトリー『時の旅人』で語られる歴史的悲劇を、心理学者の河合隼雄は、少女が大人として生まれ変わる時の内界のドラマだとみなしています。
 マーガレット・マーヒー『足音がやってくる』の幽霊騒ぎも、主人公の姉(十三歳)の内界の反映だと、彼はとらえます(河合隼雄『ファンタジーを読む』)。
 私は“思春期少女の心理的大変化が、外界の変動に反映する”というファンタジー的な発想を、とても面白いと思いました。が、『時の旅人』『足音がやってくる』は、どうもその具体例としてはしっくりこないように思います。

 前置きが長くなりましたが、『白鳥異伝』を読んだとき、私は「これぞ思春期少女の内界のドラマだ!」と思いましたので――、そのとても分かりやすい構成をちょっとまとめてみます。

 主人公の遠子(とおこ)は、巫女の家に生まれた少女で、その明るく元気で一徹なこと、誰も彼女にはかないません。ピュアで無敵というところは、「プリキュア」などで紹介した無垢にして最強のヒロインたちと共通です。
 一方、幼なじみの小倶那(おぐな)は、遠子の影のような存在で、二人は分かちがたく結びついています。
 やがて小倶那は都へ行くことになり、

  「…もう一度会えるときまで、お宮になんか行かない、女になんか絶対にならないわ」 ――『白鳥異伝』

 と、遠子は再会を約束して彼と別れます。そのまま四年、彼女は男勝りの少女のままで待ちました。

 ところが小倶那は「おろちの剣」を振るう最強最悪の存在として再登場し、遠子の国をほろぼし、彼女の家族や平穏な生活のすべてを奪ってしまいます。
 …突然、現れたエイリアンのような男性に、家族の絆もそれまでの生活もめちゃくちゃになるほど、動揺させられてしまう。『スター・レッド』で異星人エルグの出現が、無敵の少女セイを動揺させるのと、次元は違うものの、どこか似ていますね。

 ただ、よりいっそう最悪だったのは、エイリアンのような男性が、幼なじみの小倶那が変貌したものだった、という事実でしょう。あまりのことに、

  「小倶那はわたしが殺します」 ――『白鳥異伝』

 遠子は戦士になる決意をして、巫女の血筋に伝わる勾玉を求めて旅をするのです。
 ここで彼女は、大人の女性になることをはっきりと拒み、最強の少女戦士として探索(クエスト)をするのです。主たる武器は、少女戦士にふさわしい女性的魔力の象徴「勾玉」。せきとめられた成長の力のかわりに魔力を集め、針の切っ先のような頂点へのぼりつめてゆく、少女戦士のパワーのするどくまばゆいこと!

 ところが、苦心の末、ようやく倒すべき相手の前に立った遠子は、どたんばで崩れてしまいます。彼女には小倶那を殺すことができなかった。それを自覚するショックと同時に、

  鈍痛をともなった重苦しいものが遠子の体を下っていき、血痕となって裳すそに現れた。 ――『白鳥異伝』

 この瞬間、せきとめられていた成長の流れが初潮となってあふれ、彼女は文字通り、大人の女性になったのです。
 そのときの身心両方の痛みと衝撃、動揺と無力感。遠子は海にのまれ、最強の「少女」は「死んだ」のです。
 別人のようになって浜へ打ち上げられたとき、遠子はすでに勾玉を手放し、無力なひとりの女性になっていました。

 遠子という少女が大人になるまでに、幼い絆はことごとく失われ、男性=「おろちの剣」は世界に破壊をもたらします。そのすべてに真っ向から立ち向かう少女は、力の頂点で死んで、海に散ります。
 何とすさまじい、疾風怒濤のドラマでしょう。

 そのドラマの末に生まれ変わった女性である遠子が、どんなふうに小倶那を愛し、彼を獲得して失って、また最後に得たか――それがこの物語のラストのクライマックスですが、その話はまた後日。
***関連***思春期少女の内なる葛藤?――『時の旅人』
 
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2005-10-26 22:32:37
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今日届いた本:荻原規子の新作『風神秘抄』 (2005.10)

 勾玉三部作で和風のファンタジーのすばらしさを教えてくれた荻原規子の「和」の最新作と知って、迷わず注文。この人の文章は、舞台設定やテーマに比べれば軽いところもあるけれど、その軽妙さが好きです。
 今度のは平安末期だそうで、日本史にうとい私には大いに勉強にもなるでしょう!

 私は、読んだ物語の舞台とか歴史的背景をさぐるのが大好きなんです。いつも物語に影響されて、かなり独断と偏見な見方をしちゃうんですけども・・・。

 荻原規子では『空色勾玉』『白鳥異伝』を読んでから、物語に出てくる神々や、ヤマトタケルの原像を求めて『古事記』やその周辺の本を読み返しました。
 『薄紅天女』は坂上田村麻呂とエゾの人々が出てきたので、その後、友人にすすめられるまま、高橋克彦『火怨―北の燿星アテルイ』を読みました。
(『火怨』の方は、ファンタジーぽいところも多かったけれど、やっぱりハードな歴史物で、特にラストは、ファンタジー慣れした私には、あんまり救いがなくって、うーん、ちょっとヘヴィーでした。)
 
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笛吹きと舞姫、歴史を動かす――『風神秘抄』 (2005.10)

 やっぱり寝不足になってしまいました。荻原規子の小説は、読み出したらやめられません!
 孤独な笛吹きの若者と、天女のごとき舞姫。捕らえられた少年・源頼朝。まだ若き後白河法皇。そしてカラスの鳥彦王。登場人物が出そろったあたりで、結末がだいたい予想されるんですが、それでもやめられない。

