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HANNAのファンタジー気分

HANNAのファンタジー気分

宮崎アニメとその原作

宮崎駿監督のアニメとその原作

「ハウルの動く城」
  現代的青年魔法使いの自立(HPへ)
  ハウルはやっぱりイマドキの若者だったのね
  アイドルから「主人公」へ。ハウルのレベル・アップ
「魔女の宅急便」
  『魔女の宅急便』――スタートの季節に
「借りぐらしのアリエッティ」
  地味だけど緻密だった『借りぐらしのアリエッティ』
「ゲド戦記」
  未消化。ジブリの「ゲド戦記」

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「ハウルの動く城」――ハウルはやっぱりイマドキの若者だったのね (2005.5)

 今ごろになってやっと「ハウルの動く城」の原作を読んでます。

 映画を観たとき、キムタクの声がはまりすぎていたので、「キムタクって、ハウルだったのね」と思いました。現代のモテ男キムタクが、なぜ魔法使いにぴったりはまるのか? ってそれはつまりハウルが、魔法使いっぽいというよりは、あまりに現代青年っぽい言動をするもンだから・・・などと。

 でも原作読んだら、なるほど。ハウルって根っからのファンタジー界の住人ではなくって、現代のウェールズのイマドキの若人だったんじゃないですか。
 だからキムタクだったんだ。納得、納得。
 
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「ハウルの動く城」――アイドルから「主人公」へ。ハウルのレベル・アップ (2005.7)

 『魔法使いハウルと火の悪魔』を再読しました。2度目は、映画を思い出しながらじっくりと。

 原作はファンタジー的な舞台、小道具、筋立てをうまく使いながら、でもあくまでテーマは“ソフィーの恋”。女性作家ならではの少女漫画な(これ決してけなし文句ではありません、本質がピュアだということです!)物語でした。
 どんなにうぬぼれ屋のダメ男くんであろうと、その実力と笑顔があれば、ハウルは理想の王子さま。90歳の老婆でも恋するほどの。

 宮崎駿監督のすごいところは、このベタベタな性格と魅力をそのままに、自分の描き続けていることをしっかりとハウルにプラスして、しかもそれが破綻なく、かえって原作ハウルよりぐっと人間的に深みを増した宮崎ハウルがちゃんとできあがっているところ。

 その一つが、空を飛ぶハウル。自由に空を飛ぶことは、宮崎アニメ永遠のテーマですよね。
 それから、戦争。たぶん、(私にはわかりませんが)あの世代の人たちは、原体験として、描かずにはおれないのでしょう、美しい空をうめて飛来するぶきみな飛行機群、それを見上げて右往左往するしかない地上の人々の無力さを。

 黒い色に合わせたドアの通じる世界を、ハウルの現世的逃げ場ではなく、ほんとうに真っ黒な戦争のただ中にし、そこでのハウルを宮崎さんのオリジナル・キャラとして創ったこと、その怪鳥じみたハウルをも愛すソフィーを描いたこと、これが映画のハウルを「主人公」級にしていると思います。

 …少女のアイドルから人間的な「主人公」へ。これってやっぱりキムタク?
 
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『魔女の宅急便』――スタートの季節に (2008.4)

 4月1日って、真新しい気持ちがします。個人的には、今年はさほど変わったこともないのだけれど、桜も咲き始めて外が明るくなり、何だかシャッキリとスタート気分。
 こういう気持ちにぴったりな本といえば、新米魔女が新生活を始める『魔女の宅急便』でしょう。今や宮崎アニメの古典ですし、原作の方も小学生の女の子必読!って感じ。昔の『赤毛のアン』みたいですね。

 原作は次々に続編が出ていて、もう5巻、主人公のキキが成人するところまで達しているそうです(未読です)。
 少女のティーンエイジものを年代を追って5冊も書くなんて、すごいと思います。というのも10代の女の子って、疾風怒濤時代というか、身も心もどんどん変わっていく時期で、キキという一貫した人格としてそれを追いかけていくのは、とても難しそう。

 私はアニメを先に観てしまったんですが、原作の雰囲気を壊さず、しかも宮崎アニメらしく劇的展開を最後にもってくるところは、さすが。もちろん、“エピソードの連作”というかたちの原作とは、物語の構成が違っていますが。

