哲学的SFコミックス『ワン・ゼロ』
私はコミックスは絵から入るタチで、内容以前に絵の第一印象で好き嫌いをしてしまうんですが、佐藤史生とも、『夢みる惑星』の画集の表紙(銀髪の神官イリス)に一目惚れしたのが出会いでした。 が、それとは別ルートでこの『ワン・ゼロ』に出会って、なんというかすごーく衝撃を受けました。以前とりあげたあのSFの名作『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍)の解説で、中島梓(=栗本薫)が「(この本を)読んで、私はSFの哲学に目ざめた。」と書いていますが、私も真似をして言うなら、『ワン・ゼロ』で私はSFの哲学に行きついた、という感じ。 それは1985年のこと(何て昔でしょう)。すでにトールキン・マニアだった私は、トールキンに関する特集が載っていた「幻想文学」(今は亡き季刊誌)を買いましたが、その巻頭にある“耽奇漫画館”というページで、小鬼のような顔でニヤリと笑うビローチャナと出会ったのでした。まさかその妖気漂う魔性の顔を描いたのが、うるわしいイリスを描いたのと同じ作者だとは思えませんでした。 で、とにかく『ワン・ゼロ』を読んだら一気にはまってしまったんですが、それというのも、私を惹きつけた面妖なビローチャナが、インド神話のアスラ(魔族)の王で、つまり『百億』に出てくる「あしゅらおう」と同一人物(神物というべきか)だったからなんですね。 少し前に『百億』を読んで、「おおっ」とうなって、岩波文庫のインド神話『リグ・ヴェータ』なんかを酔ったように読んでいた私には、『ワン・ゼロ』のアスラ王ビローチャナはトドメの一撃でした。 『百億』では絶対者(=神、ミロク)と永劫にわたって戦うのが「あしゅらおう」を筆頭に、幾度も生まれ変わる「プラトンのおりおなえ」「シッタータ(=釈迦国の太子)」ですが、『ワン・ゼロ』では、絶対者(者というよりその力=全宇宙に偏在する神通力)と戦い続けてきた「ビローチャナ」とディーバ(魔)族の生き残り3人が、近未来(1999年)に生まれ変わります。 そして、絶対者の力の代行者として『百億』に「ナザレのイエス」が登場するのに対し、『ワン・ゼロ』では一人の美少女が「覚醒した者」として女神のように人々を導こうとします。 佐藤史生もSFな漫画家ですから、『百億』を知らないはずはありません。とすると、ひょっとして『ワン・ゼロ』は佐藤版『百億』なのかなあ、などと思えてきます。 どちらも、欧米型ファンタジーでは善なるものであることの多い“絶対者=神”を、人類をコントロールしようとする恐るべき力として描き、主人公たちはそれに抗う側(阿修羅とは、帝釈天(インドラ)に刃向かう魔族)です。 そして、その戦いの主人公たちは、『百億』ではプラトンやシッダルタ、イエスなど哲学史上の偉人であるのに対し、『ワン・ゼロ』では、一見ごく普通の十代の若者たちと、彼らが神木の根本から掘り起こした幼児の姿のビローチャナなのでした。 『ワン・ゼロ』ではその永劫の戦いの図式に、ジョーカーというべき少年都祈雄(トキオ)と、自ら思考するコンピュータ「マニアック」が加わります。そして、読み進むにつれ二元対立的な戦いからだんだんもつれて錯綜してゆき、そのごちゃまぜ具合が何とも現在現実そのままな混沌で、『百億』のような透明でもがく余地もない未来像とはちがい、可能性(再現性)を残した未来へつなげて終息します。 次回へつづく。