 第一に、一見地味な主人公・草十郎の、魅力的な設定。

 生まれ:板東武者の父と、遊芸人の母。
 境遇:平治の乱で源義平に従い敗北。生きる道をなくす。
 才能:野山で笛を吹いては生き物を呼び寄せ、戦いでは音律を読んで相手を倒す、誰にも知られぬ音楽の天才。鳥彦王とも会話できる。
 性格:天涯孤独、まじめで朴訥、自分の才能に気づいていない。

 彼が独り野山で笛を吹く場面は、さほどきっちり語られているわけではありませんが、とても印象的です。ギリシア神話のオルフェウスみたい(この世から失われた愛する女性を取り戻そうとするあたりも、ちょっと似ています)。
 そして、思い出したのが、三十年ほど前のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で草刈雅雄の演じた(この時がデビュー)、超かっこいい漂泊の笛吹き、鹿島玄明。時代はちょっとずれるけど、板東だし、笛吹きだし、何となく近寄りがたい雰囲気は、まさに草十郎。

 対するヒロインは、これまた天才的舞姫、糸世。天女のような清らかさなのに、中味はわりと普通の、活発でおしゃべりで多感な女の子。荻原規子おなじみの、というか、昨今のファンタジーに共通する、元気なヒロインです。

 時代が平安末期までくだったせいか、これまでの勾玉三部作に比べて、自然や神々との交感や、能力者・人外の者たちの援助は少ない(鳥彦王はいるけど)のが、個人的にはさびしいです(代わりに人間、たとえば幸徳などがここぞという時は援けてくれるのですが、人間なのでちょっとご都合主義っぽい)。
 が、糸世と草十郎の舞と笛が合わさる場面、天から花が降ったり、金色の光の糸が見えたり、そのこの世ならぬ異空間の描写は、人間くさい歴史物の中でいっそう輝きを放って、すばらしいと思いました。

 二人の恋も純粋で一途ですてきなのですが、彼らが源頼朝や後白河法皇の運命を変え、ひいては歴史を動かした、という筋立てが、「その時、歴史が動いた」(NHK番組)みたいで、見事です。
 
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異界としての現実世界――『風神秘抄』 (2005.11)

 最近の一押し・荻原規子『風神秘抄』の中で、今日は一つだけ気になってしまったことを。

 この物語は平安時代末期を舞台にしたファンタジーですが、1カ所だけ、登場人物の目を通して“現代”が描かれています。
 舞姫・糸世が忽然と消えて異界へ行ってしまい、最後に草十郎によって呼び戻された時、

  「…わたし、まるっきり別の世界にいたの…」
  「そこには想像もつかない楼閣があって、わたしは自分の部屋をもらって『診察』とか『入院』とかをしたのよ。…いやだったのは、住む場所のほとんどが、なめらかな石や金物でできていることよ…灯さえもが透ける石なの」 ――『風神秘抄』

 と話します。糸世はこの世界を「とう利天」と呼びますが、これは実は現代の世界であり、彼女はおそらく心の病気とみなされて病院に入れられていたのだろうと思われます。

 基本的に現実世界と切り離された世界を扱うハイ・ファンタジーで、このように、突然、現代の世界がヒョッと顔を覗かせると、かなりインパクトがあります。というか、私には違和感がぬぐえません。
 最初から現実世界との交流があったり、物語の外枠として現実世界があるようなファンタジーなら、構わないのです。ただ、『風神秘抄』のように、ずっと一貫して第二世界だけで物語が展開してきて、大団円という所で突然、「診察」だの「入院」だの、透ける石だのが出てくると、何だかそこだけ、奇妙にういているように感じます。
 糸世が飛ばされた別世界が、現代である必然性はあったのでしょうか? 何ならほんとの「とう利天」であった方が、しっくりしたように、私は感じます。

 理由の一つは、ハイ・ファンタジーにはめこまれた「現代」には、どうしても作者のあからさまな現代文明批判みたいなものが見えてしまうところ。糸世の目から見た現代を描く、という試み自体は面白いとしても、“石や金物ばかりの生気ない世界だった”では、ちょっと陳腐というか、とってつけたみたいな現代の描写です。
 私の感覚では、そのような真っ向からの現代文明批判は、SFの領域であるように思うのです。

 紀元前三万年の原始時代を描いたジーン・アウルの『大地の子エイラ』にも、最後の方でクロマニヨン人の少女が、幻視の中で現代文明をかいま見ます。これは人類の進化の流れを見通す中で示されるので、無意味とは思いませんが、しかし、一足飛びに現代の景色が見えてしまうと、かえって人類や文明の歴史の長さを感じにくくなるような気がします。

 B・エヴスリンによるアイルランド英雄伝説の再話『フィン・マックールの冒険』でも、最終章で収穫の女神アマラに身をゆだねたフィンが、幻視の中で、

  「…焼き尽くされた低い山々と、海がちらりと見えました。それと、あたり一面に群がっている金属のトカゲどもの姿が。そいつらは大地を切り裂き…大気を茶色の油臭い臭気で汚しているのです」 ――『フィン・マックールの冒険』喜多元子訳

 フィンが、鉱物の怪物ヴィルマークや宿敵ゴルに立ち向かうのに、緑の大地の加護を得るのは分かります。でも、わざわざ未来である現代を持ち出して批判すると、どうもせっかくの英雄伝説がお説教くさくなるような、私はそんな気がしてなりません。

 糸世ちゃんの楽しいおしゃべりに、現代文明批判は似合いません。彼女のすばらしい舞の方がずっとずっと、あからさまに何も言わずとも、読者である現代文明人に訴えかけるものを持っていると思います。
 
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