 私がいちばん気になるのは、アニメのキキが13歳にはとても見えないところです。これは原作を読む前から気になっていました。いくら素直で天然な性格だとしても、キキの言動は幼すぎ、無邪気すぎます。10~11歳ぐらい(=「となりのトトロ」のサツキぐらい)に思えます。「風の谷のナウシカ」が14歳(映画では16歳でしたか?)なのと比べても、余りにも子供っぽすぎ。
 男の子なら13歳でもあんなもん(と、キキと友達になるトンボを見て思いました)でしょうが、女の子はもっとませていて、もっともっと、何考えてんだかわからない雰囲気があるのでは?
 だから、アニメの方は、いくらお届け物の仕事をしていても、“大人への第一歩”という感じがあまり私には伝わってきません。子供が大奮闘しているように見えてしまう。 

 で、原作を読むと、少し安心します。原作のキキはもう少し年相応。大昔、自分が13歳だったころを思い出すことができました。
 13歳を過ぎてしまっていても、新しい4月に、肩ひじ張らない自然体のやる気を起こさせてくれる物語です。
 
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地味だけど緻密だった『借りぐらしのアリエッティ』 (2010.9)

 本日、最終日だったので観てきました。ポニョの大騒ぎに比べると、世間の評判も映画の内容もぐっと地味で、でもトトロあたりの作品に回帰したような緻密さと真面目さが感じられました。

 むかし「ウォーターシップダウンのうさぎたち」のアニメ(イギリス)を観て、野原の草の茎一本、葉っぱ一枚までなんと細かく正確に、美しく描き出してあるのだろう、これは日本のアニメではやらないことだなあ、と思いました。でも「借りくらしのアリエッティ」の景色のこまやかさは、それを超えた感じがします。
 小人の話ですから、景色も虫眼鏡で観たような細かさが大切。床下にさしこむ日光から壁紙の織り目まで、マニアックなほど緻密ですばらしかったです。宮崎監督、今日びのCGや3Dに対抗しているんでしょうね。

 珍しくほとんど空も飛ばず(野性的な小人スピラーがむささびみたいに一瞬飛んでましたが)、舞台も古屋敷の敷地内に限定されています。でも時々、アリエッティが広くて大きい人間の部屋を初めて見るところとか、敷地のはずれから町並みを見晴らすところとか、ぱあっと広角になる景色があって、そのパノラマが印象的でした。

 物語は「ハウルの動く城」や「魔女の宅急便」などと比べて、ずっと原作沿いになっています。アリエッティと友達になる男の子は、日本人になっているけど、病弱という点では同じだし、ちょっと騒ぎ屋さんのホミリー(お母さん)は外見も中身も原作とあまり変わっていません。
 男の子がアリエッティのことを「小人の最後の一人になっちゃうかも」と言って彼女を怒らせるところなど、せりふにも原作を意識したところがたくさんありました。
 きっと宮崎駿さんというのは、『床下の小人たち』を読んだあと、物語を自分の身近な舞台(現代の日本)に移し替えて味わい直したのでしょうね。ファンタジーというのはそういう読み方もできるんだなあと、改めて思いました。
 私は洋ものや異世界ファンタジーを読むと、そちらの世界のほうへどっとはまってしまうたちで、宮崎駿さんのように、ファンタジーを自分色の世界へ引き寄せるということは、したことがありません。ファンタジーの「宮崎流語り直し」が、原作世界を壊さず、尊重した上で、また違った味わいを持たせることは、何作品観ても驚きですね。

 そしてまた、宮崎流の「アリエッティ」は、小人族を「ほろびゆく美しい種族」と定義することによって、今はやりの「生物多様性の大切さ」をしっかり訴えています。また、父・母・娘が助け合うアリエッティ一家と、孤独な男の子(でも大きな屋敷を相続するのかもしれない)翔を対比させて、現代の家族の形をも問うています。

 そんな高尚なテーマに思いをはせつつ、映画ではお手伝いのハルばあさんの俗っぽさに思わず笑いを誘われました。声の樹木希林そのまんまの顔のこの人、アリエッティから見ると「悪役」なんですが、ホミリーを捕らえた時にも珍しい虫をつかまえた子供のような無邪気さがあって、憎めません。
 それにしても、今回も声優陣にはきら星のごとく大物俳優さんがそろっていますが、これって宮崎駿さんの趣味、なんですかねえ。
 
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未消化。ジブリの「ゲド戦記」 (2006.9)
 大阪・梅田の映画館では今日が最終日だったので、観に行ってきました「ゲド戦記」。
 いろいろ評判を聞いていたので、それなりの覚悟?はしていました。が。
 うん、ひとことで言ってこれは、原作ファンがつくった、パラレル(ドリーム)小説、ですね。なぜって、原作を知らない人が観ると、きっとよくわからない所が多い(舞台設定とか人物設定とか)し、原作を知っている人は、同じノリで楽しめる人と、原作とちがうじゃないかっ!と思う人とに分かれそう。

 私は、映画と原作との違いは、いつもそれほど気にならないたちなので、映画は映画なりに別のすばらしさがあればいいな、と思っていたのです。が。

 どうしてもパパ(宮崎駿)と比べてしまいますが、パパ宮崎監督の作品は、原作を大きく変えて作ってあっても、そこには必ず監督自身のカラーというか主張というかがはっきりあり、原作から設定の一部を借りているけど中身は宮崎映画の良さがいっぱいに詰まっているので、「魔女の宅急便」とか「ハウル」は、とても楽しめました。
 でも、息子(宮崎吾朗)の「ゲド戦記」は、彼自身の主張が見えません。原作のいいところと、ジブリのいいところと、パパ宮崎の「シュナの旅」のいいところを、壊さないように注意深くまぜあわせた感じがして、なんか遠慮しているみたい。
 観た後でパンフレットを読んだら、この映画はいろんなところにパパ宮崎の影が色濃く落ちていて、たとえば、印象派の絵画みたいな美しくもなつかしい背景も、なんですって、パパ宮崎が「クロード・ロラン」とヒントを出したのですって。
 アレンと同様にできすぎる父を持つ吾朗監督も、せっかく物語冒頭でアレンに父殺しをさせているのだから、映画作りでももっとパパ宮崎をずばっと切って落としちゃって、自分色を追求すればよかったのに・・・なんて、言うのは簡単ですけど、やっぱり難しかったんでしょうねきっと。

 物語の筋も、はっきり言って、未消化。せっかく新しいストーリーを持ってきているのに、もっととことんその独自の話を追求してほしいと思いました。
 たとえば、そのアレンの父殺し。原作の訳者清水真砂子氏がパンフレットで語ってましたが、このアイデアは良い!と思います。原作のアレンは、登場した時まっさらな優等生で、ちょっと理想的すぎ?と私なんかは思ったからです。
 でも、父を刺して王家の剣を奪うにいたったアレンの心の闇が、どんなものなのか、はっきりわからないままでした。

  「不安で、自信がなくて、」「時々自分では抑えられない位、凶暴になってしまう」
                        ――アレンのせりふ

と、説明はされていますが、父を刺す前のアレンがどのように情緒不安定になっていたのか、せめてワンシーン、回想でも夢でもいいから、欲しかったような気がします。女官の口から「なにやらふさぎこんで」と説明されるだけで、彼自身のせりふや映像がありませんでした。
 泰然自若とした父を見ていていらだっちゃったとか、昨今の災厄の噂に不安をかきたてられていたとか、父が自分を一人前と認めてくれないとか、城で自由がきかないとか、なにか日々のストレスがあったのか?
 ありきたりなことであっても、王である父を刺すという物凄いことをしてしまうのだから、その理由とまでは言えなくても、何か前段階があるはずでは? それとも・・・近頃ニュースをにぎわしている数々の事件のように、前触れもなくいきなりキレてしまうのが現代風なのでしょうか。

 そして、彼の「影」との対決(あるいは融和)はどうなったのでしょう。悪の魔法使いクモとの対決の直前、アレンの「影」が彼自身を助ける方に動いて、少女テルーとの交流はあるのですが、それっきり。原作を読んで若き日のゲドが自分の影をあれだけ苦労して追い、追われ、最後に一体化する物語を覚えている人はみな、アレンにも影との決着をつけてほしいと思うのではないでしょうか・・・

 最後に、やけに晴れ晴れと、国に帰ってつぐないをする、とテルーに語るアレンですが、これもちょっと短絡的では? 第一、父王は死んだか、それとも刺されたけれど命はとりとめたのか、観る方はすごく知りたかったです。もし、父が死んでいたら、いくらクモを倒した英雄とはいえ、父殺しの汚名はぬぐえません。帰国すれば即、死刑かもしれません。
 それに、アレンは殺した(と信じている)父のことや祖国の混乱を思わないのでしょうか。優しい父だったのにな、とか、やっぱり憎らしかった、とか、王が殺されたことで周りの人々や自分の国(将来になうはずだった国です!)がどうなってしまっただろうとか、・・・いろいろ感じたり思い出したりすることがあるでしょう。口に出して語らなくとも、そのあたりをもっと表情に出してほしかったです。

 そんなこんなが、未消化に思われたこの映画だけを観る限り、アレンの自己探求の旅はこれからが本番だろうという感じがします。ジブリに続編はないとは思いますが、この「ゲド戦記」には続編が欲しいです。そして、アレンをもっと深く描いてりっぱな王にまで成長させてほしいな、と思いました。
 
 
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